EP 8
ピンポイントの『免疫抑制魔法』と、鳥籠の崩壊
出力、わずか3%。
ルナ・シンフォニアの放った極細の自然魔法『精霊の癒光』は、完全に塞がる寸前だったツルの風穴を、糸を通すような精密さですり抜けた。
そして、ドームの心臓部であるエメラルドグリーンの『コア』の中央へ、音もなく吸い込まれていく。
「……」
ドーム内の時間が、一瞬だけ止まったかのように感じられた。
爆発音は、鳴らなかった。
衝撃波も、熱波も、閃光も発生しなかった。
ただ、ポチャン……という、静かな水面に雫が落ちたような、優しく澄んだ音が響いただけだった。
「届いた……?」
両手斧を構えたまま、イグニスが息を呑む。
キャルルも、特注の安全靴から紫電の闘気を収め、じっと風穴の奥を見つめていた。
ルナの放った光の針が突き刺さったコアの表面に、波紋のような優しい緑色の光が広がっていく。
ドクンッ、ドクンッ、ドクンッ! と、パニックを起こしたように早鐘を打っていたコアの激しい脈動が、その光の波紋が広がるにつれて、少しずつ、少しずつ、穏やかなリズムへと変わっていく。
「バイタル、低下傾向。……効いてるぞ」
優太がG-SHOCKの盤面から視線を上げ、安堵の息を吐き出した。
「優太さん、あれは……?」
「ルナの魔法が、世界樹の過剰防衛システムに対する『免疫抑制剤』として完璧に機能したんだ」
優太は、コアの鼓動が完全に正常なリズム(平熱)に戻ったのを確認して、短く解説した。
「破壊じゃなく、鎮静。ルナの込めた『私は無事だ、もう攻撃しなくていい』という純粋な意志の信号だけが、システムのセンサーを通り抜けて中枢に直接届いた。これでもう、免疫暴走は起きない」
その言葉を裏付けるように、村人たちの脳内に直接響いていた、あの狂気的なまでに過保護な世界樹の思念に変化が訪れた。
『――愛シキ、娘ヨ。
……生体反応ノ安定ヲ、確認。
外界ノ脅威レベル、ゼロ。安全圏ト認定シマシタ。
……オヤスミナサイ、私ノ愛シイ小鳥……』
狂乱していた母親が、子供の無事な寝顔を見てようやく安心し、自らも深い眠りにつくような。
そんな、どこまでも優しく、穏やかな思念がフッと途切れた。
直後。
ポポロ村を分厚く覆い尽くしていた巨大なツルのドームが、サラサラと音を立てて解け始めた。
「おおっ……! 見てください、壁が……!」
キャルルが空を指差す。
強酸にも衝撃にも耐え、ルナの極大魔法すら吸収した絶対に破れない無菌室の壁。
それが今、内側からボロボロと崩れ落ちるのではなく、一枚の巨大な布が光の粒子に変わるように、美しく透過して消え去っていく。
何百本、何千本と絡み合っていたツルが、淡いエメラルドグリーンの光の粒となり、まるで春の雪のようにポポロ村の空を舞い散る。
「わぁ……綺麗ですわ……」
鱗ドレス姿のリーザが、空から降る光の粒に手を伸ばしてウットリと呟いた。
「俺様の炎でも燃やせなかった草が、こんな簡単に消えちまうなんてな。魔法ってのは不思議なもんだぜ」
イグニスが両手斧を背中にしまい、豪快に笑う。
光の雪が晴れると、そこには、元のポポロ村の冬の空が広がっていた。
厚い雲の隙間から、夕暮れの茜色の陽光が差し込み、村の広場を温かく照らし出す。外界から完全に隔離されていた鳥籠は、一切の破壊の爪痕を残すことなく、完璧に解体されたのである。
「お、終わったか……?」
「空が見えるぞ! 助かったんだ!」
家屋の中に避難していた村人たちが、恐る恐る外に出てきて、空を見上げて歓声を上げ始めた。
広場の中央。
ルナ・シンフォニアは、杖を握りしめたまま、夕陽に照らされて立ち尽くしていた。
極限の集中力で魔力を『3%』に絞り込み、それを針のように制御するという、彼女の生涯で初めての神業。その反動で、彼女の手足はガタガタと震え、立っているのがやっとの状態だった。
「私……できましたの?」
ルナは、自分の両手と、消え去ったドームの跡を交互に見比べた。
「私が……私の力で……皆さんの村を、守れましたの……?」
ザクッ、ザクッ。
そんな彼女の背後に、足音が近づいてきた。
「ああ。完璧なオペレーションだった」
中村優太だった。
彼はガスマスクを首元に下げ、口元には火のついたアメスピを咥え、いつものような冷徹な医官の顔ではなく、心からの称賛を込めた柔らかい笑みを浮かべていた。
