第2話 最強スライム、窓口で溶ける
「役所ってのは、書類を食ったら仕事が早くなるのか?」
輪廻転生庁の試験室で、青いスライムがそんなことを尋ねた。
「遅くなります。間違いなく」
雨宮ネネが答えると、スライム――桐谷陸は、透明な試験槽の中で不満そうに膨れた。彼の体内には、さっき飲み込んだばかりの試験用カードが一枚、斜めに浮いている。
カードには大きく「吸収試験」と書かれていた。陸が向きを変えるたび、その文字が腹のあたりをぐるぐる回る。本人はたいそう強そうに振る舞っているのに、どうしても動く案内板にしか見えなかった。
「だって前の窓口じゃ、紙を食ったらようやく話が進んだじゃねえか」
「それは紙を食べたからではありません。説明の記録を調べたからです」
「細かいな、ウサ……雨宮」
「訂正ありがとうございます」
褒めるところではないが、名前を覚えてもらっただけ進歩だろう。
陸が初めて相談室に現れたのは、庁の暦で二日前のことだった。最強のスライムになれると思って転生したのに、実際の能力は物を吸収して分解するだけ。毒キノコに挑んで三日寝込んだという本人の話は、あまりにも痛々しく、あまりにも無謀だった。
しかも録音を調べると、元の面談担当者は「ドラゴンを食べたら火を吐けるか」という質問に、「成長次第では、さまざまな可能性があります」と答えていた。書面には、他者の能力は獲得できないと明記してある。その食い違いを受け、ネネが相談の分類を「能力不具合」から「説明内容の相違」へ変更したところまでが、前回の仕事だった。
今日の試験は、その続きである。
「雨宮さん。説明が終わったら、次の試験に移ります」
教育係の白瀬律が、手元の記録板を見ながら声をかけた。灰色のベストにくたびれた白いシャツという格好はいつもと同じだが、今日は透明な防護眼鏡をかけている。それだけで、途端に何か重大な研究をしている人のように見えた。
「白瀬さん、あの眼鏡は必要なんですか」
「試験室の規則です」
「私の分は」
「在庫を確認中です」
ネネの耳が左右同時に倒れた。
「その言葉、私の前で使うの禁止にしません?」
「まず在庫を確かめないと、禁止の申請用紙が発行できません」
ひどい職場である。死後も事務手続きに追われるとは思わなかった。
一昨日は、自動的に抜けようとする剣を背負った勇者が騒ぎを起こし、警備職員が専用の留め具で鞘を固定するまで相談室の受付が止まった。ネネは初めて人型用の防護ボタンを覚えたが、押すまでに二度、粘体種用のボタンと見間違えた。あと一回間違えたら、きっと壁に大きな注意書きが増える。
その予感に反して、試験室の壁にはすでに貼り紙があった。
《試験に使用する以外の備品を吸収しないでください》
誰が原因かは、いちいち聞くまでもない。
*
試験槽には、陸が転生先で持つ能力の一部が反映されている。相談室の意識接続では危険な能力が制限されるため、本格的な確認は専用の試験室で、許可された標本だけを使って行う仕組みだった。
「では最初に、木片をお願いします」
白瀬が小さな板を試験槽に落とすと、陸は景気よくそれを包み込んだ。体の中で板が徐々に崩れ、数十秒後には跡形もなくなる。
「どうだ。すごいだろ」
「はい。正常に分解できています」
「で、木の技は?」
「木の技とは」
「枝を伸ばすとか。根っこで相手を縛るとか」
「その機能はありません」
「知ってたけどよ!」
陸は悔しそうに槽の底へ広がった。次は布、それから試験用の栄養球。どちらも取り込まれ、記録には分解速度や反応が淡々と表示される。
数値を見つめるネネには、意外な発見があった。陸が役立たずと呼ぶ能力は、むしろ極めて安定している。対象の種類によって分解にかかる時間は違うが、登録どおりの働きをしていた。
「何だよその顔。ますます俺の負けってことか?」
「そういうことでは……いえ、能力の故障は見つかっていません」
「じゃあ、最強じゃないのが確定したってことか」
聞きたくなかった答えを、わざわざ自分から口にしたような声だった。
ネネは返事を急がなかった。ここで「でも便利ですよ」と励ましても、本人の欲しかった人生が戻るわけではない。毒キノコで苦しんだことも、何を食べていいかわからず森で夜を明かしたことも、なくならない。
「能力が説明書どおりに動くか、という試験については、そうです。ただ、説明を受けたときに何を期待するような話をされたかは、別の問題です」
白瀬が記録板の二つの欄を指した。一方には「能力作動状況」、もう一方には「面談時の説明内容」。ネネが前回分けた二つの相談は、試験室でも別々の記録になっていた。
「だから今日は、あのとき説明した職員とも話せるんですよね」
「面談担当者本人と、担当部署の責任者が、記録を確認したうえで応答する予定です」
