第17話 契約書に、相手の署名がありません(後編)
「ほら! いつもこれなんです!」
瀬川が叫んだ。安全確認室に呼び出されたばかりの黒曜狼クロは、耳を横へ倒したまま動かない。
「いったん音を止めてください」とネネ。
ミラが呼出音の設定を切ると、クロは片目を開けた。鼻先を床から浮かせ、部屋の隅を探るように匂いを嗅ぐ。投影体なので庁舎の空気をどこまで感じるのかはわからないが、少なくとも周囲を確かめている様子だった。
「……音が嫌なのかしら」
「現地の獣種資料では、黒曜狼は高い音に敏感で、日中の休息を妨げられると警戒が強まることがある、とされています」とミラ。「ただ、この反応が恐怖なのか驚きなのかは、これだけでは断定できません」
瀬川はぎょっとした。
「朝の訓練、笛が鳴るんです。毎回、あんなふうになるのは……」
瀬川はそこで腰の杖に目を落とした。飾り鈴が、本人の動きに合わせてまた小さく鳴った。
「……俺、これもずっと持ってました」
「お気に入りの装備だったんですね」
「一番、魔物使いっぽいと思って」
瀬川は少し赤くなり、鈴を押さえた。クロの様子が変わった理由をひとつに決めることはできないが、少なくとも試すことはある。
「現地で、音のない合図も使えるか相談しましょう」とネネは言った。
ネネは獣へ向き直った。相手の気持ちが耳でわかるわけではないし、犬を飼った経験もない。大きな狼へむやみに手を伸ばすのは危ない。
「クロさん、ここ、初めてですものね。驚かせてしまって、ごめんなさい」
クロは片方の耳だけを立てた。返事だったかどうかは、判断がつかない。
そこで瀬川がしゃがみ、彼らしい少し照れた声で言った。
「クロ。俺だよ。嫌なら、こっちに来なくていい。でも……少し、話したいんだ」
狼は動かなかった。
長い沈黙のあいだに、ネネは自分の尻尾が椅子の隙間へ挟まりかけているのに気づき、こっそり座り直した。張り詰めた場面なのに、こんなときまで身体の仕様が主張してくる。
やがてクロが頭を上げた。ゆっくり立ち上がり、瀬川の前まで歩いてくる。瀬川が手のひらを開くと、そこへ巨大な鼻が触れた。
「……来た」
瀬川が笑う。そのまま抱きつこうとして、クロにひらりとかわされた。
「抱きつくのは嫌みたいですね」とネネ。
「こういうところ、はっきりしてるんです」
ところがクロは、かわした勢いでネネの椅子へ尻を載せようとした。尻尾を避ける切れ込みのついた、あの大切な椅子である。
「そこは私のです!」
反射的に立ち上がったネネの声が室内に響いた。クロはぴたりと動きを止める。狼に聞こえたのか、普段から席取りに厳しい人間だと伝わったのかはわからない。
「……あ、すみません。いまのは命令じゃなくて、お願いです。壊れると困るので」
瀬川が、こらえきれずに笑った。
「雨宮さんも、結局は命令しちゃうんですね」
「今のは所有権の主張です!」
白瀬がいつもの調子で付け加えた。
「椅子の耐荷重は確認してありますが、黒曜狼は対象外です」
「確認済みなのが、逆に怖いです」
ミラは投影体の着席を禁止する設定を加えた。クロはしばらく椅子を見つめ、諦めたように床へ寝そべった。その大きな前脚のすぐそばに、瀬川が腰を下ろす。
ネネは二人の姿を見た。
主人と従者、と呼ぶには妙な距離だった。少なくとも、瀬川はようやくクロの横に、自分から座ったのだ。
*
現地支援員から、訓練についての記録が届いた。
護衛隊の試験では、合図に合わせて魔物を所定の位置へ誘導し、巡回路を進む。その過程で強い音の笛を使う。黒曜狼が夜行性であることは備考欄に載っていたが、瀬川の訓練は隊の都合で毎朝行われていた。
別の報告も添付されていた。
《夜間、村外れの倉庫周辺に出没した魔獣を、クロが威嚇して退けた》
