EP 8
軍医の絶対麻酔と、コンプライアンス制圧
空を焼き尽くさんとする火炎龍の熱源が、ポポロ村の防壁を呑み込もうとしていた。
ルナミス帝国の国境警備小隊、そして防壁そのものが、エルフの次期女王という名の『災害』によってガラス化される直前。
「……緊急麻酔を開始する」
優太の瞳から、人間味のある感情が完全に消え失せた。
極寒の戦場医官の眼差し。彼はシステマの究極の歩法——『ゼロ距離への侵入』を、燃え盛る火炎龍の熱波を突き抜けて実行した。
「えっ……優太様……?」
ルナが目を丸くし、杖を振るおうとしたその瞬間。
優太の右手が、疾風の如くルナの頸動脈へと伸びる。
軍用の即効性鎮静剤——『静寂シリンジ』。
刺突の瞬間、優太はルナの耳元で冷徹に囁いた。
「魔法回路の遮断。……お休みだ、ルナ」
ピュッ。
微かな音と共に、ルナの首筋に銀色の針が刺さる。
彼女の全身を駆け巡っていた自然魔力が、心臓の鼓動と同期するように急激に霧散していった。
ルナが放とうとしていた火炎龍は、エネルギーの供給源を絶たれ、空中へと火花を散らして消滅する。
「あ……あぁ……っ」
崩れ落ちるエルフの次期女王を、優太は左手で優しく受け止めた。
彼女の瞳から焦点が消え、深い眠りへと落ちていく。まるで美しい人形のようなその姿に、一瞬だけ優太は「患者を救った」という医官としての矜持を見せた。
「……被害なし。防壁、及び周辺の損害ゼロ。オペ完了だ」
優太が静かにルナを地面へ下ろすと、そこには魂が抜けたような顔で立ち尽くす、小太りの隊長以下、国境警備隊の面々がいた。
目の前で最強のエルフが一撃で眠らされ、火炎龍が霧散した光景に、彼らはもはや武器を構える気力すら失っていた。
「わ、わしらは……今、何を見たんだ……?」
「……お前たちがこれから見るのは、地獄ではない。冷徹な『法の執行』だ」
優太はワスプ薙刀の柄を鞘に収め、ポケットから一枚の分厚い文書を取り出した。
ネギオがルナミス帝国の六法全書を片手に作成した、『未認可の武力行使および不法侵入に対する損害賠償請求書』である。
「隊長。お前たちの今朝の行動、すべて村の『魔導監視石』に録画されている。武装した兵士を率いての威圧、女性に対する連行の強要、不当な家宅捜索の要求……これらすべてが、ルナミス帝国通商法第四十二条、ならびに国境緩衝地帯治安維持法に違反している」
優太は文書を隊長の顔の前に叩きつけた。
「今すぐ撤退すれば、この証拠は当局に引き渡さない。だが、一歩でも村の土地に踏みとどまるなら、俺は貴様らの所属する部隊の指揮官を裁判所に引きずり出し、退職金と年金をすべて没収させた上で、マグローザ漁船にドナドナさせる準備ができている」
インテリヤクザさながらの冷酷な通告。
兵士たちは、魔力も使わず、ただ法律と理屈だけで武装した優太の威圧感に気圧され、揃って後ずさった。
「く、くそっ……! 退却だ! 全兵、撤退しろォッ!!」
小太りの隊長は、泣きっ面に蜂とばかりに武器を捨て、部下と共に森の奥へと逃げ出した。
もはや、黄金の噂も、エルフの美女もどうでもよかった。あの『軍医のような冷徹な男』がいる限り、この村に手を出せば確実に破滅する。そう悟った彼らは、二度とこの村に姿を現すことはないだろう。
「……ふう。事なきを得たな」
優太が小さく息を吐くと、広場の方から、泥だらけの芋ジャージ姿で駆け寄ってくるリーザの姿があった。
「優太様! ルナちゃんは!? 大丈夫ですか!」
「……見ての通り、ただの深めの睡眠だ。魔法のオーバーロードを防ぐために、鎮静剤で回路を止めた」
優太は眠るルナを見つめ、少しだけ困ったように眉を下げた。
「あの馬鹿。善意の核弾頭と言っていいな」
「本当に……。でも、悪徳役人を追い払ってくれたのは事実ですわね」
リーザが地面に落ちていたルナの杖を拾い上げ、優太に渡す。
優太はその杖を受け取り、しっかりと地面に突き立てた。
「ああ。だが、次は俺が麻酔を撃つ前に、お前たちが『止める』んだ。それがお前たちの、このシェアハウスの……家族としての責任だ」
リーザが「はいっ!」と力強く敬礼する。
その隣で、キャルルがいつの間にか目を覚ましていたルナを優しく抱きしめ、毛布をかけてやっていた。
「……優太君。今日は本当に、お疲れ様」
キャルルが人参柄のハンカチで優太の額の汗を拭う。
ヤンデレ気質は相変わらずだが、今だけは、戦い終えた指揮官を労う優しい村長の顔だった。
「……ああ。明日は村の整備だ。今日の騒ぎで防壁の基盤が少し緩んでいる。ネギオを呼んで、補強工事を行う」
優太はワスプ薙刀のメンテナンスを開始しながら、淡々と次なる業務を口にする。
だが、その瞳には、かつて戦場で感じていた殺伐とした孤独は消え失せていた。
代わりにあったのは、この狂った村を、全力で守り抜こうとする『軍医の責務』。
ルナミス帝国の役人を追い払い、平和を取り戻したポポロ村。
しかし、戦火が止んだ夜空を見上げ、優太は確信していた。
この村の『狂った平和』は、神々の気まぐれによって、さらにカオスな明日へと引きずり込まれることを。
——そしてその予感は、翌朝届く、アバロン魔皇国からの『招待状』によって現実のものとなるのだった。
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