EP 3
異世界の洗礼と、初めての殺生
鬱蒼とした森の中、左腕のG-SHOCKに内蔵されたコンパス機能を頼りに、慎重に歩みを進める。
気温は三十度近いだろうか。湿度が高く、立ち止まっているだけで全身から汗が噴き出してきた。
歩き始めて数時間が経過している。喉の渇きは既に限界に近づいていた。
視界の端に、巨大なシダ植物のような葉に溜まった澄んだ水溜まりが見えた。
だが、優太は一瞥しただけで素通りする。
どれだけ喉が渇こうと、自生する植物に溜まった生水や、未検査の川の水をそのまま飲むことは絶対にしない。
アメーバ赤痢、ジアルジア、レプトスピラ症、あるいは未知の寄生虫。細菌やウイルスのリスクは、異世界であろうと変わらない。いや、抗生物質などの十分な医療インフラがないこの場所では、感染症は即ち『死』を意味する。
優太はリュックのサイドポケットから、タクティカルボトルを取り出した。
内部に高性能な中空糸膜フィルターと活性炭が組み込まれたサバイバル用の浄水ボトルだ。泥水だろうと細菌を99・9%除去できる。
水辺を見つけ、そのボトルで水を掬い、フィルター越しに力強く吸い込む。
土の匂いが混じった微温い水が、干からびた食道と胃の腑を潤していく。
「……よし。これで脱水は防げる」
一つ、生命の危機を遠ざけた。
医療とサバイバルの知識が、この異世界において強固な鎧となっていることを実感する。
だが、自然の脅威は病原菌だけではない。
ガサッ。
前方の茂みが揺れた。
優太の肉体が、無意識のうちに臨戦態勢へと移行する。
システマの呼吸法で心拍数の急激な上昇を抑え込み、足音を殺して木陰に身を隠す。
パーカーの内に隠したタクティカルナイフのグリップを、静かに、だが確実に握りしめた。
茂みを掻き分けて現れたのは、ひどく醜悪な生物だった。
身長は百三十センチほど。緑褐色の皮膚に、歪に発達した顎と鋭い牙。腰にはボロ布を巻き、手には赤黒い染みのついた錆びた鉈を握りしめている。
ファンタジー小説やゲームで嫌というほど見た、典型的な小鬼——ゴブリンだ。
(……ゴブリン。明確な殺意を持った、敵性生物)
優太の脳内で、冷徹な教官の声が警告を発する。
背を向けて逃げれば、追いつかれて斬られる。交渉の余地など、あの濁った黄色い眼球からは微塵も感じられない。
殺さなければ、自分が死ぬ。
だが、優太の指先が微かに震えた。
人間ではない。しかし、二本足で歩き、武器を使い、明確な生存本能を持った『人型の生物』だ。
優太が今まで鍛え上げてきた武術は、すべて『人を制圧し、守るため』のものだ。命を完全に断ち切るための殺人術として振るったことは、一度もない。
『ユウタ……逃げ、ろ……!』
血の匂い。乾いた銃声。アスファルトに広がる赤。
ハワイの路地裏の光景が、フラッシュバックする。
あの時、命を奪われた側の絶望を知っているからこそ、優太の魂は『命を奪うこと』に強烈な拒絶反応を示していた。
「ギ、ギィ……」
ゴブリンの鼻がヒクつき、黄色い眼球が優太の潜む木陰を捉えた。
醜悪な笑みが浮かび、錆びた鉈が振り上げられる。
(——来るッ!)
迷っている暇などなかった。
相手が踏み込んできた瞬間、優太の身体は『無双薙刀流』の理合に従い、自動的に動いた。
低い姿勢からの、圧倒的な踏み込み。
ゴブリンの振り下ろした鉈の軌道を、最小限の動き——スリップで躱す。刃が優太のパーカーの袖を掠め、空を切る。
ゴブリンが体勢を崩した、その刹那。
優太は相手の懐に完全に潜り込んでいた。
左手でゴブリンの鉈を持つ手首を絡め取り、関節を反対方向へと極めながら、右手に握ったタクティカルナイフを翻す。
(狙うは、総頸動脈と頸静脈の完全切断)
解剖学の完璧な知識が、刃の軌道を誘導する。
力任せに突き刺すのではない。頸部の筋肉の隙間、最も血流の多い太い血管が通る急所へと、滑らせるようにナイフの刃を這わせた。
ズパッ。
嫌な手応えと共に、肉と管が断ち切られる感覚が掌に伝わる。
「ギャッ……ゴ、ボ……ッ」
ゴブリンの首筋から、凄まじい勢いでどす黒い血液が噴出した。
動脈血の激しい飛沫が、優太の顔とパーカーを濡らす。
声にならない断末魔を上げ、痙攣しながら崩れ落ちる小鬼。心臓のポンプ機能が失われ、数秒で脳への血流が途絶したのだろう。完全に動かなくなった。
圧倒的な、一方的な制圧劇。
だが、勝利のカタルシスなど欠片もなかった。
「……あ、う……っ」
生温かい血の匂いが鼻腔を支配する。
命の灯火が消える瞬間を、自らの手で引き起こしてしまったという絶対的な事実。
胃の内容物が、強烈な吐き気と共にせり上がってきた。
「オエェェェェッ!」
優太は木に手をつき、先ほど飲んだばかりの水を、胃液ごと地面にぶちまけた。
震えが止まらない。
人を救うために身につけた解剖学の知識を、最も効率よく命を奪うために使ってしまった。
涙と鼻水、そして吐瀉物でぐちゃぐちゃになった顔を拭おうともせず、荒い息を繰り返す。
その時だった。
『パラパラパーン!』
脳内に、ひどく場違いで陽気なファンファーレが鳴り響いた。
同時に、目の前に半透明のホログラムUIが強制的に展開される。
【善行を確認しました】
【対象:魔物の討伐】
【地域社会への貢献度:微小】
【ポイントを加算します:+100P】
【現在の所持ポイント:100P】
「……は?」
優太は、瞬きを繰り返した。
『善行』を確認した? 魔物の討伐が、善行?
そして、先ほどまでゼロだった数字が、誇らしげに『100P』へと書き換わっている。
画面の横には、地球の品物リストが並んでいる。
『ミネラルウォーター:1P』
『塩おにぎり:2P』
『包帯セット:5P』
たった今得た百ポイントがあれば、十分な食料と水を買うことができる。生き延びることができる。
システムが提示した現実は、あまりにも冷酷で、明確だった。
震える手で、口元の吐瀉物と他者の血を拭う。
空中に浮かぶ『100P』の光る文字を、優太は憎々しげに睨みつけた。
命を奪えば、飯が食える。生き延びるための『善行』として評価される。
……なんて皮肉で、狂った等価交換だ。
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