第20話 雨宮ネネが死んだ日
バスが来るまでの七分間、雨宮ネネは映画館の座席表を見ていた。
紗季から送られてきた画面には、二つ並んだ座席が青く塗られている。通路に近い、少し後ろの席だった。
《紗季:途中で出やすいところにした。あんた、映画の途中でも電話鳴ったら気にしそうだから》
《ネネ:失礼な。映画の間は電源切るよ》
《紗季:じゃあ誰も困らないね》
ずいぶん簡単に言ってくれる。そう思いながら、ネネはスマートフォンを鞄にしまった。仕事の電話一本で映画が止まるわけではないし、困った人がいても、勤務時間外に自分一人が応じなければならない理由はない。頭ではわかっている。わかっていることと、平気でいられることは、相変わらず別だった。
バスが停まり、前の人から順番に乗り込む。ネネは窓際の席に座った。ガラスに映る自分の顔は、残業を終えた人間としては悪くない顔をしていた。もっとも、目の下のくまは反射のせいではなさそうだ。
帰宅すると、宅配便の箱が玄関脇に届いていた。差出人は母。中には梨が六つ、新聞紙で一つずつ包まれている。いちばん大きな梨の上に、母の字で《これは先に食べる》と書いた付箋が貼ってあった。
大きいから先なのか、傷みやすいから先なのか。電話で尋ねると、母は「なんとなく」と答えた。
「なんとなくで指示しないでよ。窓口だったら揉めるからね」
『家の梨に受付番号が要るの?』
「要らないけど」
『だったら早く食べなさい。送った甲斐がないでしょ』
ネネは梨を洗い、半分だけ切った。残りの半分は皿に伏せて、ラップをかける。母はいつものように仕事のことを尋ね、ネネもいつものように「ぼちぼち」と答えた。けれど土曜の映画の話をすると、母の声が明らかに弾んだ。
『あら、出かけるの。よかったじゃない』
「そんなに珍しい?」
『そりゃ珍しいでしょう。あんた、休みの日に何してるか聞くと、いつも洗濯って言うから』
「洗濯だって立派な予定です」
『そうね。じゃあ今週は洗濯と映画、二つも予定があるわね』
母は笑い、見たい映画の名前を訊いた。題名を教えると知らないと言い、主演の名前を教えても知らないと言った。では何が知りたかったのかと聞き返したら、「楽しい予定があるか知りたかっただけ」と返ってきた。
電話を切ったあとも、ネネはその言葉を少し考えていた。
机には採用試験の問題集が積んである。上の一冊を取り、最初の頁を開くと、欄外に以前書いた《時間を測って解くこと》という自分への指示があった。これも指示書だ、とネネは思った。書いた本人が、ちっとも守っていない。
十分だけ勉強し、わからない問題に小さな印を付ける。それから受験案内を開き、締切の日付を確かめた。申し込んだあとで気が変わるかもしれない。受けても落ちるかもしれない。今の仕事を続けた方がいいと思うかもしれない。
そんなことばかり考えてきたのだ。
ネネは申込画面を途中まで入力した。最後の確認欄まで進んだところで、時計が日付をまたいだ。申込期限にはまだ余裕がある。それでも画面を閉じず、記入した名前と住所を一度だけ読み直してから、送信した。
《申込みを受け付けました》
「……なんだ。できるじゃない」
誰に言うでもなくつぶやく。受験勉強の方は、まったくできていないのだけれど。
*
土曜の朝は、驚くほど普通に始まった。
昨日の雲はどこかへ行き、洗濯物がよく乾きそうな空だった。ネネはシーツを干し、梨の残り半分を食べ、出かける前に台所の流しを磨いた。普段なら掃除を終えるころには昼が過ぎているのに、今日は時計を見るたび、まだ時間がある。
紗季との待ち合わせは夕方だった。映画の前に、駅前にできたパン屋へ寄る約束をしている。そこまで決まっているのに、持っていく鞄を選ぶのに十五分かかった。いつも職場で使うものには折り畳み傘と筆記具と予備の印鑑が入っている。映画に印鑑は不要だろう。そう思い、軽い鞄に替えた。
家を出てから、鍵を掛けたか確かめに一度戻った。
掛かっていた。
「これじゃ仕事ができる人みたいじゃない」
誰もいない廊下でぼやき、駅へ向かった。
