EP 3
月兎の刺繍と、絆の金曜日カレー
金曜日の夕暮れ。
底冷えのする冬の冷気がポポロ村を包み込み始めているが、村長宅のダイニングキッチンだけは、驚くほどポカポカと温かく、そして……暴力的なまでに食欲をそそるスパイシーな香りに満ちていた。
「よし。タマネギの飴色化は完璧だな。ルーの粘度、スパイスの揮発状態、すべて計算通りだ」
エプロン姿の中村優太が、木べらを手にして大きな寸胴鍋の前に立っている。
海上自衛隊の伝統に倣い、彼が率いるポポロ村自警団においても、毎週金曜日の夕食は『カレー』と決まっていた。
これは単なる嗜好ではなく、曜日感覚を失いがちな長期任務において、隊員の体内時計をリセットし、士気と栄養状態を同時に引き上げるための完璧なロジスティクスである。
今日のメニューは、先日イグニスが討伐してきた巨大魔物の肉を使った『特製ライオン肉カレー』。
優太が【地球ショッピング】のスキルで取り寄せた数十種類のスパイスを絶妙なロジックで配合し、肉の臭みを完全に消し去った上で、極上の旨味だけを引き出している。
コトコトと煮込まれる鍋の音をBGMに、リビングのソファでは、月兎族の村長・キャルルが、膝の上に布を広げて黙々と作業をしていた。
(……優太さんのタクティカルポーチ、この前の世界樹の騒動で擦り切れてしまっていましたからね。新しく調達したこのポーチに、私なりの『魔除け』を施してプレゼントするんです!)
キャルルの手には、軍用の頑丈な黒いポーチと、裁縫道具が握られていた。
彼女が刺繍しているのは、ただの模様ではない。オレンジ色と緑色の糸を巧みに使い分け、ミリタリー調の無骨なポーチの端に、小さくも可愛らしい『人参』のマークを縫い付けているのだ。
(ふふっ。私の愛の結晶である人参のエンブレム。これを持っていれば、どんな激戦区でも優太さんは絶対に無事に帰ってこられるはずです)
キャルルはウサギの耳をピンと立て、上機嫌で針を動かす。
元々はレオンハート獣人王国の姫君である。武術だけでなく、こうした手芸の類も、実は王族の教養として極めて高いレベルで習得している。
しかし、彼女の視線は、手元の針先と、キッチンでカレーを煮込む優太の背中を、無意識に何度も往復してしまっていた。
(……最近の優太さん、なんだか少し、雰囲気が柔らかくなりましたよね)
キャルルは、優太の横顔を見つめながら内心で呟いた。
以前の彼は、どこか自分一人で地獄を抱え込み、他者を「管理」することでしか守れないと張り詰めているようなところがあった。だが、ルナの騒動を乗り越えてからというもの、自警団の仲間たちに対して、ごく自然に背中を預けるようになっている。
(私が作ったクレープを食べてくれた時の顔……あれは反則です。思い出したら、また心音が……)
キャルルの白い頬が、カレーの熱気とは違う理由でポッと赤く染まる。
「……ん? キャルル、火加減を見ていてくれるか? 隠し味のインスタントコーヒーを取ってくる」
「あ、はいっ! お任せください!」
優太がふいに振り返ったため、キャルルはビクッと肩を揺らし、慌てて手元に視線を戻した。
その時だった。
チクッ。
「あっ……」
焦った手元が狂い、鋭い刺繍針の先端が、キャルルの人差し指の腹を浅く刺してしまった。
ぷっくりと、赤い血の雫が滲み出る。
「……痛っ。ドジしちゃいました……」
キャルルは慌てて指を口元に運び、血を舐めとろうとした。
月影流の過酷な修行で岩を砕き、鋼鉄の魔物を蹴り飛ばしてきた彼女にとって、針で指を刺すなど、ダメージ(トリアージ)の基準にも満たないゼロに等しい負傷だ。
だが、この家には、その『ゼロ』を絶対に許さない男がいる。
「どうした」
背後から、底冷えのするような、それでいて有無を言わせぬ圧を持った低い声が響いた。
いつの間にか、キッチンにいたはずの優太が、キャルルの目の前に立っていた。
「ゆ、優太さん! なんでもないです、ちょっと針が刺さっただけで……」
「指を見せろ」
「えっ、でもカレーが……」
「カレーは弱火にした。いいから見せろ」
優太は有無を言わさず、キャルルの小さな手首をがっしりと掴んだ。
そして、人差し指の腹に滲んだ、ほんの数ミリの血の跡を、まるで重傷患者を診るような鋭い眼光で睨みつけた。
「……優太さん、こんなの唾をつけておけば、半日もせずに塞がりますよ? 私、月兎族ですし……」
キャルルが恥ずかしそうに身を縮める。
実際、彼女の自然治癒力なら本当にその通りなのだが、優太の医官としてのロジックはそれを許さなかった。
「馬鹿を言うな。口腔内には無数の雑菌がいる。傷口を舐めるのは感染症のリスクを跳ね上げる最悪の愚行だ」
