第21話 『確認中』を確認する係は、どこですか
出勤して最初に雨宮ネネがしたのは、机の上に置かれた紙の山を数えることだった。
一、二、三、四。途中で数え直す。薄い紙が一枚、下の書類に貼りついていたのである。五つの束を数えるだけで二度失敗する職員に、複数世界の転生手続きを任せてよいのだろうか。
「朝から何を難しい顔で見ているんですか」
白瀬律が湯飲みを置いた。
「私の机です。昨日、帰るときは何もなかったはずなんですけど」
「夜勤からの引継ぎが三件、昨日の照会に対する返答が二件ですね」
「今の一言で全部わかるんですか」
「表紙の色が違いますから」
「前世の市役所にも、その機能が欲しかったです」
仕事を離れていた夜のあいだ、ネネは宿舎の食堂で本を読んだ。温かい飲み物が冷めるまでページをめくり、誰にも頼まれずに部屋へ戻った。そんな当たり前の時間を一晩過ごしただけで、今朝は少し、机に向かう気持ちが違う。
違うからといって、机の上の書類が減るわけではなかった。
「雨宮さん。最初に、こちらを」
白瀬が二件の返答のうち一枚を抜き出した。
《相談室発議・優先配属制度における説明記録の照会経路について》
《受付番号 調査―四一八》
ネネは背筋を伸ばした。
先日の説明会が終わったあと、黒羽室長の承認を受けて提出した職務上の調査だ。正式な番号が付けば、誰が受け取って、どこで止まっているかを追える。少なくとも、そういう仕組みのはずである。
「受理されたんですね」
「はい。昨日の夕方に」
「それなら、もう回答が?」
「来ています」
ネネは紙を受け取り、少しだけ期待した。
《現在、関係部署に確認中です。》
それだけだった。
「……この一行を返すために、何人が働いたんでしょう」
「少なくとも、受付担当者と回付担当者と僕ですね」
「白瀬さんまで数えないでください。泣きたくなります」
白瀬は裏面を指した。小さく《回答予定時期・未定》とある。
「何が確認中なのかを、確認する必要がありますね」
「その確認をしている部署も、確認中だったりしません?」
「十分あり得ます」
あり得てほしくなかった。
*
相談室には、来庁者の苦情を聞く窓口のほかに、他部署への照会を扱う小さな事務台がある。壁には《回付文書は必ず宛先を確認》と掲示され、そのすぐ下の籠には、宛先不明の封筒が三通入っていた。
ネネはその籠に、以前から思うところがある。
回付には紙鳥を使う。折り紙を少し立派にしたような庁内便で、宛先が記された書類をくわえると、決められた部署まで飛んでいく。封印も運べるし、人混みを避けられる。おそらく誰かが善意で発明したのだろう。
ただし、送り先が《当課所管外》と記した場合、紙鳥は律儀に差出人へ戻ってくる。
ほかの部署を探してはくれない。
「この件、受入先の準備記録と本人の承諾記録を照合したいんです」
ネネは岡部圭太の相談記録を開いた。農村でスローライフを望んだはずが、休みなく働くことになった青年だ。現地での休日は確保された。だが、本人の到着三日前から村が作業予定を組んでいた経緯は、まだ確認が終わっていない。
「岡部さんからは、説明記録の照会について同意をいただいています。必要な範囲だけを使って、問い合わせてみます」
白瀬がうなずく。
「受入先の準備状況は現地支援。推薦の記録は優先配属調整課。本人への説明と承諾は転生案内側ですね」
「三か所……」
「少なくとも」
「増える余地があるんですね」
ネネは仕事の調査用に承認された項目だけを抜き出し、問い合わせを作った。自分の身体について昨日まで書いていた個人の申立書は、別の引き出しに入っている。似た印が付いていても、勝手に混ぜるわけにはいかない。
紙鳥が翼を開き、窓口の上を抜けて廊下へ飛んだ。
「速いですね」
「配達だけは」と白瀬。
十分ほどして、鳥は戻ってきた。
封筒には赤い印がある。
《当課では原記録を保管しておりません。記録管理部門へご照会ください。》
「原記録って……私は説明した内容を知りたいんですけど」
「保管場所を尋ねたと思われたのでしょう」
「誰がどう説明したか、って書いたんです」
「原記録を確認しなければ回答できない、と読んだ可能性もあります」
なるほど。読めなくもない。悔しい。
ネネは宛先を書き換え、今度は記録管理部門へ送った。
昼前に鳥が戻る。
《当部門は記録の保存・交付を担当しております。説明内容についての判断は所管課へお問い合わせください。》
「所管課に戻されました」
「そうですね」
「もう一回送ったら、また記録管理部門へ飛ばされますよね」
「その可能性が高いです」
ネネは紙鳥を見た。鳥は机の端にとまり、まるで次の仕事を待つように首をかしげている。
「あなたは悪くないのよ」
紙鳥は羽根を震わせた。
「雨宮さん、庁内便と会話するのは結構ですが、窓口の方が見ています」
