第24話 あなたに向いている身体です
三日後の午後一時五十四分、雨宮ネネは東別棟の第七面談室の前で、三度目の書類確認をしていた。
本人確認票。申立ての受付控え。四月十四日から十六日までの処理時刻が並んだ索引。質問を書いた紙は、昨日の夜に清書してきたものだ。これだけあれば、少なくとも窓口で「必要書類がありません」と追い返されることはないだろう。
昼過ぎに相談室を出るとき、職員証は鞄の内ポケットにしまった。今日、ここに持ち込んだのは自分の申立てに関する書類だけだ。
あとは、自分が何を聞きたいか忘れなければいい。
「……そのために書いたんだけど」
小声でつぶやき、ネネは質問票の角を揃えた。耳が緊張すると前へ傾くのは、いまだにどうにもならない。受付の職員がちらりとこちらを見るたび、立ち聞きしているつもりはないのだと説明したくなった。
廊下の壁には《一人ひとりに寄り添う転生を》という標語が掲げられている。その下のベンチは、一人ひとりの尻尾には寄り添っていなかった。座面に切れ込みがなく、腰を下ろすと短い尻尾が挟まる。ネネは一度座ってみて、すぐ立った。
「標語だけじゃなくて、椅子も寄り添ってくれればなあ」
ここは身体形質を選ぶ部署に通じる廊下なのだから、いろいろな身体の人が来るはずである。改善提案書はどこに出すのだろう。そう考えたところで、今日は提案に来たのではないことを思い出した。
自分のために来たのだ。
二時ちょうど、扉の脇にある名札が裏返った。
《面談中》
「雨宮ネネ様、お入りください」
中から聞こえた女性の声に、ネネはひとつ息を整えた。
*
第七面談室には、二人掛けの机と記録用の端末があった。壁際には書類棚、その上には造花の鉢が一つ。どこにも魔法陣も、身体を変えるための大きな装置も見当たらない。
迎えた女性は四十代半ばくらいに見えた。薄い灰色の上着を着て、名札を胸の中央につけている。
「優先配属調整課の鈴原澄子です。本日は私が説明を担当します」
「雨宮ネネです。よろしくお願いします」
「先にお伝えしておきますが、私は当時の候補選定に携わった職員です。記録そのものの管理は身体形質選定管理室が担当しています。今日は私が行った判断と、確認できた資料についてお話しします。申立ての審査結果をお伝えする場ではありません」
「はい。通知にも書いてありました」
鈴原は一度うなずき、記録端末の画面をネネの側へ向けた。
「面談内容を記録に残してよろしいですか。お渡しする説明記録にも反映します」
「お願いします。あとから『聞いた』『聞いていない』になったら、また面談の予約が必要でしょうから」
「……それは、避けたいですね」
鈴原がほんの少し笑った。ネネは、その笑顔が気休めなのか、相手にも心当たりがあるのか判断できなかった。
「では、最初にご質問の多かった日付から確認します」
画面に四つの日時が並んだ。
《四月十四日 九時十二分 身体形質候補選定》
《四月十五日 十一時四十一分 身体形質確定登録》
《四月十六日 十時〇七分 庁内就業希望受付》
《四月十六日 十四時二十分 同申請審査着手》
あの索引と同じだった。
「換算の違いではないんですね」とネネが言った。
「はい。原記録の発生時刻を照合した結果、いずれも庁基準時としてこの順序です。十四日の記録が、後日まとめて入力されたものでもありません」
「つまり、私がこの庁で働きたいと申し込む前に、身体が決まっていた」
「候補の選定は、その二日前です。確定登録も、申込みの前日です」
ネネは机の下で膝を揃えた。すでに見ていた数字なのに、記録を扱った本人から聞くと、紙の重さが違った。
「でも、どうしてですか。私は十四日に、窓口の仕事を希望した覚えがありません」
「その点は、別の経路になります」
鈴原が画面を切り替えた。候補選定に使われた項目が、縦に並んでいる。
《前世職歴 市民協働窓口・四年》
《対応業務 申請受付/内容照合/苦情の一次対応》
《再就業支援希望 あり》
《形質適合分類 対人応対補助》
《受入先候補 庁内窓口業務ほか》
ネネの視線は、最初の二行で止まった。
「……ここまで見られているんですね」
「前世の職歴から、業務適性に関する情報が候補選定へ渡されています。全文ではありません。氏名や個別の相談者情報を伏せた、職務要約です」
「どんな仕事をしていたかは、わかる」
「はい」
「じゃあ、その仕事を好きだったかどうかは?」
「候補選定の項目には、ありません」
ネネは笑いそうになって、やめた。
前世の市役所で四年間働いたことは確かだ。来庁者の話を聞いて、申請書の不足を指摘して、間違った案内をしたときには頭を下げた。閉庁後に食べた冷たいおにぎりや、保留音を聞きすぎて覚えてしまった旋律は、この表には載っていない。
