第16話 契約書に、相手の署名がありません(前編)
休み明けの相談室で、雨宮ネネは菓子箱を開ける前から嫌な予感がしていた。
東別棟の帰りに買った木の実のタルトである。頑張って番号札を取り、長い時間待ち、ようやく自分のことを尋ねてきた、そのささやかな記念品だ。一個だけ買うつもりが、職場の面々の顔を思い出して三個になった。休憩室に置けば皆で食べられると思ったのだが、箱の蓋には店の焼き印が押されていた。
《おひとり様、一日三個まで》
「……昨日は三個しか買ってませんけど」
「店の決まりを、今日まで持ち込まなくても大丈夫ですよ」
白瀬律が書類の束から顔も上げずに答えた。向かいの席では、若い女神のミラがすでに小皿を数えている。
「雨宮さんを含めて四名です。タルトは三個。分割比率をどうしますか」
「四等分でお願いします。端っこが崩れても、そこは公平に」
「公平な分割には重量の測定が必要です」
「お菓子にそこまでの公平を求めないでください」
ミラは真顔で小型の秤を取り出しかけ、ネネは慌てて箱を抱えた。昨日の窓口でも思ったことだが、この庁では物事をきちんとしようとするほど、なぜか息苦しくなる。
菓子を休憩室へ運んで戻ったとき、呼出板に最初の相談番号が灯った。
《獣契約/履行不良》
「履行不良、ですか」
「契約した魔物が命令に従わない、という相談ですね」と白瀬。
「契約なら、内容を見れば済みますよね」
「そうだといいですね」
その言い方が気になった。白瀬が先にこう言う日は、だいたい書類を増やされる。
*
「俺は、この世でいちばん情けない魔物使いです」
開口一番そう言った青年は、情けないというには随分立派な格好をしていた。深緑の外套に革の胸当て、腰には鈴を連ねた短い杖。片方の肩だけが泥で汚れており、頬には新しい引っかき傷がある。
「どうされましたか。お怪我は大丈夫ですか」
「傷は平気です。こっちが傷ついてるんです」
青年は胸を押さえ、意識接続された身体ごと机へ突っ伏した。鈴がじゃらじゃらと鳴り、隣の窓口の職員が一斉に顔を上げる。
「まず、お名前を伺ってもよろしいでしょうか」
「瀬川直人。転生後は魔物使いです。相棒は黒曜狼のクロ。契約を結んで半年になります」
「黒曜狼……」
「山では一番強い種族のひとつなんです。大きくて、足が速くて、夜になると目が青く光る。あいつが本気を出せば、大型の魔獣だって追い払えるんですよ」
瀬川の声には、いくらか誇らしさが戻った。
「ただ、俺の命令だけを聞きません」
ネネは筆を止めた。
「ほかの方の命令には従うんですか」
「村の子どもが『おいで』って言うと、行きます」
「それは……」
「パン屋のおばちゃんが『そこ、邪魔』と言うと、どきます。俺が『進め』と言うと、座ります」
白瀬が静かに尋ねた。
「『座れ』と言ったら、どうなりますか」
「俺が座らされます」
どういう仕組みなのかと思ったら、瀬川は腰の鈴を指した。クロと距離が近いとき、合図に対して互いの動きを感じる力が働く。瀬川が身をかがめて指示すると、クロが肩を押してくるのだという。
「昨日なんか、俺がしゃがんだまま立ち上がろうとしたら、あいつが背中に顎を載せて寝始めたんですよ。二時間です。通りがかりの子どもに『魔物使いさんも飼われてるの?』って聞かれて」
「それは、お疲れさまでした」
「疲れてるのは俺の太腿です!」
鈴がもう一度騒がしく鳴った。
ネネは口元を押さえた。笑ってはいけない。本人は困っている。けれど、大きな狼に背中を預けられ、膝を震わせながら二時間耐える魔物使いの姿が、どうしても頭に浮かぶ。
「それで、どんなことを命令したかったんですか」
「来月、村の護衛隊で実地試験があるんです。俺も正式に入れてもらいたい。クロと連携して、巡回や魔獣の追い払いができるって証明したいんです」