振り返ると、整理券を持った竜人の男性が、不安げにこちらを見ていた。
「……失礼しました。書類のことで、少し」
「いや、紙に説教してるのかと思って。ここの書類、そんなに態度悪いのか?」
「態度はいいんです。道に迷いやすいだけで」
「なら、案内図を渡してやれ」
男性は大まじめに言って、呼び出された窓口へ向かった。
ネネは紙鳥を見直した。
「……案内図、ですか」
*
午後、ミラが事務台へやってきた。
「回付が二往復していますね」
「見ていたんですか」
「記録に残っています。いま三回目の送信をしようとしていました?」
「考えてましたけど、まだです」
「よかったです。三往復目から回付効率の低下として警告が出ます」
「警告が出るなら、二往復目で止めてほしいです」
「前の利用者は三回目で気づくことが多かったので」
「その統計は、あまり誇らしげに言わない方がいいと思います」
ミラは画面を開き、部署の一覧を示した。
「確認したいことを、三種類に分けてください。記録がどこにあるか。記録の意味を誰が説明できるか。判断を誰が確定させるか」
「最後の二つは同じ人じゃないんですか」
「同じ場合もあります。ただし、必ず同じとは限りません」
ネネは二通の回答を机に広げた。
記録管理部門は、正しく保管するために置かれている。過去に交わされた説明が適切だったかを、保管係だけで決められるわけではない。一方、案内課は説明の内容を判断できても、記録そのものを手元に持っているとは限らない。
どちらも、相手へ返すだけの理由はあった。
「……それで、返された側は振り出しに戻るんですね」
「はい」
「そこ、元気よく返事しなくていいです」
ミラが続ける。
「それと、日時の照会は別です。システムによって《登録日時》《発生日時》《庁基準への換算日時》が使われます。たとえば過去の出来事をあとから記録したとき、登録日時だけでは実際の順序を判断できません」
「全部、数字と時刻で表示されるのに」
「数字が同じ形式だから、意味まで同じとは限りません」
ミラは、個人情報のない練習用の画面を表示した。ある世界の正午に行われた説明を、翌日、庁の端末へ登録した例だった。表示欄を切り替えると、同じ案件に二種類の日付が現れる。
「これなら、あとから登録されたことはわかりますね」
「はい。ただし、処理が本当に先に行われた例もあります。換算の問題だと決めつけることもできません」
ネネは、個人の索引で見た二つの日付を思い出した。身体形質の候補選定が四月十四日。庁内就業の申請が十六日。
あれは同じ《庁基準時》と明記されていた。それでも、候補選定が何を起点に作られた記録なのか、今はまだわからない。
「時間の問題と、説明の問題も、分けて確かめなきゃいけないんですね」
「そうです」
「せめて時刻くらい、同じ意味で使ってほしいなあ」
「時計は、ちゃんと動いていますよ」
「時計に文句を言ってるんじゃないです」
ミラは一瞬考え、「では表示欄ですね」と訂正した。
その正確さは助かる。会話をするたび、少しだけ疲れるけれど。
*
事務台の向こうから、黒羽宗一の声がした。
「紙鳥を二羽も往復させたのは、君かい」
ネネは立ち上がった。
「二羽じゃありません。一羽が二往復です」
「鳥をかばう必要はないよ」
「でも、あの子は指示どおり飛んでいるだけですから」
「もう『あの子』になっているのか」
黒羽は笑いをこらえながら、返送された封筒を受け取った。二通とも《所管外》と書かれているが、相談室の照会そのものを拒否したとは書かれていない。
「回付の仕方を変えましょう」とネネは言った。
「どう変える?」
「宛先を探す仕事まで、各部署の善意に任せないようにします。誰が記録を保管していて、誰が回答の責任を持つのか、最初に決めたいです」
「なるほど」
「あと、回答できない場合の返事も『確認中』だけじゃ困ります。必要な資料、今いる部署、次に連絡する日を書いてほしいんです」
黒羽は机の端に手を置いた。
「そこまで決めると、相談室だけの裁量では済まないね」
「はい。だから室長にお願いしています」
「昔より、仕事の増やし方が上手になったね」
「褒められている気がしません」
「褒めてはいないよ」
白瀬が控えを持ってきた。
「回答責任部署を決める依頼なら、室長名で所管の調整を求められます。原記録の写しは必要な範囲で別途依頼し、説明の妥当性は判断できる部署に照会する形ですね」
「一つの書類で全部答えてもらおうとしたのが、まずかったんですね」
「全部答えてもらう必要はあります。ただ、一人に全部の権限があるとは限りません」
ネネは思わず白瀬を見た。
「白瀬さん、今の、わかりやすかったです」
「以前よりは、説明するようにしています」
山岸という包丁に転生した男性のことを、二人とも口にしなかった。以前の白瀬なら、記録に書いてあるから説明は済んだはずだと考えただろう。今の彼がそう言わなかったことを、ネネは少し嬉しく思った。