もちろん、全部載せろと言っているわけではない。履歴書に母から届いた梨の数を書く人はいないだろう。
それでも、四年間をこれだけに縮めれば、たしかにネネは窓口仕事に向いた人間に見える。
「私、仕事を探す支援はお願いしました。何かできることがあれば、とは言ったと思います。でもそれは……」
「庁内の仕事に応募することとは別の、一般の再就業支援の希望です。これを受けて、候補の照合が先に始まることがあります」
「希望した仕事が決まっていなくても?」
「はい。候補を作るだけであれば」
鈴原は、そこで一拍置いた。
「問題は、その先です」
*
画面の右側に、人の輪郭が現れた。
頭の上に細長い耳が二本。腰の後ろには小さな尻尾。まるで身体検査の説明図のように、前と横から見た姿が並んでいる。
ネネは思わず、自分の耳を触った。
「……私だ」
「正確には、当時選定した身体形質の仕様図です」
「似すぎていて、他人とは言えないです」
鈴原は説明欄を開いた。
《人間系基礎形質》
《兎系補助形質 聴覚帯域拡張/耳介可動》
《付随形質 短尾》
《主な想定用途 複数話者のいる相談・案内業務》
「これが、私の耳と尻尾を選んだ理由ですか」
「選定理由の一部です。候補地の窓口では、多様な種族の方が同時に話すことがあり、小さな声を聞き取りにくいという報告がありました。兎系の聴覚補助は、そのような環境への適性が高いと判断されました」
「なるほど。大きな耳なら、小さな声まで聞こえる」
「ええ。表情や声の変化に応じて耳が動くため、応対時の意思疎通にも役立つとされています」
「役立つ……」
窓口で、何度か助けられたことはある。列の後ろで小さく「痛い」と言った人の声も、ほかの職員には届かなかった物音も、この耳は拾った。
だが怒鳴り声を近くで聞けば頭が痛いし、心の中で悪態をつくと耳だけが先に動く。初めて制服を着た日は、更衣室で耳が引っかかって上着のボタンを飛ばした。
「聴覚のいい人が必要だったなら、耳だけじゃだめだったんですか」
「兎系形質は、単独の耳の装着では安定しない例があります。規格上は複合形質として管理されていて、短尾も組み合わせに含まれていました」
「……規格ですか」
「はい」
「尻尾のせいで普通の椅子に座れなくなる件は、規格に書いてあります?」
鈴原の指が止まった。
「座具の適合性については、受入先の設備で調整する扱いです」
「受入先に、私の椅子はありませんでしたけど」
「その点は、今ここで確認できている記録にはありません」
「あと、さっき待合のベンチにも尻尾の逃げ場がありませんでした」
言ってから、少しだけ意地悪だったかと思った。けれど鈴原は顔色を変えず、手元の記録に何かを書き加えた。
「設備についてのご指摘として残します」
「ありがとうございます。でも、ベンチの改善はあとでいいんです。今は、その身体を誰が決めたのかを聞きたいので」
鈴原が端末の上で両手を揃えた。
「最初の候補を選定したのは、私です」
ネネは、思っていたより動揺しなかった。誰かの名が必要だったのに、実際にその本人が目の前にいると、怒りより先に次の質問が浮かんだ。
「どうして、この形だったんですか。兎系以外の候補もあったんですか」
「ありました。人間系の基礎形質を維持する候補も、別の感覚補助を付ける候補も、照合対象になっています」
「その中で、私は兎になった」
「はい。窓口業務との適合性を高く評価しました。当時、庁内の相談窓口でも人手不足が続いていました。補助形質のある候補は、受入先への推薦順位が上がりやすかったんです」
先日の説明会で見た、きらきらした適性診断をネネは思い出した。《あなたの希望に最も近い順》と表示されていたのに、途中で不足人員の多い仕事が上へ来る仕組みだった。
「私が庁内に応募したから、兎にしたんじゃないんですね」
「応募の前に候補選定が行われていますから、そうではありません。先に身体の候補があり、庁内就業は、その候補に合う受入先の一つとして挙がっていました」
「私が応募しなかったら?」
「ほかの受入先を案内する可能性がありました。候補に含まれていることと、庁への採用が決まっていることは別です」
選定票の隅に、四角い枠へ斜線を二本引いた印があった。ネネは陸の相談記録や、自分の最初の申立て票にも、同じ印があったことを思い出した。
「この印は、どういう意味ですか」
「優先配属の候補と、別の記録を照合するための連携記号です。関連する受付票にも転記されます」
