第一章 異世界の戦場医官、ポイント0からの拠点防衛
地獄を知る医官は、もう誰も見捨てない
「また当直明けの呼び出しか……」
コンクリートの照り返しが容赦なく体力を奪っていく真夏の昼下がり。
海上自衛隊医官、階級は一等海尉である中村優太は、重い身体を引きずりながら横断歩道の前で足を止めた。
ジーンズのポケットから取り出したアメリカンスピリットを咥え、使い込まれた軍用マッチで火を点ける。湿度の高い空気に、紫煙を深く吸い込み、ゆっくりと肺から押し出した。
左腕に巻かれた漆黒のG-SHOCK、マッドマスターが示す時刻は午後二時。だが、優太の体内時計は三十六時間連続勤務のせいで完全に狂い切っていた。
(休みたい。泥のように眠りたい……できれば三日くらいは)
だが、背中に背負った大容量のミリタリーリュックの重みが、優太にそんな甘えを許さない。
非番の日であろうと、近所のコンビニへちょっとした買い物に出るだけであろうと、優太はこのリュックを決して手放すことはなかった。
中に入っているのは、市販の絆創膏や消毒液が詰まったお遊びの救急箱ではない。
CAT(コンバット・アプリケーション・ターニケット=戦闘用止血帯)、クイッククロット(血液凝固剤)、胸腔穿刺針、気道確保用具、そして『標準外科学』のポケットマニュアル。戦場や大規模テロ現場での外傷処置に特化した、プロフェッショナル専用の完全なトラウマキットだ。
重い。物理的にも、精神的にも。
だが、これを下ろすことは、あの日の自分に対する裏切りに他ならない。
『ユウタ……逃げ、ろ……っ!』
目を閉じると、今でも鮮明に脳裏をよぎる。
高校時代、家族旅行で訪れたハワイ。現地で親しくなった友人のルームメイトが、路地裏でマフィア同士の銃撃戦に巻き込まれた。
乾いた破裂音。空気を劈く悲鳴。飛び散る血肉。
ただの高校生だった優太は、何もできなかった。恐怖に足がすくみ、震え、無力な己を呪いながら、友人の命が指の隙間から零れ落ちていくのを這いつくばって見ていることしかできなかった。
(二度と……あんな思いはごめんだ)
その絶望とトラウマが、優太を極限の実戦医療と戦闘技術の道へと駆り立てた。
医学を修め、防衛医科大学校を経て医官となる傍ら、彼は狂ったように武術を学んだ。戸田派武甲流、荒木流、システマ、サヨック・カリ、大東流合気柔術、ブラジリアン柔術、八極拳、そしてCQC(近接格闘術)。
八つの流派の技術と理合を完全に統合した『無双薙刀流』の免許皆伝。
すべては、命を救うため。理不尽な暴力から、誰かを守り抜くためだ。
信号が青に変わる。
優太が歩み出そうとした、その瞬間だった。
「きゃあああああっ!」
雑踏の喧騒を切り裂くような、女の悲鳴。
優太の眠気は一瞬で吹き飛び、体内のアドレナリンが爆発的に分泌される。
視線を向けた先、横断歩道の中央付近。
焦点の合っていない、狂気走った目をした小太りの男が、刃渡り二十センチを超える牛刀を振り回しながら突進していた。
周囲の歩行者たちがパニックに陥り、クモの子を散らすように悲鳴を上げて逃げ惑う。
だが、逃げ遅れた者がいた。
まだ小学校に上がる前だろうか。ウサギのぬいぐるみを抱きしめた小さな女の子が、男の進行線上で腰を抜かして座り込んでいる。
男は、まるで邪魔な障害物を排除するとばかりに、牛刀を高く振り上げた。
(——間に合えッ!)