「風穴が開いてからコアに魔法を到達させるまでのタイム、2.8秒。出力も指示通り3%からブレなかった。初めての執刀にしては、満点だ」
「優太、様……」
「よくやったな、ルナ」
優太は大きな手で、ルナの純白の髪をポンポンと優しく撫でた。
「お前はもう、歩く災害なんかじゃない。このポポロ村自警団が誇る、立派な『魔導外科医』だ。……お前のそのメスが、村の皆の命を救ったんだよ」
その瞬間。
ルナの胸の奥で張り詰めていた糸が、プツンと切れた。
幼い頃から、どれだけ善意で動いても、結果的に周囲を破壊し、迷惑をかけ、腫れ物扱いされてきたエルフの王女。
「私の魔法は、人を傷つけることしかできない」という呪いのような思い込みが、優太の言葉と、この確かな『村を無傷で救った』という事実によって、完全に浄化されたのだ。
「あ、ぁぁ……っ、うわぁぁぁぁぁんっ!!」
ルナは杖を取り落とし、子供のように顔をくしゃくしゃにして大声で泣き出した。
それは、絶望の涙ではない。
自分の力が初めて誰かの役に立ち、そして自分を「仲間」として信じてくれた人たちに出会えたことへの、心の底からの歓喜と安堵の涙だった。
「ルナちゃん! すっごくカッコよかったです! 私、見直しましたよ!」
キャルルが駆け寄ってきて、泣きじゃくるルナをギュッと抱きしめる。
「ガハハ! 当たり前だ! 俺様たちが切り開いた道を無駄にしなかったんだ、大したタマだぜお嬢ちゃん!」
イグニスも豪快に笑いながら、ルナの肩をバンバンと叩く。
「ふふっ。私の特大バフがあってこその勝利ですけれど、最後の美味しいところを持っていかれたのは、少しだけ悔しいですわね。でも、今日は特別にセンターを譲って差し上げますわ!」
リーザも鱗ドレスを揺らしながら、得意げに胸を張る。
「うぇぇん……キャルル様、イグニス様、リーザ様ぁ……っ。ありがとうございます、ありがとうございますぅ……!」
ルナはキャルルの胸に顔を埋め、わんわんと泣きじゃくった。
村人たちも、ルナを非難する者は誰一人いなかった。
むしろ、自警団の面々と共に村を救ってくれた彼女に向かって、「ありがとうルナ様!」「お疲れ様ドス!」と温かい拍手と声援が送られている。
優太は、ワチャワチャと抱き合いながら喜ぶ彼らの姿を、少し離れた場所から静かに見守っていた。
アメスピの紫煙を空に吐き出す。
(……やれやれ。手間のかかる連中だが、まぁ、この最高に面倒くさい『俺の陣地』も、悪くない)
優太は、冷徹なロジックだけで世界を管理しようとしていた自分の心が、少しだけ丸くなっていることに気づき、小さく息を漏らした。
予測不能な他者を信じ、背中を預ける。
それは、合理性だけを追求する医官にとってはリスクでしかないはずだが、今の彼には、そのリスクすら心地よいものに感じられていた。
『――ピロリン♪』
優太の脳内に、天界のファンファーレのような、最高に澄み切ったシステム音が鳴り響き渡った。
『過剰防衛システム(アナフィラキシー)の完全鎮圧、および環境破壊を伴わない平和的解決を確認しました! 仲間の能力を最大限に引き出した完璧なロジスティクスとチームワークに対し、善行ポイント【+3000 P】を大獲得!! カルマ(運命力)が、あなたの成長と仲間の絆を絶賛しています!』
(……相変わらず、やかましいシステムだ。だが、3000ポイントか。これなら……)
優太はG-SHOCKで時間を確認し、スキル【地球ショッピング】のメニューを脳内で展開した。
「おい、お前ら! 泣くのはその辺にしておけ!」
優太が声をかけると、キャルルたちが一斉に振り返る。
「村の安全は完全に確保された。そして、俺たちの腹はペコペコだ。これより、ポポロ村自警団の慰労会と、ルナの『外科医デビュー』を祝して、特大の宴会を開く!」
「「「うおおおおぉぉぉッ!!」」」
村中から、地響きのような大歓声が上がった。
かくして、歩く大災害と恐れられたエルフの王女の参戦と、ヤンデレ世界樹の引き起こした前代未聞の鳥籠騒動は、中村優太の『医官のロジック』と『仲間への信頼』によって、一人の死傷者も出すことなく大団円を迎えたのだった。
だが、この事件の余波が、斜め上の方向で翌日に持ち越されることになるとは、まだ誰も予想していなかった。
読んでいただきありがとうございます。
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