「じゃあ、本人が承諾した印というわけではない?」
「はい。それを表す印ではありません」
ずっと気になっていた印の意味が、ひとつわかった。だが、印が何を示さないかまで聞けたのは、もっと大きかった。
答えは、筋が通っていた。だから余計に嫌だった。
ネネは死んだあと、何か自分にできる仕事を探した。紹介された候補を見て、住む場所も食事も必要だからと、この庁で働くことを選んだ。選んだと思っていた。
けれど、その前に誰かが、彼女の四年間を見て「相談窓口に向いている身体」を選んでいた。
窓口に座ると便利だから。小さな声が聞こえるから。人手が足りないから。
そのどれも、仕事を任せる理由にはなるかもしれない。身体を決める理由になるとは、ネネには思えなかった。
*
「私の同意は、どこにあるんでしょう」
この質問をするために、ネネは今日ここまで来た。
鈴原は画面を戻した。候補選定の下に、細い線でつながれた項目が二つある。
《再就業支援への参加意思 登録あり》
《身体形質確定時の承諾照合 参照番号あり/原資料所在確認中》
「身体形質の確定登録は四月十五日です。その際、承諾照合の参照番号が記録されています。ただ、その番号が示す原資料を、まだこちらで確認できていません」
「再就業支援に申し込んだ記録を、そのまま使ったんですか」
「その可能性は、調べる必要があります。参照番号が、別の個別説明記録につながっていることも考えられます。現時点で、私からどちらだと断定することはできません」
「私は、耳や尻尾について説明を受けたんでしょうか」
「そこも、記録の照合が終わるまではお答えできません」
ネネは目を閉じた。
転生時のことを、全部忘れているわけではない。働く場所を探したことは覚えているし、目覚めたときに自分の長い耳を見て驚いたことも覚えている。ただ、その前に何を説明され、どの画面で何を選んだのか、記憶が途切れている部分がある。
だから、説明されていないと決めつけることはできない。
けれど、説明したと言い切れるものも、今はここにない。
「鈴原さんは、私がこれを望んでいると思ったんですか」
鈴原は少し考えてから、答えた。
「あなたに向いている身体だと判断しました」
「それは、私が望んだという意味ですか」
「……いいえ。少なくとも、私が候補を選んだ段階では、本人の個別の希望を確認したわけではありません」
ネネの耳が、すうっと後ろへ倒れた。
その答えが聞きたかったのかもしれない。もっとも、聞けたところで安心はできなかった。
「私は、生前も窓口にいました」
「資料にあります」
「そうじゃなくて、四年間、毎朝起きて、遅刻しそうになって、怒られて、こちらも間違えて、それでも次の日また出勤していました。仕事は嫌いじゃなかったです。でも、ほかの仕事を考えたこともありました。休みの日に映画に行くのさえ、なかなか決められなくて」
鈴原は口を挟まなかった。
ネネは、母の送った梨のことも、紗季と並んで座るはずだった映画館の席のことも話さなかった。それは今日の説明には関係がないし、知らない人に渡すには、まだ自分の中で大切すぎた。
「私は、人間として生き直すつもりでした。どんな姿になるか、ちゃんと自分で考えるつもりだったんです」
昔の自分の顔を、鏡でもう一度見ることはできない。あの顔のまま働く来世もあったのかと思うと、胸の奥が少し痛んだ。
「今の耳には、助けられたこともあるんです」
「……はい」
「小さな声が聞こえるのは、いいことです。困っている人に気づけたときは、これでよかったと思ったこともあります。それでも、耳が仕事に役立つことと、私が耳を欲しかったことは、同じじゃありません」
ネネは手を下ろした。もう耳を押さえない。
「私に向いている身体だから、私の代わりに決めていいわけじゃないでしょう」
鈴原の指が、記録端末の縁で止まった。
「……はい。その二つは、分けて扱うべきです」
すぐに謝罪の言葉が出てくるのかと思ったが、鈴原はそうしなかった。言葉を探すように、画面を見た。
「私たちが候補を選ぶときは、使える能力や受入先の条件を比較します。誰かが仕事につき、暮らせる場所を見つける手助けになると考えてきました。少なくとも、私はそう考えていました」
「そうだと思います」
「でも、推薦するための判断が、本人の意思を確かめる手続きを置き換えてしまっていたなら、それは確かめなければなりません」
ネネはうなずいた。今、鈴原が反省しているかどうかを判定するために来たのではない。必要なのは、どの説明がされ、どの承諾で確定したのかという事実だった。
「今日の話を、説明記録に残してください。私が聞いたことも、まだ答えが出ていないことも」