ネネはうなずいた。そこまで話が進んでいるなら、二日前よりは確かに前進している。
「なら、それを先に言ってくれよ!」
陸が勢いよく跳ねた。
跳ねた拍子に、試験槽の縁に置いてあった記録用の紙が一枚、ひらりと舞った。ネネは手を伸ばしたが、間に合わない。紙は青い体にぴたりと張りつき、そのまま中へ取り込まれた。
「ああっ!」
「何だ、また食ったのか?」
「『また』って自覚がおありなんですね!」
白瀬が無言で記録板を伏せた。そこへ目をやると、ネネには、紙に何が書いてあったのかわかった。
《試験結果確認書 控え》
最初に陸の体内でくるくる回っていた「吸収試験」のカードは、もう完全に消えている。入れ替わりに、確認書の文字が胸のあたりへ浮かび上がってきた。
「桐谷さん。書類を、できればこちらへ」
「出せねえよ。もう吸収した」
「そうでした……」
「出せるなら、森で食ったキノコだって出してる!」
それは本当に、そうだろう。
白瀬は慌てず、端末から控えを再発行した。その横顔を見て、ネネは昨日のうちにこの部屋を予約して正解だったと思う。窓口のカウンターで試験を始めていたら、相談者と書類のどちらが先に尽きたかわからない。
再発行された紙を受け取り、ネネははっとした。
「白瀬さん、この書式、署名欄があります」
「ありますね」
「桐谷さん、手がありませんよ」
「ありますね、では困ります!」
陸が槽の中から口を挟んだ。白瀬が書式を裏返して、下の注記を確かめる。
「粘体種は本人確認済み音声記録を署名に代えられます。大丈夫です」
「だったら最初から、そちらを表に書いてください」
「書式を作ったのは僕ではないんですが」
「次から作る人に伝えてください」
ネネが食い下がると、白瀬は少し考え、記録板に短いメモを残した。彼は手続きには詳しいが、困った人の目線で書類を読んでいないことがある。ネネも生前はそうだったので、えらそうなことは言えない。ただ、同じ失敗をそのままにするのは、もっと嫌だった。
*
試験が終わると、試験室の壁に埋め込まれた通信用の板が明るくなった。映し出されたのは、清潔な襟の制服を着た初老の男性と、その後ろに座る若い職員だった。
「転生面談課の責任者です。桐谷陸さんの案件について、ご説明いたします」
責任者が名乗り、前回の録音を聞いたこと、能力の登録自体に不具合は見つからなかったことを述べた。陸は腕組みでもしたそうな勢いで丸くなる。腕がないので、ますます丸い。
「結局、俺の勘違いだったってこと?」
若い職員が一瞬だけ責任者を見た。録音に残っていた声の主だと、ネネにもわかった。
「いいえ」と責任者が答えた。「面談で、取得できない能力が取得できるようにも受け取れる説明をしていました。ご希望との違いが生じる可能性を、こちらから具体的にお伝えすべきでした」
若い職員が頭を下げる。
「私が『成長次第』とお答えした件です。技能の獲得はできないと、その場で説明する必要がありました。申し訳ありません」
陸はなかなか返事をしなかった。しばらくしてから、槽の壁へ小さく体を押しつけた。
「……俺、あのとき、すげえ楽しみだったんだよ」
その声を聞いて、ネネは端末から目を離した。陸の明るい面談音声を思い出す。あの時点の彼は、これから何にだってなれると信じていた。
「だから余計、腹立った。何回聞いても『記録を確認します』でさ。俺が話を盛ってるみたいじゃねえか」
「お待たせしたことも含め、説明が不十分でした」と責任者が言った。「面談時の案内に問題があったことは、こちらの記録に残します。試験と照合した内容を文書でお伝えし、現地生活の支援と能力の安全講習を手配します」
陸が顔のない体を、ぐっと持ち上げた。
「じゃあ、火は吐けるようになるのか?」
「それをお約束するものではありません。能力を変更するには別途審査が必要です」
「はあ!? 謝っただけじゃねえか!」
試験槽が波打った。ネネも、ここで怒る気持ちは少しわかる。けれど、謝罪がそのまま願いを実現する魔法になるのなら、輪廻転生庁は苦情窓口ではなく願望販売所になってしまう。
「桐谷さん。いま、必要な話を二つ混ぜないでください」
言い切った瞬間、ネネの耳がまっすぐ立った。自分でも驚くほどきっぱりした声だった。
「一つは、間違った期待を持たせた説明について、庁が責任を認める話です。もう一つは、今の能力を変更してほしいという希望です。どちらも大事ですけど、同じ書類に混ぜると、また『確認中』のまま動かなくなります」
責任者も白瀬も、通信用の板の向こうとこちらで、そろって黙った。陸だけが納得していない。
「何だよ、じゃあ俺は二回怒らなきゃいけねえのか」
「怒る回数は増やさなくて結構です。申請を二つに分けるだけです」