市民まつりの会場は、駅へ続く通りに面していた。昨夜のうちに設営されたテントには小さな旗が連なり、焼きそばの匂いが広場の方から流れてくる。運営予定表の訂正を知らせる紙も、入口にきちんと貼られていた。
その前を通ったとき、見覚えのある男性が、会場の片隅で長机の脚を畳んでいるのが見えた。
「門田さん?」
振り向いた門田晴夫は、昨日よりもずっと軽やかな顔をしていた。腕にオレンジ色の腕章はない。
「おや、窓口のお嬢さん。今日は休みかい」
「はい。門田さんは、もう搬入が終わるところですか」
「片づけが、あと二脚。それで帰る。責任者の人に確認してもらったからね」
「よかったです」
「お嬢さんは、まつりを見に来たの?」
「いいえ。映画です」
言ったあと、なぜか照れくさくなった。仕事の関係者に私用を説明することなど、別に珍しくもないのに。
「そうか。じゃあ楽しんでおいで。私はこれが終わったら、一日休みだ」
「お孫さんと釣りに行くのは明日でしたね」
「覚えててくれたのか。そう、明日。魚に会えるかどうかは、あっちの都合だからね」
門田はにやりと笑い、机の向こうへ戻っていった。ネネはその背中をしばらく見送った。昨日、あの人が望んだのは仕事を全部やめることではなく、自分の約束を自分で決められるようになることだった。
自分も似たようなものかもしれない。門田と別れ、歩きながら考えた。休むのが下手だったからといって、仕事が嫌いだったわけではない。人の話を聞くことにも、間違いを正すことにも、それなりの手応えはあった。ただ、仕事に役立つからという理由で、一日のどこまでも差し出したくはない。
信号の先に、新しいパン屋の白い看板が見えてきた。ガラス越しに、小ぶりな丸パンが籠に並んでいる。店内には何人か客がいて、レジの横の黒板には《本日のおすすめ 洋梨のタルト》と書いてあった。
「梨……」
昨日、母から届いたばかりなのに。また梨を食べるのか、と自分に呆れたが、悪くない気もした。母に写真を送れば、きっと「うちの梨はどうしたの」と言うだろう。
ネネは店に入り、トングとトレーを取った。焼きたてらしい小さな塩パンを二つ、それから洋梨のタルトを一つ。紗季は甘いものが好きだったかどうか考え、訊けば済むと気づいてスマートフォンを出した。
《ネネ:先にパン屋に来てる。洋梨のタルトもあるよ》
《紗季:うそ、もう着いてるの? 雨降るんじゃない?》
《ネネ:昨日降りそうだったのは、そのせいかも》
《紗季:そっちも言うようになったね。私、あと二十分くらい》
その二十分が、まだ自分のものだった。
会計を済ませたネネは、店の外のベンチに座った。映画までの時間をどう使うか、少し迷った。まつりを覗いてもいいし、本屋を見てもいい。何もしないで座っていても、誰にも叱られない。
紙袋の中から、塩パンの香ばしい匂いがする。ネネはひとつ取り出そうとして、ふいに手を止めた。
頭の奥を、硬いもので殴られたような痛みが走った。
最初は、何が起きたのかわからなかった。光がひどく眩しい。目を閉じても眩しさが残り、胃の底から吐き気がせり上がる。立って店に戻ろうとしたが、膝に力が入らず、身体がベンチの端へ傾いた。
「お客さん、大丈夫ですか」
店の人の声だった。ネネは答えようとして、うまく声が出せないことに気づいた。何かを確認しようと思った。いつから痛いのか、ほかに症状はないのか、まず落ち着いて――仕事で何度も教えられた順序が、痛みの中でばらばらになる。
落ち着けるわけがなかった。
「救急車……お願いします」
どうにかそう言えた。店員がすぐに電話をかけ、近くの客がネネの身体を支えた。誰かが「無理に立たないで」と言った。ネネはうなずきたかったが、首を動かすのもつらかった。
ベンチの下に、買ったばかりのパンが一つ落ちていた。紙袋の口から飛び出したのだろう。拾ってもらわなければ、と考えた。その次に、そんなことは今どうでもいいとわかった。
自分の鞄からスマートフォンがずり落ち、画面が点いた。
《紗季:じゃあパン屋で待ってて。着いたら電話する》
ネネはその文を見た。返事をする力がなくなっていくのに、妙に字だけは読めた。