思考より先に、肉体が動いた。
アメリカで共に訓練に明け暮れた、元SEALDsの教官の言葉が、脳裏に閃く。
『タバコは現地民や現場の奴と仲良くなれる最強のツールだ。酒も嗜め。いいか優太、兵士ってのはな、市民たちに地獄を見せないために、自らが地獄の中に浸かって綺麗にするのが役目だ。嫌なら教会でお祈りして、ママのミルクでも飲んでるんだな。ハッハッハッハ!』
ええ、分かっていますよ。教官。
地獄に浸かる覚悟なら、あのハワイの路地裏でとうに完了している。
システマの歩法。
一切の予備動作なく、優太の身体はトップスピードでアスファルトを滑るように駆け抜けた。呼吸を統制し、筋肉の緊張を解き放ちながら、男と少女の間に弾丸のような速度で割り込む。
「死ねェッ!」
男の牛刀が、少女の頭上から無慈悲に振り下ろされる。
優太の極限まで鍛え抜かれた動体視力なら、その軌道を見切り、避けるのは容易かった。男の手首をカリの技術で絡め取り、関節を極めて制圧することも十分に可能だった。
だが、男の踏み込みは想定以上に深く、もしここで優太が身を躱すか、あるいは腕を弾いて軌道を変えれば、その刃が背後の少女に届く可能性が計算上「数パーセント」存在した。
(避ければ、後ろの子に当たる——!)
迷いは、コンマ一秒もなかった。
打算など、欠片も存在しなかった。
優太は、あえて男の懐へと深く飛び込んだ。己の最も無防備な急所である『腹部』を、男の刃の軌道上に差し出しながら。
ズブォッ、と。
肉を断ち、内臓を貫く、ひどく生々しい音が響いた。
「ガ、ハッ……!」
腹部を貫通する凄まじい熱痛。神経が悲鳴を上げ、脳がアラートを鳴らす。
だが、優太の表情は冷徹なままだった。刃をその身に受けた直後、優太の右掌が、八極拳の力強い踏み込みと共に男の顎を下から正確に跳ね上げた。
ゴウッ!
脳を激しく揺さぶる、完璧な掌底打ち。
男の白目が剥き出しになり、糸の切れた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。ピクリとも動かない。完全な脳震盪であり、しばらくは絶対に目を覚まさない。
「……ふう」
男が完全に無力化されたのを確認し、優太はゆっくりと膝をついた。
腹部に深々と突き刺さった牛刀から、どくどくと鮮血が溢れ出し、熱いアスファルトを黒赤く染めていく。
「お兄ちゃん……?」
背後で、少女が震える声で呟いた。
優太は振り返り、血で汚れていない左手で、少女の頭を優しく撫でた。
「大丈夫……怪我、ない……ね」
「う、うん……お兄ちゃん、血が……っ!」
「いいんだ。泣かなくて……いい」
視界が、急速にぼやけていく。
身体中の血液が、腹の穴から抜け出していくのがわかった。猛烈な寒気が全身を襲い、心臓が必死にポンプを回そうと異常な速度で脈打つ。
(止血……しなきゃ、な)
震える手で、背中のリュックに手を伸ばそうとする。
だが、自分の置かれた絶望的な状況を、医官である優太自身が一番よく理解していた。
四肢の切断や大動脈からの出血なら、CAT(止血帯)でどうにかなる。
胸部の外傷なら、チェストシールや胸腔穿刺で緊張性気胸を防ぎ、時間を稼げる。
しかし、腹部臓器の深刻な損傷に伴う大出血。これは、一刻も早く開腹手術を行い、直接血管を縛らなければ絶対に助からない。野外でのトラウマキットでは、どうすることもできない致命傷だ。
(血圧低下……意識レベルの、低下……詰み、か。笑えないな)
自らの死因を冷静に分析しながら、それでも。
優太の心に、後悔はなかった。
『ユウタ……逃げ、ろ……っ!』
あの日、何もできずに見捨ててしまった友の顔が浮かぶ。
だが、今は違う。
背後からは、少女を抱きしめ、泣き叫びながら優太に何度も何度も礼を言う母親の声が聞こえてきた。
(今度は……誰も死なせなかった)
遠くで、パトカーと救急車のサイレンが鳴っている。
腹の熱さも、もう感じない。
……ああ、誰も死なせなかった。それなら、俺の人生も悪くない。
中村優太は、静かに目を閉じた。
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