EP 2
ジャージ女神と、所持ゼロポイントの絶望
ふわり、と。
意識が浮上する感覚と共に、鼻腔をくすぐったのは、微かなメンソールの香りと、イカの焼けたようなひどく俗っぽい匂いだった。
「……ん」
重い瞼を開ける。
横断歩道で刺され、意識を手放したはずの俺の視界に飛び込んできたのは、なぜか見慣れた日本の四畳半の和室だった。
部屋の中央には、季節外れのコタツ。その上には、ビールの空き缶と、食べかけのさきいか、そして灰皿が乱雑に置かれている。
「あー、死んじゃったね君。お疲れ様」
声がした。
コタツに足をつっこみ、だらしないピンク色のジャージを着た女が、片手に缶ビールを持ったままこちらを見ていた。
絶世の美女、と言っていい顔立ちだ。艶やかな長い髪、整った目鼻立ち。だが、履いている健康サンダルと、口にくわえたピアニッシモ・メンソールが、その神秘性を完膚なきまでに破壊している。
「……ここは? あんたは?」
「ここは生と死の狭間。私はこの世界を管理する女神ルチアナ。永遠の十七歳よ。よろしく」
「女神……十七歳?」
突っ込みどころが多すぎる。どう見ても休日の昼間から管を巻いている定時帰りのオバサンにしか見えない。
だが、腹部にあったはずの風穴は消え失せ、痛みも完全に引いている。俺が一度死んだことだけは、どうやら確かなようだ。
「あんた、自分の命を投げ出して子供を助けたでしょ。計算高い連中が多い中で、あそこまで打算なく他人のために動ける馬鹿……もとい、自己犠牲の精神を持った人間は珍しいのよね。運命力ポイントがカンストしてたわ」
「運命力?」
「そう。だから特別に、あんたを私の管理する異世界『アナステシア』に転生させてあげる。おまけにユニークスキルもサービスしとくわ」
ルチアナは面倒くさそうに煙を吐き出し、コタツの上のリモコンのようなものを適当に操作した。
「スキルの名前は『地球ショッピング』。まあ、詳しくは向こうに着いてから自分で色々試してよ。私、これから月人君のライブのアーカイブ見なきゃいけないから、忙しいのよね」
「おい、ちょっと待て。月人って誰だ。それに異世界って——」
俺の言葉を遮るように、足元の畳が光を放ち始めた。
「じゃ、達者でねー。死なない程度に世界を盛り上げて、私のゴッドチューブのPV(視聴率)に貢献しなさいよ!」
ジャージの女神が手をヒラヒラと振るうと同時、視界が真っ白な光に包まれ、強烈な落下感が俺の全身を襲った。
* * *
「うおっ……!」
次に目を開けた時、俺は鬱蒼とした森の中に放り出されていた。
見上げるほどの巨木が立ち並び、地球のものとは明らかに異なる、毒々しい色の植物が足元に群生している。むせ返るような緑の匂いと、微かな獣の気配。
「本当に、異世界か……」
ため息をつきながら、俺は己の身体を確かめる。
服装は死ぬ直前と同じ、パーカーにジーンズ、スニーカー。身体のどこにも異常はない。腹の傷跡すら残っていなかった。
「……『地球ショッピング』、だったか」
ジャージ女神の言葉を思い出し、念じてみる。
ピロリン、という間の抜けた電子音と共に、俺の目の前にSF映画のような半透明のホログラムUIが展開した。
『地球ショッピング・システムへようこそ!』
『現在のランク:ブロンズ』
『所持ポイント:0P』
画面には、見慣れた地球の品物がずらりと並んでいた。
ミネラルウォーター、おにぎり、カロリーメイトといった食料品から、包帯、抗生物質、外科用のメスといった医療品。
さらにカテゴリを切り替えると、タクティカルブーツ、防弾ベスト、さらには暗視ゴーグルといったミリタリーギアまで存在している。すべてにポイントの値段が記されていた。
「すげえ……これなら、どんな状況でも生き抜ける」
現代の物資を、この未開の異世界で自在に呼び出せる。これはとんでもないチート能力だ。
ちょうど喉の渇きを覚えていた俺は、画面に表示された『ミネラルウォーター(500ml):1P』の購入ボタンを、弾むような気持ちでタップした。
ブーッ。
無機質なエラー音が鳴り響き、赤い文字がウィンドウに表示された。
【エラー:所持ポイントが不足しています】
「……は?」
俺は画面の右上を二度見した。
『所持ポイント:0P』。
もう一度、ミネラルウォーターのボタンを押す。ブーッ。
一番安い、10円ガム(0.1P)を押してみる。ブーッ。
「ふざけんなッ!!」
思わず叫んでいた。
なんというおあずけだ。目の前に命を繋ぐ水も、食料も、強力な装備もずらりと並んでいるというのに、たった一つのパンすら買うことができない。
どうやってポイントを稼ぐのか、システム上の説明は一切ない。
チートスキルを手に入れたはずが、実態は「手ぶらで未知のジャングルに放り出された」のと同じだった。
(落ち着け。パニックは死を招く)
特殊部隊直伝のメンタルコントロールで、無理やり呼吸を整える。
深呼吸を繰り返し、現状の戦力を再確認する。
その時、背中にある重みに気がついた。
死ぬ間際まで手放さなかった、俺の命綱。
「……残って、いるのか」
急いでリュックを下ろし、中身を開ける。
止血帯(CAT)、クイッククロット、胸腔穿刺針、気道確保キット、パラコード、浄水フィルター付きのタクティカルボトル。そして『標準外科学』のポケットマニュアル。
左腕には、脈拍と方位を刻むG-SHOCK。
ジーンズのポケットには、緊急用の高カカオチョコレートと軍用マッチ。
そして、パーカーの内側に隠し持っていた、護身用のタクティカル・折りたたみナイフと——俺の無双薙刀流の相棒である、特殊機構を組み込んだ『折りたたみ式ワスプ薙刀』の柄。
すべて、転生前の俺が身につけていたEDC(常時携行装備)だ。
ゼロポイントの絶望の中で、この使い慣れた装備たちの重みだけが、俺の心を冷徹な医官のそれへと引き戻してくれた。
水一本買えないチートスキルなんて、今はただの絵に描いた餅だ。
だが、俺にはこの手と、頭に叩き込んだ技術がある。
「上等だ……地球の医官を舐めるなよ」
俺は折りたたみナイフを抜き放ち、未知の森の奥へと鋭い視線を向けた。
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