黒羽はその場で、調査番号に紐づけた担当部署間の確認依頼を承認した。返答期限は五営業日後。期限までに回答不能なら、どこで資料の確認が止まっているかと、次の予定を報告する。
「これで、すぐ答えが出るとは限らないけどね」
「はい。約束してもらえたのは、答えじゃなくて連絡です」
「いい返事だ。では、定時になったら帰りなさい」
「えっ、今ですか」
「まだ二時間ある。君がここから残業の予定を組まないように、先に言ったんだよ」
ネネは反論しかけて、口を閉じた。
生前、相沢に言われたことがある。できることと、引き受けることは別だ、と。あのときは帰って映画の約束をした。叶わなかった約束まで思い出して、胸が少し痛んだ。
でも、今日は違う。
「……定時には帰ります。今日できることは、ここまでなので」
黒羽は満足そうにうなずいた。
*
終業前、紙鳥が一羽、ネネの机に降りた。
「まだ返事が来るんですか。仕事が早いのか、帰るのを引き止めたいのか……」
鳥のくちばしには、《本人限定郵便・私書箱へ配達済み》と印刷された通知票が挟まっていた。調査の回付番号とは異なる、ネネ個人の開示請求の番号が記されている。
ネネは手を止めた。
席を離れて職員用の私書箱へ向かい、本人確認の印を押して封書を受け取った。周囲から見えない場所で封を切る。
《一次回答に関する追加通知》
《身体形質の候補選定記録について、管理部署への照会を受理しました。》
《記録保管先 転生記録管理室》
《候補選定の説明責任部署 身体形質選定管理室》
《担当者の特定は、原記録の照合後に行います。》
以前の通知にはなかった、部署の名前がある。
ネネは二度読んだ。まだ担当者個人の名はわからない。説明を受けた事実も、どの同意書に署名したのかも、ここにはない。
それでもようやく、問いを届ける相手の部署が一つ、特定された。
末尾には小さく追記がある。
《本人同意記録の写しについては、原資料の所在確認が継続中です。独立審査を希望される場合は、説明記録の照会結果を添えて申立てください。不足書類と提出方法は別紙をご参照ください。》
別紙には必要な書類が三つ並んでいた。本人確認は済んでいる。一次索引も手元にある。残るのは、説明記録に関する回答だ。
ネネは封筒を閉じた。業務で取り寄せた岡部の記録を、自分の申立てに流用するつもりはない。自分の窓口で、必要な返事を待つ。
待つだけではない。何を待っているのかは、もうわかる。
事務台に戻ると、机の上では昼間の紙鳥が、くちばしで返送用の紙片をつついていた。ミラがその横で何かを測っている。
「何してるんですか」
「往復した距離を確認しています」
「今度は紙鳥の交通費ですか?」
「違います。飛行量に応じて魔力が消費されるので、無駄な往復を減らす資料に使えます」
「……ああ。それなら、役に立ちそうですね」
「今日の二往復で、湯を七杯沸かせる程度の魔力を使っています」
ネネは固まった。
「七杯?」
「はい」
「紙二枚が戻ってきただけで?」
「封筒も運んでいます」
「そこは知ってます!」
白瀬が帰り支度をしながら言った。
「無駄な回付を減らせば、相談室のお茶代が少し浮くかもしれませんね」
「茶葉まで予算に入ってるんですか」
「当然です」
ネネは紙鳥の頭をそっと撫でた。鳥は気持ちよさそうに目を細めた――ように見えたが、そもそも折り紙なので目は描かれた点にすぎない。
「よし。あなたにも、ちゃんと宛先を決めてあげるからね」
紙鳥が翼を伸ばした瞬間、事務台の端に置いてあった古い申請書の束が、ばさりと床へ落ちた。
「こらっ!」
「雨宮さん」と白瀬が静かに言う。「紙を拾うのは明日の朝でも構いませんよ」
「それは、さすがに拾います!」
拾い上げた申請書は、廃止前の古い様式だった。表題の下に、《来世条件の異議申立て》という大きな文字がある。さらに、そのすぐ下には《受付期間》と赤い枠。
ネネは何の気なしに紙を裏返した。
小さな注意書きがある。
《期限は転生先の状況および申立ての区分により異なります。詳細は担当窓口へお問い合わせください。》
「……ああ、また細かい字」
ミラが顔を上げた。
「その様式、使わないでくださいね。もう廃止されています」
「わかってます。捨てる前に回収しただけです」
ネネは紙を揃えて廃棄用の箱に入れた。古い様式は、現行のルールを説明するものではない。そんな当たり前のことを、あらためて確認する。
廊下の先では、閉庁を知らせる鐘が鳴り始めていた。
ネネは机の引き出しを閉め、白瀬と一緒に相談室を出た。今日は、帰り道に寄ってみたい店がある。昨日なら迷ったかもしれないが、今はそれを先に決めていた。
明日も苦情は来るだろう。役所というのは、そういう場所だ。
ただし今日の分まで、明日の自分に押しつけるつもりはなかった。