「承知しました」
「あと、この身体の候補を選んだ理由の文書も、写しがほしいです。私が閲覧できる範囲で構いません」
「提供できる範囲を、管理室へ確認します」
「回答する部署と、いつまでに連絡が来るかもお願いします」
言い終えてから、ネネは少し笑った。
「すみません。つい、窓口みたいに」
「いえ。きちんと聞いていただいた方が、こちらも記録を残しやすいです」
鈴原の返事には、不思議なくらい飾りがなかった。
*
面談の終わりに、鈴原は二枚の紙を差し出した。
一枚目は、今日の説明事項と未確認事項の控え。回答予定日には《五営業日以内に所在確認の進捗を通知》と書かれている。原資料が見つかる日を約束しているわけではないが、少なくとも「確認中」のまま放っておかれないための期限だった。
二枚目には、少し違う見出しがあった。
《身体形質・個別再評価のご案内》
「これは?」
「現在の身体形質について、変更の希望がある場合に行う個別の再評価です。説明記録の照合とは別の手続きになります。ご本人の負担を減らすため、希望があれば先に申込みだけ受け付けることができます」
「先に、ですか」
「はい。ただし、変更できるかどうかは別途審査が必要ですし、今ここで元の身体に戻せるとお約束するものではありません」
ネネは紙を受け取った。小さな枠が三つ並んでいる。
《現状維持を希望》
《変更の可能性について説明を希望》
《変更の審査を希望》
どれにも、まだ印はついていない。
「これ、今日決めないといけませんか」
「いいえ。持ち帰って考えていただけます」
「……よかった」
声に出してしまい、ネネは自分で驚いた。
鈴原は静かに言った。
「私が言うのも妙ですが、今日はお答えを急がないでください」
その一言に、ネネは初めて鈴原の顔をまともに見た。表情からは後悔とも疲れともつかないものが読み取れたが、少なくとも、今すぐどれかへ丸をつけろと言う顔ではなかった。
「わかりました。ありがとうございます」
立ち上がって扉へ向かう。椅子は意外にも尻尾を挟まなかった。座面の後ろに、小さな隙間がある。
「この椅子、よくできてますね」
「形質別の面談室なので、いくつか調整できる備品を入れてあります」
「廊下のベンチも、同じ担当にお願いできません?」
「……それは施設管理課ですね」
なんだ、やっぱり管轄が違うのか。
ネネは、つい笑った。鈴原も、今度ははっきり笑った。
*
第七面談室を出ると、廊下の時計は午後三時を少し回っていた。
窓の外を、配達用の紙鳥が二羽飛んでいく。片方は封筒をくわえ、もう片方は何も持っていない。仕事を終えたのか、これから仕事なのか、鳥の顔ではさっぱりわからなかった。
ネネは鞄の中で二枚の書類を分けた。説明記録の控えと、再評価の案内。どちらも自分のものだが、同じ引き出しへ入れたら、また混ざりそうだった。
ふと、相談室で聞いてきた何人もの声が蘇った。聖剣になりたかった包丁。のんびり暮らしたかった農村の青年。受入先の仕事を断れないと思い込んでいた人たち。
みんなが同じ手続きで困ったとは限らない。今わかったのは、自分の候補がどう選ばれたかという一部だけだ。他人の記録を勝手に確かめることもできない。
それでも、自分の身体のことを考えたとたん、ほかの人たちの顔まで浮かんでくるのは、ずいぶん職業病だと思った。
ネネは再評価の案内を見直した。
《ご本人の希望をお選びください》
選ばせてくれるのなら、今度は急いで丸をつけたくない。
廊下の端で、白瀬から短い連絡が届いた。
《面談、終わりましたか。明日の勤務に支障がある場合は、時間休の追加申請もできます》
ネネは返事を打った。
《終わりました。明日は普通に出勤します。あと、相談したいことがあります》
送信してから、慌てて一文を足す。
《仕事の相談と、私の個人的な相談は、ちゃんと分けて持っていきます》
少しして、白瀬から返信が届いた。
《それなら、書類も別々にしてください》
「そこまでわかってるなら、優しい言葉も一つくらい欲しいんですけど」
耳がぴんと立った。周りの誰も見ていないのを確かめて、ネネはそれをゆっくり伏せた。
この耳がなくなったら、少し寂しいかもしれない。
そう思えたことに、彼女は自分でも驚いた。嫌いになりきれないものを、どう扱えばいいのだろう。それを決める時間まで、誰かに奪われたくはなかった。
ネネは二枚の紙を鞄にしまい、階段へ向かった。
明日の窓口では、また誰かが「聞いていた話と違う」と言うだろう。そのとき、せめて相手が何を選んだと思っているのか、最後まで聞こう。
今度は、自分にも同じことをしてやりたい。




