EP 2
無限の腎臓と、軍医の医療倫理
ポポロ村の村長宅、その広大な地下倉庫。
ルナミス帝国の悪徳商人から村の特産品を守り抜いた堅牢なその空間は今、異世界からやってきたエルフの次期女王・ルナが『無自覚な善意』で生成した数トンもの高級フルーツによって、完全に占拠されていた。
「……温度十五度、湿度六十パーセントで維持。これで当分は腐敗を防げるな」
優太はホログラムUIを開き、地球ショッピングで購入した大型の産業用除湿機と温度管理システムの数値をチェックしながら、深いため息を吐いた。
もしこの量の極上フルーツが村人たちの胃袋に入り、あるいは市場に流出していれば、ポポロ村の経済は一瞬で崩壊し、勤労意欲という最大の資本が失われていたはずだ。
「優太さぁぁん……私の金貨の山が……」
地下倉庫の入り口から、特売の芋ジャージを着たリーザが、怨めしそうな声で優太を呼んだ。
その後ろには、事の重大さを全く理解していない純白のドレスのエルフ——ルナが、ふんわりとした笑顔で立っている。
「どうして隠してしまうんですの? 皆さん、とても喜んでくださっていたのに」
「お前の善意は、劇薬すぎるんだ。市場経済というものは、需要と供給の繊細なバランスで成り立っている。無限の供給は、モノの価値を無に帰す……つまり、村人たちが今まで汗水流して育ててきた特産品の価値を、お前がへし折ろうとしたんだ」
優太が極めてロジカルに説明するが、ルナは「じゅようと、きょうきゅう……?」と小首を傾げ、その尖った耳をピクピクと動かすばかりだ。エルフの絶対領域『世界樹の森』で、全てを魔法と自然の恵みで解決してきた彼女にとって、資本主義やマクロ経済学の概念は宇宙語に等しいらしい。
「まぁいい、フルーツは私が責任を持って管理し、少しずつ消費していく。……リーザ、お前もいつまでも未練たらしい顔をするな。昼飯は食ったのか」
「食べましたわよ。パンの耳と、キャルルが残したキャベツの芯を……。はぁ、ルナミスデパートの試食コーナーが恋しいですの。あのフルーツを一つでも持ち出せれば、ルナキン(ファミレス)で三日は豪遊できますのに……私、どうしてこんなにお金がないんですの?」
リーザが本気で涙ぐみながら、芋ジャージのポケットから糸くずを引っ張り出して見せる。
かつてトップアイドルを夢見た人魚姫の、あまりに悲惨な極貧アピール。それを見たルナの表情が、ハッと明るくなった。
「まあ、リーザちゃん。お金に困っていらっしゃるのね?」
「ええ、困ってますわ。毎日塩水で空腹をごまかす生活ですの」
「でしたら、いい方法がありますわ!」
ルナは両手をポンッと叩き、慈愛に満ちた女神のような微笑みを浮かべて、とんでもない提案を口にした。
「リーザちゃんの『腎臓』を売りましょう?」
「……は?」
優太の動きがピタリと止まった。
だが、ルナの狂った善意の暴走は止まらない。
「臓器って、闇の市場ですごく高く売れるって聞いたことがありますの! 特にリーザちゃんは美しい人魚姫ですから、貴族の方々が喉から手が出るほど欲しがるはずですわ!」
「ちょ、ルナちゃん!? いくら私がお金に目がないからって、自分の内臓を売るなんて——」
「大丈夫ですわよ! 私が『超回復の再生魔法』ですぐに新しい腎臓を治してあげますから! 痛いのも一瞬ですわ!」
ルナが純真無垢な瞳で、ニコニコと恐ろしいシステム(錬金術)を解説する。
「腎臓を摘出して売る。私が再生魔法で治す。そしてまた摘出して売る……これを繰り返せば、リーザちゃんは無限にお金が手に入りますし、病気で困っている貴族の方も助かりますわ! 誰も損をしない、完璧なビジネスモデルですわね♡」
「……ッ!!」
その瞬間、リーザの瞳に、先ほどまでの怯えを完全に凌駕する『強欲』の炎がボワッと燃え上がった。
「む、無限の金脈……ッ!? 人魚の臓器の相場が一つ金貨百枚だとして、一日十回摘出すれば金貨千枚……一ヶ月で三万枚!? ルナキンどころか、ルナミス帝国を丸ごと買えますわーッ!!」
