EP 4
命の値段と、月兎の少女
血のついた両手を、浄水ボトルから出した僅かな水で洗い流す。
どれだけゴシゴシと擦っても、皮膚の隙間に入り込んだゴブリンの血は、生臭い匂いと共にこびりついて離れない気がした。
(これが、100ポイントの代償か)
画面の端で点滅する数字を見るたびに、胃の腑が重くなる。
だが、感傷に浸っている暇はない。生き延びるためにはポイントが必要だ。システムが命じるままに、森を徘徊して魔物を狩り続ければ、いずれ俺は感情を殺したただの『殺人マシーン』に成り下がるだろう。
「……ッ!」
その時、風に乗って微かな剣戟の音と、獣の咆哮が聞こえてきた。
システマの呼吸法で精神のブレを強制的に抑え込み、音の鳴る方角へ走る。茂みを抜け、開けた獣道に出た瞬間、俺の目に飛び込んできたのは、凄惨な戦闘の光景だった。
「グルァァァッ!」
「くっ……しつこい、ですねっ!」
体長二メートル近い、異様に発達した筋肉を持つ三頭の黒狼。
それを相手に立ち回っていたのは、一人の少女だった。
動きやすい黒のラフなパーカーに、ショートパンツ。そして足元には、なぜか地球のホームセンターで売っていそうなゴツい安全靴。だが、最も目を引いたのは、彼女の頭部から生えているピンと立った長い『ウサギの耳』だ。
(獣人……亜人種か。だが、あの動きは素人じゃない)
少女の両手にはトンファーが握られている。
黒狼の鋭い爪をトンファーで受け流し、空いた隙に安全靴のつま先で強烈な前蹴りを顎に叩き込む。洗練された武術の動きだ。
だが、戦況は明らかに彼女にとって劣勢だった。
理由は明白だ。少女の背後には、小さな籠を背負った人間の子供が二人、恐怖で泣きじゃくりながらうずくまっている。
少女は子供たちを庇うために、自分の回避スペースを極端に制限されていたのだ。
おまけに、現在は太陽が真上に登る昼間。なぜか彼女の動きには、本来のポテンシャルを発揮しきれていないような、重苦しい疲労が見て取れた。
「ガァァッ!」
「あッ……!」
一頭の黒狼が囮となり、少女のトンファーを弾く。
その決定的な隙を突き、死角から回り込んだもう一頭が、少女の右太ももに深々と牙を突き立てた。
「きゃあああっ!」
肉を裂く音。鮮血が宙を舞い、少女はバランスを崩して地面に倒れ込んだ。
黒狼たちが、勝利を確信して無防備な少女の喉元へ殺到する。
子供を庇い、血を流して倒れる姿。
それは、数時間前、日本の交差点で死にかけた俺自身の姿と完全に重なった。
(——見捨てる理由なんて、どこにもない)
気がつけば、俺の足は爆発的な速度で地面を蹴っていた。
三十メートルの距離を数秒で詰め、少女に飛びかかろうとした黒狼の側面にノーモーションで蹴りを叩き込む。
「キャンッ!?」
不意を突かれた黒狼が数メートル吹き飛ぶ。
残る二頭が驚き、こちらへ牙を剥いた。だが、俺は足を止めない。右手に逆手で構えたタクティカルナイフを、突進してくる一頭の眼球目掛けて躊躇なく突き立てる。
ゴブリンを殺した時の躊躇いは、もうない。こいつらは、俺の目の前で命を奪おうとする明確な『敵』だ。
急所を貫かれた黒狼が絶命して倒れる。
残った最後の一頭が、怯えを見せて尻尾を巻き、森の奥へと逃げ去っていった。
「だ、大丈夫かッ!」
残心の姿勢を解き、俺はすぐに倒れた少女の元へ駆け寄る。
状況は、最悪だった。
右太ももを深く抉られた傷口から、脈を打つように鮮血が吹き出している。大腿動脈、あるいはその太い分枝を損傷している証拠だ。この出血量なら、数分以内にショック死する。
「あ……あなたは……?」
少女が霞む目で俺を見上げる。その瞳には、助けられた安堵よりも、見知らぬ男(人間)に対する強い警戒心が宿っていた。
「動くな。すぐに止血する」
俺は背中のミリタリーリュックを前に回し、ジッパーを乱暴に開け放つ。
取り出したのは、黒いナイロン製のベルトのような器具——『CAT(コンバット・アプリケーション・ターニケット)』だ。
戦場において、四肢の大出血を止めるための最も確実で迅速な道具。
俺は少女の右太もも、傷口より五センチほど心臓に近い位置にCATを素早く巻きつける。
「少し痛むぞ。我慢してくれ」
「えっ……ぁ、痛ッ!?」
ベルクロを固定し、プラスチック製の棒を容赦なく回転させる。
ギリギリと締め上げられる圧迫感に少女が顔をしかめるが、手は緩めない。大腿動脈の血流を物理的に完全に遮断するまで、棒を回し続ける。
三回転半。吹き出していた鮮血が、ピタリと止まった。
「よし。棒を固定する」
ワインドラスをクリップに引っかけ、固定用のストラップで留める。
処置時間、わずか十五秒。
続いて、傷口に『クイッククロット(血液凝固剤が染み込んだガーゼ)』を素早く詰め込み、外側から圧迫包帯をキツく巻きつける。完璧な、教科書通りのTCCC(戦術的戦闘救護)だった。
「……嘘。血が、止まってる……?」
少女が、信じられないものを見るような目で自分の足を見つめた。
その時だった。
『パラパラパパーン!!』
またしても、俺の脳内にあの陽気で能天気なファンファーレが鳴り響いた。
視界の端に、ホログラムのウィンドウが強制的にポップアップする。
【善行を確認しました】
【対象:獣人の少女の救命(重傷)および子供の保護】
【地域社会への貢献度:中】
【ポイントを加算します:+1000P】
【現在の所持ポイント:1100P】
「——は?」
俺は、ウィンドウに表示された桁違いの数字を見て、思わず息を呑んだ。
魔物の命を奪った時に入ったポイントは、たったの『100P』だった。
だが今、目の前の命を救ったことで得たポイントは、その十倍の『1000P』。
(奪うよりも……救う方が、ポイントが高い?)
その事実が意味することを理解し、俺の全身に鳥肌が立った。
この『地球ショッピング』というチートスキルの本質。それは、血を流して敵を狩り続ける殺人鬼になることではない。
『善き行い』をし、命を救い、誰かを助けることこそが、最大のポイント効率を叩き出す『最適解』なのだ。
俺の行動原理。「もう誰も死なせない」という誓い。
それが、この狂った異世界システムに、真っ向から肯定された瞬間だった。
「あの……」
少女が、痛みを堪えながら身を起こした。ウサギの耳が、不安そうに少しだけペタリと寝ている。
「助けていただいて、ありがとうございます。私はキャルル……ポポロ村の村長をしています。あなたは……?」
「俺は、中村優太だ。ただの……通りすがりの医者みたいなもんだよ」
俺は、震えの止まった手で、キャルルに向けて真っ直ぐに手を差し伸べた。
もう、魔物を殺すだけの作業に絶望する必要はない。
俺の手の届く範囲の命は、俺が持てるすべての知識と現代戦術で、絶対に救い上げてみせる。
お読みいただきありがとうございます!
評価・ブックマークで応援いただけると励みになります。