優太はキャルルの手を引いたまま、タクティカルリュックの置かれた場所まで歩き、医療キット(メディックポーチ)を展開した。
「たかが針の刺し傷だと侮るなよ、キャルル。切り傷と違って、針のように細く深い傷(刺創)は、傷口がすぐに塞がるせいで、奥に入り込んだ細菌が外に排出されにくい。特に、酸素を嫌う嫌気性菌……『破傷風菌』などが繁殖するには絶好の環境(温床)になる」
「は、はしょうふう……?」
優太の医学的で物騒な単語の羅列に、キャルルのウサギの耳がペタンと垂れ下がる。
優太は滅菌精製水のパックを開け、キャルルの指の傷口を徹底的に洗い流した。冷たい水が傷口を洗浄していく。
「お前の治癒力が高いのは知っている。だが、慢心は兵站を崩壊させる一番の敵だ。俺が医官である以上、この部隊(自警団)で感染症の発生は一件たりとも許さない」
優太はピンセットと滅菌ガーゼで素早く水分を拭き取ると、傷を湿潤環境で治す『ハイドロコロイド絆創膏』を、キャルルの指にピタッと、シワ一つなく完璧に貼り付けた。
その手つきは、恐ろしいほど冷徹で無駄がない。
だが、指先に触れる優太の大きな手のひらの体温は、どこまでも優しく、そして温かかった。
「……よし。止血および処置、完了だ。今日一日は水仕事を避けろ」
優太は絆創膏の端を軽く指で押さえ、ようやく厳しい表情を崩して、短く息を吐いた。
「優太さん……」
キャルルは、綺麗に絆創膏が貼られた自分の指先を見つめた。
ただの針の傷。普通の冒険者なら笑って済ませるような怪我に、ここまで真剣に、そして全力で向き合ってくれる男。
(……ずるいです、優太さんは)
キャルルの胸の奥で、トクトクと鼓動が跳ねる。
相手の心音が嘘をついているかどうかが分かる彼女の耳には、優太の冷静な言葉の裏にある「絶対に仲間を失いたくない」という、不器用で純粋な優しさが痛いほどに伝わってくるのだ。
「……ありがとうございます、優太さん」
キャルルは、ペタンと垂れていたウサギの耳をパタパタと嬉しそうに揺らしながら、極上の笑顔を向けた。
「これくらい当然のロジスティクスだ。……で? お前、さっきから何を隠してるんだ」
優太が、キャルルが背中に隠そうとしていた黒いポーチを顎でしゃくった。
「あわわっ! こ、これはですね!」
キャルルは観念したように、刺繍の途中のタクティカルポーチを差し出した。
「優太さんのポーチが古くなっていたので、新しいのを調達して……その、私なりの魔除けのエンブレムを……」
優太はポーチを受け取り、そこに縫い付けられた、無骨なミリタリー装備には似つかわしくない可愛らしい『人参』の刺繍をじっと見つめた。
「…………」
数秒の沈黙。キャルルは「やっぱり、軍装に人参は怒られますよね……」とシュンと俯きかけた。
しかし。
「……悪くないな」
優太は、口元に微かな笑みを浮かべ、その人参ポーチを自分の腰のベルトにカチャリと装着した。
「えっ!?」
「軍用装備において、視認性の高いオレンジ色は本来タブーだが……まぁ、衛生兵の装備なら、味方から見つけやすい目印として機能する。ありがたく使わせてもらう」
優太はそう言って、キャルルの頭をポンポンと軽く撫でた。
「優太、さん……!」
キャルルの顔が、限界突破で真っ赤に染まる。
(私の愛の結晶(人参)が、優太さんの腰に……! はわわわわっ、心音が、心音がうるさすぎますぅっ!)
「よし。治療も終わったし、カレーの仕上げだ。キャルル、味見を頼めるか?」
「は、はいっ! 喜んで!」
キャルルは立ち上がり、絆創膏の貼られた指を大事そうに胸に抱きながら、優太の隣に並んでキッチンに立った。
寸胴鍋の中では、極上のライオン肉と数十種のスパイスが溶け合い、完璧な黄金色のカレーが完成しつつある。
「ルナちゃんとリーザちゃん、イグニスも、もうすぐ帰ってきますね。今日の金曜日カレーは、みんな驚くほど食べますよ!」
「ああ。食料の備蓄は十二分にある。食える時に食わせておくのが、長期戦の基本だ」
外の冬将軍がどんなに冷たい風を吹かせようとも、ポポロ村の村長宅のキッチンには、二人の穏やかな笑い声と、絆を煮込むような温かい匂いが満ちていた。
この平和な日常が、間もなく迫り来る『死の群れ』の脅威によって脅かされることなど、まだ誰も知らない。
今はただ、このささやかで幸せな金曜日のカレーを、二人で優しく煮込むのだった。
読んでいただきありがとうございます。
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