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雨宮ネネの苦悩と野望 ~死んでもクレーム対応!勇者も魔王も整理券をお取りください!~  作者: 月森 こはる
幕間・雨宮ネネが、まだ人間だった頃

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第19話 四年間、窓口にいました


 輪廻転生庁で働いていると、たまに自分が死んだことを忘れる。


 朝には出勤し、昼には弁当を食べ、午後には他人の人生について苦情を聞く。死後の暮らしとして適切かどうかはともかく、生活の形だけなら生前と大して変わらない。違うのは、弁当の蓋を開けるたびに耳の先が隣の職員の書類を撫でることくらいだ。


 優先配属制度の説明会があった翌日、雨宮ネネの個人申立てに、一通の補足依頼が届いた。


《前世における職務経験について、申立人の記憶する範囲で記載してください。なお、本項目への回答は任意であり、転生時の本人同意を証明するものではありません》


 仕事上の調査とは別に、本人として出している申立てへの照会だった。そこを混ぜると白瀬に注意される。注意されなくても混ぜるつもりはないが、うっかりしそうなので書類を置く場所まで分けてある。


 ネネはペンを取り、《市役所・窓口業務・四年間》と書いた。


 簡単だった。あの四年間を説明するのに、たった十数文字しか必要としない。


 それが少し、腹立たしかった。


 数字にしなければ伝わらないものもある。でも、数字にすると消えてしまうものもある。たとえば、雨の日の玄関マットの臭いとか、閉庁五分前に鳴る電話とか、もう帰れると思ったときに限って動かなくなる番号表示機とか。


 ネネはペン先を止めた。


 記録から思い出したのではない。ちゃんと覚えている。仕事の途中で自分がどんな顔をしていたかまで、嫌になるほど。


     *


 人間だったころの雨宮ネネは、ウサギの耳を持っていなかった。


 そのかわり、ときどき表情に出ると注意されていた。


「雨宮さん、顔」


 向かいの席から小声で呼ばれ、ネネは慌てて口元を引き締めた。


「普通です」

「普通の人は、書類を見てそこまで嫌そうな顔しない」


 そう言ったのは、同じ市役所で働く先輩の相沢佳代だった。勤務年数はネネの倍ほどある。課内の誰よりも手続きに詳しく、課内の誰よりも人の机に置かれたお菓子を見つけるのが早い。


 その日の市民協働窓口には、朝から妙な風向きがあった。


 来週の市民まつりで使う長机が足りない。貸出用の拡声器の電池が切れている。参加団体の代表者名が去年のままだ。何か起きるたびに担当部署へ電話を回しているうちに、電話の保留音が耳に住みつきそうだった。


 ネネは会計年度ごとに契約を更新して働く職員だった。朝は申請を受け、夕方はその日の申請の不足を確認する。ここで働き始めて四年が過ぎたが、毎年の契約更新が近づくたび、翌年度のことを聞かれても簡単には答えられなかった。


「私、保留音の歌詞を書ける気がします」

「歌詞なんてないでしょ」

「心の中で補ってるんです。『ただいま担当者が席を外しております、あなたの昼休みも終わっております』」

「歌わないでね。声に出すと苦情になるから」


 相沢は笑い、机の端から個包装の煎餅を一枚取った。ネネのものだった。


「あ、それ私が買ったやつ」

「相談料」

「まだ相談してません」

「じゃあ先払い」


 言い返したところで、七十二番が呼出機に表示された。


 窓口へ現れたのは、くしゃくしゃの紙とオレンジ色の腕章を持った年配の男性だった。腕章には太い黒文字で《本部責任者》と書いてある。文字の縫い目がほつれ、端には去年のものらしい茶色い染みがついていた。