ああ、待ち合わせだ。
会えなくなるのなら、一言くらい知らせなければ。そう思ったところで視界が揺れ、誰かが彼女の名前を尋ねた。住所を言おうとして、代わりに映画館の名前が浮かんだ。間違えてはいけないのに、何が間違いで何が正しいのか、もううまく分けられなかった。
救急車のサイレンを、ネネは聞いたような気がする。
*
次に目を開けたとき、白い天井があった。
病院だとわかるまでに少し時間がかかった。腕には細い管が伸び、枕元では機械が規則的な音を立てている。誰かが名を呼んでいたが、その声がどこから来るのかわからない。
眠ったのか、また気を失ったのかも曖昧だった。光の下を動く人影と、切れ切れに聞こえる言葉があった。
「……出血が……」
「……ご家族に連絡を……」
母の顔が浮かんだ。昨日の電話では、映画の話ばかりしてしまった。梨はまだ五つも残っている。玄関の箱に入れたままだった。誰か、気づいてくれるだろうか。
それから紗季のことを考えた。せっかく取ってくれた座席が、二つ並んでいた。まだ一度も使っていない座席だった。
謝らなきゃ、と反射的に思った。
けれど、言葉を探す途中で、何に謝ろうとしているのかわからなくなった。約束を守れなかったことか。誰かを心配させることか。何一つ自分でどうにもできないことを、また引き受けようとしているのか。
ネネは、口の中で紗季の名前を呼ぼうとした。声になったかどうかはわからない。
その後のことを、彼女は覚えていない。
*
輪廻転生庁で支給された基礎記録には、前世の死因が《くも膜下出血》と記されていた。
ネネは最初、その文字を長いこと眺めた。落ち度を探せる書類ではなかった。危険な場所へ行ったわけでも、誰かを助けようと飛び出したわけでもない。約束していた映画へ行こうとして、途中で倒れた。それだけだった。
脳の血管が、あの土曜日に突然破れたのだという。誰かの悪意も、神様の特別な計画も、少なくともその記録には書かれていなかった。
ただ、死んだのだ。
あの日、紗季はどれくらい待ったのだろう。母が送ってくれた梨を、そのあと誰が食べたのだろう。受験の申込みを受け付けた窓口には、きっと欠席の理由など届かなかっただろう。
知りたいと思うことは、いくらでもあった。でも、死んだ人間が遺された人の暮らしを覗き見るための窓口は、ネネが知る限り、この庁にはない。
彼女は補足用紙の前でペンを握り直した。
《前世における職務経験》
そこへ、市民協働窓口での申請受付、登録内容の確認、苦情の一次対応、関係部署との連絡調整と、事実だけを記入していく。母の梨も紗季の映画も、記載欄にはない。書く必要がないからだ。
そのことを少し寂しく思いながら、ネネは紙の端を指で押さえた。
自分の前世は、窓口業務の適性を証明するために存在したわけではない。うまくできた仕事も、間違えた手続きも、休みに何をするか迷った時間も、あの身体の中で過ごした自分のものだった。
いまは長い耳がある。尻尾もある。思ってもいなかった役所で、前世とよく似た仕事をしている。そこで誰かの役に立てたことを、なかったことにするつもりはない。だが、役に立つかどうかで、自分がどんな姿になるかまで決められてよい理由にもならない。
ネネは記入済みの用紙を封筒へ入れた。個人の申立て用の封筒だ。黒羽室長を通じて進めている職務上の調査書類とは、今日も別の引き出しにしまってある。
宿舎の窓の外では、庁の夜勤職員たちが交代のために歩いていた。角のある人も、羽のある人も、見慣れればただの仕事帰りの背中である。
ふと、映画の券がどうなったのか気になった。二つ並んだ青い座席を、今もはっきり覚えている。
「……席、真ん中でもよかったのにな」
紗季なら、たぶん「今さら?」と言うだろう。
返事を想像して笑うと、耳が少し揺れた。ネネは机の上の時計を見た。明日は勤務日だが、まだ時間がある。読みかけの本を開いてもいいし、寮の食堂で温かいものを飲んでもいい。
何をするか、誰にも確認を取る必要はなかった。
ネネはしばらく迷ってから、本を持って部屋を出た。