「それは大事な試験ですね」
「なのに、朝の訓練に来ない。迎えに行くと寝てる。連れていっても、笛が鳴るたび地面に腹をつける。教官には『よく躾けられた寝具だ』って言われました」
ネネは、そこでようやく瀬川の切実さを理解した。仲間と信頼を築きたい。働き口も欲しい。なのに自分の技能そのものを笑われる。それでは相談に来たくもなるだろう。
「契約の内容を確認させてください」
「持ってきました。これです」
瀬川は外套の内側から革張りの書類入れを出した。意識接続時には本人が持参を申請した物だけが庁舎内で扱える。袋に貼られた持込確認票が、そのまま折り目になっていた。
取り出した紙は、端が何度も広げられたせいで柔らかくなっている。
《転生技能付与承諾書》
《付与技能 獣縁契約》
《効能 対象となる魔物との意思伝達および協力行動の成立を補助する》
《制限 対象の意思に反する行動の強制を保証しない》
「ここに、ちゃんと契約って書いてあるじゃないですか」
「書いてありますね」
「だから、命令が通るはずでしょう」
ネネは一行目を、もう一度読んだ。
「瀬川さん、これは転生するときに、瀬川さんへ『獣縁契約』という技能を付けてよいか確認した書類ですね」
「そうですよ。その能力でクロと契約したんです」
「クロさんが何に同意したかは、この書類には書かれていません」
「……え?」
瀬川が紙を取り返し、目を走らせた。
「でも、俺は署名しましたよ」
「はい。瀬川さんのお名前があります」
「だったら成立してるじゃないですか」
「技能を付与する手続きについては、そうです。クロさんとの約束まで、同じ署名で決められるわけではありません」
瀬川の眉間に深い皺が寄った。
「狼に字を書けって言うんですか」
「……それは、たぶん無理だと思います」
横でミラが口を挟んだ。
「黒曜狼の筆記適性は未測定です。前脚の構造からすると、羽根ペンの保持は困難かと」
「調べなくていいです」
ネネは即答した。相談をしているのは文房具の使い方ではない。
*
ミラが転生記録と現地の契約補助記録を照合したところ、問題は思いのほか複雑だった。
獣縁契約は、魔物へ命令を刻み込む術ではない。意思伝達のための細い経路を開き、互いの位置や危険を感じ取りやすくする技能である。相手が接続を受け入れなければ成立しないが、一度成立しても、すべての指示に従う義務が生じるわけではない。
「でも契約のとき、クロは俺の手に鼻を押しつけたんです。それで光の輪が出て、契約成立って表示されたんですよ」
「その時点で、クロさんは接続を受け入れたのでしょう」と白瀬が言った。「ただ、何を一緒にするかは、そのあと決めていくことになります」
「じゃあ俺、契約したつもりで、まだ何も決めてなかったんですか」
「位置と危険を共有することには同意があった可能性があります。ただ、護衛隊の訓練への参加まで同意したかは、別です」
瀬川は椅子にもたれた。革の胸当てがぎしりと鳴る。
「……そんな話、最初に聞きたかった」
その言葉を聞いて、ネネは反射的に白瀬を見た。白瀬もこちらを見ていた。ふたりとも、一本の包丁のことを思い出したのだろう。
技能の説明書は、たしかに「強制を保証しない」と書いている。しかしそれを、当人がどんな意味に受け取ったか。現地の案内まで含めて確認しなければ、また書面だけで片づけることになる。
「転生のとき、ほかにどんな説明を受けましたか」
「担当の人には『魔物との信頼関係を育てる技能です』って。それで現地に着いてから、ギルドの人が『契約した魔物は命令を聞く』って言うから、そういうもんなのかと」
「案内した場所が違うんですね」
「はい。ギルドの訓練場に、その説明が大きく貼ってあって……」
瀬川は恥ずかしそうに顔をそらした。