「この名前を、消してもらいたいんですけどね」


 男性は紙を広げた。翌日開催される市民まつりの運営予定表で、役割の欄には《本部責任者 門田晴夫》と印刷されている。


「登録の取り消しですね」

「そうそう。もう、私の名前を使わんでほしいんだ」

「市の協力員登録ということでよろしいですか」

「登録でも何でもいいよ。ここから外してくれたら」


 ネネはうなずき、端末に市民協力員の登録番号を打ち込んだ。


 門田晴夫。市民まつり運営協力員。登録継続十二年。


「長くお手伝いされていたんですね」

「長いことやると、何でもできると思われるらしい」

「そういうこと、ありますよね」

「あるよ。だから今年は、やめようかと」


 男性は腕章を丸めた。ネネはそこで一度、尋ねるべきだったのだと思う。やめたいのは、まつりの手伝いすべてなのか。それとも、腕章に書かれた役割だけなのか。


 けれど目の前には、朝から山になった申請書があり、奥では電話が鳴り続けていた。「登録でも何でもいい」という相手の言葉に、自分が聞きたい答えを勝手に重ねた。


「では、登録取り消しの仮受付をします。正式な処理には内容のご確認と署名が必要ですので――」


 入力を確定した瞬間、隣のプリンターが派手な音を立てた。


《市民協力員登録 取消申出・受付確認書》


 ネネはそれを差し出そうとして、紙の下の注意書きに目を留めた。


《関連事業の担当者へ仮受付情報を通知します》


 そのとき電話が鳴った。


 相沢が受話器を取って、「ああ、まつり実行委員会の方」と言い、それからネネを見た。どういうわけか、非常に楽しそうな顔をしていた。


「雨宮さん、門田さんの登録、消した?」

「まだ仮受付です。どうしました?」

「向こうの担当者がね、門田さんがいなくなると、会場の机が全部、行き場をなくすって」


 男性が「机は逃げませんよ」と言った。


「でも、鍵のありかは私しか知らんかもしれんね」


 相沢が電話の向こうへそれを伝えると、向こう側から長いため息が聞こえた。


 ネネは門田の手元の腕章を見た。卓上には自分が出した取消確認書がある。


 何かが、おかしい。


「門田さん、ひとつ確認させてください。市民まつりのお手伝い自体を、全部おやめになるということでしょうか」


 男性は目を瞬いた。


「いや? 机を運ぶのは手伝うよ。ああいうのは、年寄りでもできることがあるからね」

「えっ」

「ただ、人の前に立って挨拶したり、苦情を引き受けたりするのは、もう勘弁してほしい。今年は搬入と片づけだけの約束だったんだ」


 ネネは、紙を二枚並べた。


 一枚目は《本部責任者 門田晴夫》。もう一枚は《市民協力員登録 取消申出》。欲しかったのは一枚目の修正で、ネネが準備したのは二枚目の手続きだった。


「すみません。私、勘違いしました」

「そうなの?」

「今のお話なら、登録を取り消す必要はありません。役割の記載を確かめる手続きをご案内するべきでした」


 相沢が受話器を手で覆い、横からささやいた。


「雨宮さん、仮受付はまだ止められる。先に事実を聞いて」

「はい」


 返事をすると、少し悔しかった。怒鳴られたわけでも、難しい制度に邪魔されたわけでもない。自分が質問を一つ省いただけで、余計な通知を出してしまった。


「そもそも、去年も責任者だったんですか」

「去年は、実行委員長が声を潰してね。朝だけ代わりに挨拶した。それだけだよ。今年はそのときの写真を使って『経験者だから』って」

「今年、責任者になることには同意していないんですね」

「してないよ。『机の出し入れならやります』とは言った。向こうも、わかりましたって言ったはずだ」


 門田は、畳んだ腕章を指で軽くたたいた。


「この腕章を渡しに来た人はね、『去年、似合ってましたから』って言うんだ。似合うかどうかで仕事を決められたら、たまらんよ」


 ネネは笑ってしまいそうになり、今度は無理に隠さなかった。


「似合っていると言われても、引き受けたことにはなりませんよね」

「そうそう。私が欲しかったのは、そういう話だよ」


 相沢が実行委員会と電話をつなぎ直した。ネネは門田の前で確認した事実を、一つずつ伝えた。登録の取り消しは不要であること。今年承諾した作業は搬入と撤収だけであること。予定表の責任者欄は、本人の了承なしに昨年の情報が引き継がれていること。


 電話口の若い担当者は、初め「門田さんが一番詳しいので」と繰り返した。


「詳しい方が必要だという事情はわかります。ただ、責任者を引き受けるお返事はいただいているんですか」

『それは、去年もやっていただいたので……』

「去年は代役を務めただけ、と伺っています。今年の担当については確認できていないということですね」

『……はい』


 ネネの声は、少しだけ硬くなっていた。


 隣で相沢が、小さな付箋に《言い方はやわらかく》と書いて見せた。


 それを見て、余計に腹が立ちそうになった。こっちは最初に失敗したのだから、せめて今度ははっきり伝えなければならない。でも、電話の向こうの担当者も、きっと山ほど仕事を抱えている。責めれば早く直るとは限らない。


「今からでも、今年の担当を決め直せますか。すでに配った予定表があるなら、その訂正方法も確認したいです」


 相手は少し黙り、やがて「事務局へ連絡してみます」と答えた。


 話の途中で、門田が手を挙げた。


「机の鍵なら、土曜の朝に持っていくよ。誰かに保管場所を教えるのもいい。ただ、終わったら帰るからね」


 ネネはその条件を復唱し、電話の向こうへ伝えた。


『門田さん、ずっといてくださらないんですか』

「ずっとは、いません」


 ネネが答えるより早く、門田が言った。


「日曜の午後、孫と釣りに行くんです。ずっと約束してたんでね」


 それから少し気恥ずかしそうに、「釣れない釣りだけど」と付け足した。


     *


 昼前、実行委員会から折り返しの連絡があった。


 本部責任者の役割は事務局で担当者を決め直し、門田には当初の約束どおり搬入と撤収だけを依頼する。印刷済みの予定表はすべて回収できないため、当日の受付で訂正文を配り、ウェブ上の案内も直すという。