「役所の都合じゃねえか!」
「そうです。だから、書くのはこちらでやります」
ネネは机の端から二枚の用紙を取り、一枚に「面談説明に関する確認と是正」、もう一枚に「能力変更の審査希望」と書いた。前者には担当者の説明と謝罪、改善措置を記録し、後者には陸本人の希望と、まだ何も決まっていないことを正確に残す。
「前の二回みたいに、同じ話を一から説明しなくて済むようにしてほしいんですよね」
「……ああ」
「なら、今ここで分けます。謝って終わりでも、最強にするって安請け合いして終わりでもないように」
陸は二枚を見比べるように、体をゆっくり傾けた。ネネには、頭の中で何かを計算しているように見えた。
「二枚目が却下されたら?」
「理由を説明してもらうよう求められます。ただし、希望が通ると保証はできません」
「それでも森には戻るんだろ」
「はい。だから、今日決まった支援は、先に進めてもらいます」
ネネは責任者へ向き直った。
「安全な食べ物の案内と、現地支援の依頼については、能力変更の審査とは別に手配していただけますか。本人は今、何を食べてよいかもわからない状態です」
「もちろんです。食餌案内の現地送達と、基礎講習を担当課へ依頼します。依頼番号はこちらから通知します」
白瀬が連絡先を確かめ、陸の接続が切れても継続できる引継ぎに登録した。ネネはその横で、受理された二件の番号と、現地支援の依頼番号が別々に並ぶのを確認する。
すべてが解決したわけではないが、少なくとも「何もできません」では終わらなかった。
「……最強になれなかったけど、食いしん坊用の説明書は届くってわけか」
陸のぼやきに、ネネは思わず吹き出しかけた。
「食いしん坊用ではありません。淡水性粘体種の生活案内です」
「名前を長くしたら偉くなるのか」
「それは私にもわかりません」
白瀬が、話の切れ目を待っていたように言った。
「ご本人の確認を取ります。今日決まった内容に、同意されますか」
「だから、手がねえんだって」
「音声で結構です」
「わかった。……同意する」
端末に確認音が鳴り、申立てが正式に受理された。陸は今度こそ、肩の荷が下りたように体を薄くした。
ところが、彼はすぐに体を盛り上げ、真剣そのものの調子で尋ねた。
「で、その生活案内って、食ったら覚えられるのか?」
「読みましょう、桐谷さん。普通に!」
白瀬が静かに付け足した。
「紙でのお渡しは避けたほうがよさそうですね」
*
陸の接続が切れ、試験槽を洗浄に回した頃には、ネネの耳はすっかり疲れていた。昼食に行く前に、自分の席で少し休もうと思ったのだが、相談室へ戻ると、その椅子が見当たらない。
「白瀬さん。私の椅子、どこですか」
「施設担当が交換しました。有尾種用が届いたんですよ」
机の前には、背もたれの下が大きく抜けた新しい椅子が置かれていた。座ってみると、尻尾が挟まらない。痛くない。驚くほど当たり前のことなのに、ネネは思わず深く腰かけてしまった。
「……いいですね、これ」
「一つは解決しましたね」
「仕事の内容も、こういうふうにすんなり改善されるといいんですけど」
白瀬は返事の代わりに、端末の隅に点滅する通知を示した。今朝、ネネが本人として再照会を申請していた転生訂正の件だった。
《申立ては受理済みです。照会先は指定部署に限られます》
部署名も担当者名もない。問い合わせ先を変更する欄には、薄い灰色の鍵の印がついていた。
「……指定って、どこが指定したんですか」
「そこは今の画面からは見えません」
「見えないまま、どうやって聞けばいいんです?」
白瀬は少し困った顔をして、端末を閉じた。彼の言葉が慎重になるときは、大抵、簡単な答えがないときだ。
ネネは自分の鞄から、折り目の多い申立書の控えを出した。隅に押された四角い印には、斜めの線が二本入っている。陸の記録にもあった印だ。意味はまだわからないが、見つけた以上は放っておけない。
今度の休みには、ちゃんと担当の窓口へ行こう。そんな決意を固めていると、相談室の扉が開き、先日、勝手に抜ける剣を背負っていた勇者が顔を出した。今日は剣の柄を留め具で厳重に固定している。
「雨宮さん。昨日はどうも」
「剣は落ち着きましたか」
「はい、おかげさまで。今日は別件なんですが」
勇者はなぜか、髪形をきっちり整え、胸に花を一輪挿していた。
「魅力を最大にして転生したんです。それなのに、女性にまったく相手にされません」
ネネの耳が、ゆっくり倒れた。
隣で白瀬が受付票を差し出す。
「では、詳しい事情を伺いましょう」
「白瀬さん」
「はい」
「私の椅子だけじゃなくて、職場そのものを交換できませんか」
新しい椅子は快適だったが、座る仕事は相変わらず過酷だった。