「俺、それを見て、やっと強そうなことができると思ったんです。前の人生じゃ、何をやっても人並みで。せめて次は、誰かに頼られる側になりたくて」
だから、外套も胸当ても、鈴のついた杖もそろえた。クロが寄り添ってくれたとき、自分には初めて立派な相棒ができたと思った。
ネネは、安易に「わかります」とは言わなかった。人並みであることを嫌い、誰かに認められたいと思う気持ちは、たぶん自分にもある。けれど、瀬川がクロと過ごした半年のことは、本人にしかわからない。
「契約した日、クロさんとはどうやって出会ったんですか」
「山の罠に脚を引っかけてたんです。猟師の罠じゃなくて、魔獣用の古いやつ。暴れると締まるから、俺が外してやって……そのあと、ついてきました」
「脚は治りましたか」
「はい。現地の獣医に診てもらったんで。大丈夫です」
答えながら、瀬川はようやく紙から目を離した。
「でも、俺の言うことを聞かないのは本当なんです。助けたことだって覚えてないのかな」
ネネは彼の前にあった書類を、いったん伏せた。
「クロさんにも、聞いてみませんか」
「どうやって。あいつ、人の言葉しゃべりませんよ」
「人の言葉に訳さなくても、聞けることがあるかもしれません」
ミラが顔を上げた。
「接続した魔物については、本人の受入反応を確認したうえで、別回線の意思投影を許可できます。大型の場合、相談室ではなく安全確認室になります」
「できるんですか!」
「ただしクロさん自身が接続を受け入れなければ、ここには来ません。強制的な呼出しはできません」
瀬川は頷きかけ、途中で口を閉じた。
「……あいつ、来てくれるかな」
初めて、命令ではなく問いかける声だった。
*
安全確認室には、爪に強い床材と、扉より大きな扉があった。
ネネは後者の意味がわからず、白瀬に尋ねた。
「大型の来庁者用です。以前、翼のある方が扉を通るとき、羽だけ向こう側に残りまして」
「残って大丈夫な羽だったんですか」
「大丈夫ではなかったので、改修しました」
改修したなら安心だろうと思ったが、扉の脇には《頭部および尾部の巻き込みに注意》の札も貼ってある。安心という言葉にも種類があるらしい。
手続きは現地支援員との連絡から始まった。瀬川は睡眠中の意識接続で来庁している。クロも現地で眠っていなければ同じ方法では接続できないため、支援員が様子を確かめることになった。無理に眠らせることはしない。
ほどなく、伝話器から返答が来た。
『クロは洞穴で休息中です。接続の合図を送ります。受け入れるかどうかは、こちらではわかりません』
瀬川は掌を握り締めて待った。装置には、同意の意思が確認できるまで投影しない旨が表示されている。
一度、明かりが灯りかけて消えた。
「断られたんでしょうか」
「まだわかりません。最初の反応は、接続先が違うという合図でした」とミラ。
「違う?」
「指定した名前が『漆黒の覇王クロノス』になっています」
ネネはゆっくり瀬川を見た。
「正式なお名前、そうなんですか」
「……俺が名付けました」
「普段はクロと呼んでいらっしゃるんですよね」
「村の子がクロって呼ぶようになって、それが定着して」
「ご本人が聞き慣れた名前にしてみましょうか」
ミラが表示名を《クロ》に直すと、二度目の合図にはすぐ返事があった。
床の魔法陣が青白く光り、そこへ獣の輪郭が現れる。まず太い前脚、次に黒い毛の肩、最後に大きな頭と長い尾。立ち上がればネネの胸の高さに頭が届く。星屑のように光る灰色の毛が、黒曜石を思わせる背に流れていた。
「……大きい」
思わず漏らしたネネの声に、獣が顔を向けた。
その瞬間、待機していたミラが接続完了の呼出音を鳴らした。
ぴんぽん、と軽快な音が響く。
クロは腹を床につけた。四本の脚を折りたたみ、尾で鼻先を隠す。そのあまりに素早い動きに、ネネは一拍遅れて驚いた。




