EP 7
月兎の傷跡と、戦術的公衆衛生
「……控えめに言って、中世レベル以下だな」
翌朝。優太はポポロ村の中を歩き回りながら、重いため息を吐いていた。
水汲み場である井戸と、排泄物を処理する穴との距離が近すぎる。村人は泥だらけの手でそのまま平然と食事をとっているし、前日治療した患者の周囲も換気が最悪だ。
『銃・病原菌・鉄』の歴史を紐解くまでもなく、戦場において銃弾や刃物よりも多くの兵士を殺すのは、不衛生による「感染症」である。
怪我を治しても、環境がこれではいずれ疫病で村が全滅する。
優太は人目を避け、ホログラムUIを開いた。
現在の所持ポイントは『6067P』。昨晩の命の救済によって得た大金だ。
ためらうことなく、地球の生活・衛生用品カテゴリをタップする。
(薬用ハンドソープ、逆性石鹸液、高濃度アルコール消毒液、使い捨てのペーパータオル……あとは井戸周辺の浄化用に塩素系漂白剤か)
これだけ大量に購入しても、消費したのはわずか50Pほどだ。地球の工業生産力と、このチートスキルのレートの低さには感謝しかない。
光の粒子と共に現れたプラスチックボトルの群れを抱え、優太は村長宅へと戻った。
* * *
「あ、優太君……?」
ベッドの上で身を起こしたキャルルが、不思議そうに優太の荷物を見つめた。
昨日までの余所々々しさが抜け、少し砕けた親しみやすい声色になっている。美味しいカレーと命を救ったことで、彼女の心の壁が完全に取り払われたのだろう。
優太は荷物を置き、昨日巻いたCAT(止血帯)と圧迫包帯を慎重に解いていく。
「少し沁みるぞ」と声をかけ、消毒液を染み込ませたガーゼで患部を拭った。
「っ……ぁ、ちょっと、痛いかも」
「我慢しろ。傷口からバイ菌が入れば、足を切り落とすことになる。そうならないための処置だ」
「うん、わかった……。ねえ、優太君」
キャルルは痛みを堪えながら、ウサギの耳を揺らして優太を見上げた。
その瞳には、純粋な感謝以上の、ひどく熱を帯びた感情が渦巻いている。
「なんで、よそ者の私たちにそこまでしてくれるの? 人間の商人なんて、もっと計算高くて、私たちを騙そうとするのに」
「医者の性みたいなもんだ。目の前に助けられる命があるなら、助ける。それだけだ」
優太が淡々とガーゼを交換しながら答えると、キャルルは自嘲するように小さく笑った。
「……私ね、レオンハート獣人王国の、王族の端くれだったんだ」
「王族?」
「そう。月兎族は、満月の夜に膨大な闘気と治癒の奇跡を起こすって言われてるの。だから、権力者たちは私たちを『最高の近衛騎士』や『愛玩用の妾』として籠の鳥にしたがるんだよね。それが嫌で……私、国を捨ててルナミス帝国へ亡命したの」
ルナミス帝国。佐藤太郎という転生者が百年前に築いた近代魔導国家の噂は、優太も昨日バウたちから少し聞いていた。
「帝国での生活は、本当に自由だったよ。冒険者として日銭を稼いで、ルナキンってファミレスで朝定食食べて、サウナに入って……友達と夜中まで通信石で長電話して。すごく、楽しかった」
地球の女子大生のような生活に、優太は内心少し驚いた。だが、彼女の表情はすぐに翳る。
「でも、このポポロ村の依頼を受けて……ここの人たちの不器用な優しさに触れて、村長になったの。私が身を削って、満月の力で皆を守れるなら、それでもいいかなって……そう、思ってたんだ」
昨晩、重傷の青年に対して、自らの血を吐きながら治癒の力を使おうとしたキャルルの姿が重なる。
優太は処置の手を止め、鋭い視線でキャルルを射抜いた。
「……ふざけるな」
「えっ?」
「自己犠牲を前提にした防衛線は、いつか必ず崩壊する。お前が命を削って死んだら、助けられた村人たちはどうなると思う? 一生、お前を見殺しにした後悔と地獄を背負って生きることになるんだぞ」
優太の声は、低く、冷酷なまでに厳しかった。
ハワイの路地裏で、何もできずに友を失った己の絶望。遺された側の地獄を、優太は誰よりも知っている。
「俺が来たからには、そんな真似は絶対にさせない。お前は自分の人生を生きろ。この村の命は……俺が全部、守り抜いてやる」
それは、医官としての、そして一人の男としての嘘偽りない決意だった。
だが。
その言葉を聞いたキャルルの反応は、優太の予想とは少し違っていた。
「私の命を……優太君が……」
彼女の長い耳が、ピンと直立する。
見開かれた瞳の奥に、暗く、ねっとりとした熱い炎が灯った。
呼吸が荒くなり、白い頬が異様に紅潮している。
「あぁ……なんて、強くて、優しいの……。私が背負うべき地獄まで、全部奪い取ってくれるんだね」
「ん? いや、そういう意味じゃ——」
「わかった。私のこの命も、私のすべては……全部、優太君のもの、だね。優太君のためなら、私……なんだって、誰だって——」
キャルルが両手で己の頬を包み込み、恍惚とした表情で何かを呟いている。
優太は首を傾げたが、(熱があるのか?)と解釈し、「とりあえず安静に寝てろ」とだけ告げて部屋を出た。
* * *
その日の午後、優太は村の広場に村人たちを集めていた。
「いいか。見えない『病の元』は、この泡で落とすことができる。飯を食う前、トイレの後は、必ずこの『石鹸』で手を洗え」
村人たちは、優太が実演する薬用石鹸の豊かな泡立ちと、その爽やかな香りに目を丸くして歓声を上げた。
アルコール消毒の徹底。排泄物処理のルール化。
地球では当たり前の『公衆衛生』の概念を、戦術的な視点から村の防衛システムとして組み込んでいく。
『パラパパパパーン!』
【善行を確認しました】
【対象:公衆衛生の導入・疫病の予防】
【地域社会への貢献度:中】
【ポイントを加算します:+200P】
(なるほどな。『予防医療』も、立派な地域貢献(善行)として評価されるのか)
優太は口元に微かな笑みを浮かべた。
これでまた一つ、村の生存率が上がった。
だが、優太の有能さと村人からの支持を、面白く思っていない者もいた。
「ちっ……人間風情が、石鹸だの泡だのと、調子に乗りやがって」
広場の隅。
大柄な竜人族の青年——村の自警団員であるイグニスが、巨大な両手斧を肩に担ぎながら、苛立たしげに鼻から煙を噴き出していた。
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