《瀬川直人は駆けつけた際、付与技能によってクロの位置と興奮状態を把握し、村人を近づけないよう誘導した》
「……これ、俺も役に立ってたんですね」
瀬川が驚いたように言った。
「役に立ったかどうかは、現地の方の判断も必要ですが、少なくとも協力はできていたようですね」
ネネは答えた。記録に書かれた夜の出来事を、彼は特別な任務とは考えていなかったのだろう。試験で見せるような堂々とした戦いではない。クロが吠え、瀬川が村人を退かせ、魔獣が去る。それだけの仕事だった。
「教官が見てたら、合格って言ってくれますかね」
「そこは護衛隊の判断です。朝の訓練を夜へ変えられるか、別の合図を使えるかも、現地で相談していただくことになります」
「……また、相談か」
「はい。こちらからも、技能の説明と獣種の特性について書面を送れます」
瀬川はクロを見た。狼は床に顎をつけ、時折、尻尾の先だけを動かしている。
「なあ、クロ。俺、朝が苦手なのに、お前を朝の訓練に引っ張ってたんだな」
返事はない。
「でもさ、村で働きたいんだよ。お前と一緒に」
クロの耳が動いた。瀬川は杖の鈴を外し、静かに書類入れへしまった。瀬川はしばらく黙り、それから笑った。
「嫌なら嫌で、ちゃんと教えてくれ。俺も、命令ばっかりやめるから」
ネネはその言い方が少し気に入った。相棒への理解が一日で完成するわけではない。それでも今日から何かを変えたいのだと、少なくとも彼自身の言葉になっていた。
「で、クロ。最後にお願いがあるんだけど」
瀬川は床に、持参した小さな布を広げた。訓練に使っている合図用の旗だという。
「ここまで来てくれないか。来たら、もう今日は終わりにする」
クロは布へ鼻先を寄せ、くしゃみをした。そして布をくわえると、瀬川の膝まで運んできた。
「……えっ」
「お願いの内容と、少し違いますね」とミラ。
「いや、でも、こっちに持ってきてくれた!」
瀬川の顔がぱっと明るくなる。クロはその膝に顎を載せ、当然のように目を閉じた。
「また俺が座らされてるんだけど」
「ご不満ですか」と白瀬。
「……いや。今日は、まあ、いいです」
ネネは笑い、相談記録に《命令不履行》とだけ書かれていた件名を直した。
《獣縁契約の効能に関する説明照会/現地訓練方法の再検討》
転生時の説明書には大きな齟齬は見つからなかったが、現地ギルドの掲示は誤解を招く可能性がある。庁が勝手に現地の制度を書き換えることはできないため、支援員を通して掲示内容の確認と改訂の申し入れを行うことにした。瀬川には、試験の合格や勤務先の確約はできないと伝えた。
それでも青年は、来たときよりずっと軽い表情で帰り支度を始めた。
「すみません。俺、クロに何かさせることばっかり考えてました」
「気づいたことを、向こうでも話せるといいですね」
「……俺の言葉、通じますかね」
「そこは、クロさんにしかわかりません」
瀬川が苦笑する。クロは最後まで椅子を諦めない様子だったが、接続終了の合図には抵抗せず、瀬川とほぼ同時に姿を消した。
床に残ったのは、白い投影光の名残と、ひっくり返った訓練用の布だけだった。
*
相談室へ戻ると、ミラが記録画面を開いて待っていた。
「今回の相談、記録様式の不備がありました」
「ギルドの掲示のことですか」
「それとは別です。獣縁契約の補助記録には、人間側の申告を保存する欄しかありません。相手が接続を受け入れたことは別の技術記録にありますが、説明の控えでは双方を照合できないんです」
画面には、人間の名前を書く長い欄と、《契約対象》という短い欄だけが並んでいた。
「……相手の署名欄が、ありませんね」
「ええ。狼に署名を求めるという意味ではなく、相手の受入記録への参照先がない、という意味です」