完全に倫理観が崩壊し、自らの臓器をただの換金アイテムとして計算し始める極貧人魚。
彼女は芋ジャージをたくし上げ、真っ白な腹をルナに向けて見せた。
「さあルナちゃん! 麻酔なんていりませんわ! 遠慮なく私のお腹を掻き捌いてくださいな! 今すぐ! Right now!!」
「ええ、任せてくださいな! 少し冷たいですわよ〜♡」
ルナの指先に、医療用メスよりも鋭く研ぎ澄まされた真空の風刃が形成された、その時だった。
「——そのふざけた刃を、今すぐしまえ」
地下倉庫の空気が、絶対零度にまで凍りついた。
ルナとリーザがビクッと肩を震わせて振り返ると、そこには、目から一切の感情が消え失せ、本物の『殺気』を纏った優太が立っていた。
グリーンベレー仕込みのシステマの歩法で音もなく二人の背後に接近していた優太は、ルナの腕を的確な関節技でロックし、魔法の形成を強制的に解除させた。
「痛っ……! ゆ、優太様?」
「ルナ、そしてリーザ。お前たちは今、医療の歴史と生命の尊厳に対する、最悪の冒涜を行った」
優太の声は低く、そして恐ろしいほどに冷徹だった。
彼は二人を地下倉庫の冷たい石床に強制的に正座させると、その前に仁王立ちになった。
「いいか。医療とは、傷つき、失われゆく命を救うための技術だ。臓器というものは、金貨を生み出すための商品じゃない。患者の同意、ドナーの保護、そして『ジュネーブ条約』や『ヘルシンキ宣言』に基づく厳格な医療倫理によって守られるべき、人間の絶対的な尊厳そのものだ」
異世界のエルフと人魚に対し、地球の国際法と医療倫理を容赦なく叩きつける優太。
その眼差しには、戦場において「臓器が足りずに死んでいった命」や「不衛生な闇医者に解体された難民たち」を見てきた、元軍医としての壮絶なトラウマと怒りが込められていた。
「再生魔法で治るから痛くない? 無限に売れる? ……ふざけるな。肉体が再生しようと、自らの体を切り売りしたという『精神の損壊』は決して再生しない。命を安売りし、痛みへの恐怖を麻痺させた瞬間、お前たちは人としての尊厳を失ったただの『肉の塊』に成り下がるんだ!」
「ひぐっ……!」
ただの説教ではない、魂の底から絞り出されるような優太の怒声に、リーザが恐怖と申し訳なさでボロボロと涙をこぼし始めた。
「ご、ごめんなさい……私、お金が欲しくて、命の大切さを……うわぁぁぁんっ!」
「……分かればいい。二度と自分の体を換金アイテム扱いするな」
優太はリーザの頭にポンと手を置き、次いで、まだキョトンとしているルナへと鋭い視線を向けた。
「お前もだ、ルナ。悪意がないことは分かっている。だが、その『無自覚な善意』が、生命の倫理を根底から破壊する。他者の肉体を金銭に変換する行為は、明確なコンプライアンス違反であり、犯罪だ」
「こんぷらいあんす、いはん……」
ルナは、優太の真剣で、どこか悲痛な瞳を見つめ返した。
エルフの森で、誰も彼女を叱らなかった。次期女王として、何をしても「素晴らしい魔法です」と称賛されるだけだった。
だが目の前の人間は、彼女の強大な魔法を恐れることも、利用することもなく、ただ『人としての正しい道』を教えるために、本気で怒ってくれている。
「……優太様って、お母様(世界樹)みたいですわね」
「……なんだと?」
「私、少し嬉しいです。こんなに真剣に叱っていただいたの、初めてですから♡」
ルナの頬がポッと赤く染まり、彼女の瞳に奇妙な熱が宿った。
コンプライアンス違反を徹底的に糾弾したはずが、なぜか歩く災害エルフの好感度を上げてしまったらしい。
(……このエルフ、根本的な部分で話が通じていない気がするな)
優太は深い疲労感を覚えながら、こめかみを指で揉んだ。
市場崩壊の危機を防ぎ、医療倫理の暴走を食い止めたポポロ村の防衛指揮官。だが、シェアハウスに加わった新たな居候は、彼の胃壁をさらに削り取っていく厄災の種であることを、優太は身をもって理解するのだった。
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