 門田は変更内容を聞いて、初めて椅子の背にもたれた。


「全部消せって頼んだわけじゃないのに、ややこしくなったねえ」

「ややこしくしたのは、私です。最初に確認が足りませんでした」

「まあ、私も『何でもいい』なんて言ったしな」

「それでも、確認するのが仕事ですから」


 ネネは仮受付を取り下げる手続きをして、門田に内容を見せた。正式な登録取り消しは行われていない。今の登録はそのまま残っている。役割の変更については、別の担当部署が記録を残すことになった。


「『確認中』で終わらずに済んだね」


 門田が笑った。


「ええ。途中は、かなり確認中でしたけど」


 そこへ相沢が割って入った。


「門田さん、今度からは『責任者はしません』って、最初に大きな声で言ってくださいね」

「そんな大声、もう出ないよ。去年の挨拶で懲りたもの」

「じゃあ、紙に書いてください」

「それなら何枚でも書く。ああ、腕章は返していこう」


 門田はオレンジ色の腕章をカウンターに置いた。ネネが預かろうとすると、裏側に油性ペンで《門田》と大きく書いてあるのが見えた。


「……名前、残ってますね」

「去年、自分で書いたんだよ。迷子にならんように」

「責任者の腕章が迷子になるんですか」

「なる。うちの実行委員会じゃ、毎年何かしら迷子になるから」


 今年は責任者そのものが迷子になるところだった。


 ネネは笑いをこらえながら、返却品の受領記録をつけた。帰り際、門田は「助かりました」と言い、戸口で一度振り返った。


「若い人も、自分の休みは大事にしなさいよ。人に頼まれてるうちに、すぐなくなるから」


 ネネは愛想よくうなずいた。


 それで自分の休みを大事にするようになったかといえば、その日のうちは、別にそんなことはなかった。


     *


 午後六時を過ぎても、窓口の端末には未処理の案件が三件残っていた。ネネの担当分は終わっている。それでも相沢が別の部署へ問い合わせる横で、帰り支度をするのは落ち着かなかった。


「雨宮さん、それ私のだから。もう上がって」

「手伝えますよ」

「じゃあ手伝わないで。今日の門田さん、覚えてるでしょ」

「覚えてますけど」

「できることと、引き受けることは別」


 ネネは口を閉じた。よりにもよって、自分が午前中に説明した言葉が返ってきた。


 ロッカーで私服に着替えると、スマートフォンに未読のメッセージが二つあった。


《紗季:土曜日、駅前の映画館行かない? 前に観たいって言ってたやつ、今週で終わりだって》

《母:梨を送ったよ。今度の休みは何するの? ちゃんと食べてる?》


 友人の紗季からの誘いには、これまで何度も「その日はちょっと」と返していた。実際に忙しかった日もあるし、家に帰って何もしたくなかった日もある。「行きたい」と送った後で予定が変わるのが面倒で、返事を先延ばしにしたこともある。


 それより下には、正規職員採用試験の参考書を注文した通知が残っていた。買ったまま開いていない問題集が、部屋の机に積んである。受けるかどうか迷っているうちに、申し込みの締切だけが近づいてきた。


 四年間、窓口にいた。


 毎日いろんな人の希望を聞いて、何ができて何ができないかを確かめた。それなのに、自分がこの先どうしたいのかと問われると、返事がひどく遅くなる。


 ネネは紗季との画面を開いた。


《行く。今度こそ》


 送信する寸前で指が止まる。もし明日、仕事のことで呼ばれたら。もし家の片づけが終わらなかったら。もし映画が思ったほど面白くなかったら。


 最後のひとつを考えたところで、自分でも馬鹿らしくなった。面白くなかったら、帰りに紗季と文句を言えばいいだけだ。


《行く。席、まだ取れる?》


 送信すると、ほとんど間を置かずに返事が来た。


《紗季:珍しい! 取れる! 土曜の夕方ね》


 ネネは思わず笑った。


 遅くなってごめん、と打ちかけて、やめた。謝る代わりに《楽しみにしてる》と送った。母には、梨のお礼と、土曜は映画に行くつもりだと返した。家に帰ったら問題集も一冊開こう。そちらは、今日できなければ明日でもいい。


 庁舎の外に出ると、夕暮れの空に低い雲が垂れこめていた。バス停には、仕事帰りの人たちが二列に並んでいる。自動ドアのそばには、市民まつりのポスターが貼られていた。


《あなたの力を、まちのために》


 門田のオレンジ色の腕章が頭に浮かんだ。ポスターの隅に《無理のない範囲で》と書き足せばいいのに、と思った。もっとも、その「範囲」を決めるのがいちばん難しいのだけれど。


 ネネはバスの列の最後尾についた。スマートフォンの画面には、紗季が送ってきた映画の上映時間が光っている。


 帰ったら、まず洗濯物を取り込もう。それから夕飯を作って、明日の服を決めて、少しだけ勉強して。土曜の映画の前には、駅の新しいパン屋に寄るのもいい。


 大した計画ではなかった。ただ、いつものように誰かから頼まれた予定ではなく、自分で決めた予定だった。


 バスが来るまで、あと七分。


 ネネはその七分を、仕事のことを考えずに使ってみることにした。


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