ネネは思わずミラを見た。珍しく、彼女の説明がとてもわかりやすい。
「ミラさん、いまの言い方、すごくいいですね」
「そうですか。白瀬さんに『技術の話は相手が理解できる順番でしなさい』と指摘されました」
「……人のこと言えたんですね、白瀬さん」
「僕は今、改善中です」
白瀬は淡々と言いながら、改訂案の用紙をミラへ渡した。
そこには《対象側の意思確認方法》《受入の時刻》《確認者》の欄が増えている。相手が文字を使えなくても、どういう方法で意思を確かめたか記録できるようにする案だった。あくまで様式の改善提案であり、すでにあるすべての契約が無効になるわけではない。
ネネは一つずつ目を通した。
誰が署名したか。
何について、了承したか。
いつ、どうやって確かめたか。
昨日、東別棟の窓口で請求した四つの項目が、自然と頭に浮かぶ。
自分は就業支援を受けることに同意したのだろう。仕事を探すための説明に頷いた記憶も、途切れ途切れだが残っている。けれど、それは誰かが選んだ耳と尻尾を、そのまま受け入れるという意思表示だったのだろうか。
身体形質の候補が登録されたのは、庁基準の四月十四日。庁内就業を申し込んだのは、十六日。索引には順番だけが書かれていた。説明を受けた日の記録も、同意書の写しも、まだ手元にはない。
ネネは耳へ手を伸ばしかけて、やめた。
「雨宮さん?」
白瀬が声をかけた。
「……いえ。今回の書類、ちゃんと残しておきたいと思って」
「様式の改善案ですか」
「はい。それと、何に同意したのかを書き分けること。相手が狼でも、人間でも」
白瀬は何かを察したようだったが、尋ねなかった。代わりに、記録を保存するための受付番号を読み上げた。
ネネはそれを控えに書いた。昨日持ち帰った自分の開示請求の受付控えとは、別の紙に。
二つを一緒にすれば便利かもしれない。けれど、便利だからといって、違う人の手続きを同じ箱へ入れていいわけではない。
そこへ黒羽室長が、休憩室から戻ってきた。
「雨宮君。差し入れ、ごちそうさま。ところでミラ君から、菓子を四等分した記録が回ってきたんだが」
「……記録?」
「私の分が、ほかより二・三グラム軽かったという異議申立てがついている」
ネネはミラを見た。
「測定誤差はあります」とミラは答えた。「ただ、室長のものだけ、木の実が二粒少なかったのは事実です」
「そんなの、どうしろっていうんですか!」
「再配分は不可能なので、次回のお菓子で調整する案を提出しました」
黒羽は書類をひらひらさせた。
「この件は持ち帰ります」
「持ち帰らないでください。お菓子、もうないんですから!」
相談室に笑いが広がった。ネネも笑いながら、机の端に置いた二枚の受付控えを引き出しへしまった。
まだ答えは出ていない。けれど、何を聞くべきかは、昨日より少しだけはっきりしていた。
「そうそう、雨宮君」と室長が言った。「明日の午前、優先配属制度の職員向け説明会がある。相談室から君と白瀬君に出席してもらいたい」
その名称を聞いて、ネネの指が引き出しの取っ手に止まった。岡部の記録に載っていた、人手の足りない受入先へ転生者を推薦する制度。自分の記録に押された、斜線二本の四角い印との関係は、まだわからない。
「説明会なら、質問してもいいんですか」
「もちろんだ。制度のことを知るために行くんだからね」
「……では、聞きたいことがあります」
黒羽は満足そうにうなずいた。ネネは、説明会で質問すること自体に許可が要ると思い込んでいた自分が、少しおかしかった。
次の呼出音が鳴ると、ネネの長い耳がぴんと立つ。
今日の相談者は、整理券を握ったまま静かに待っていた。ネネは席を立ち、いつもの笑顔を作った。
「お待たせしました。どうぞ、お話をお聞かせください」




