第二章 極貧人魚のスパチャ伝説と、狂乱のポポロ村開拓記
死蟲将軍機の率いる大群からポポロ村を防衛し、狂乱の大宴会を終えてから数日が経過した。
村には、戦いの爪痕を修復しつつも、かつてないほどの活気と平穏が戻っていた。
朝の六時。
ポポロ村の村長宅の台所には、芳醇な出汁の香りが漂っていた。
海上自衛隊の医官として、そして今はポポロ村の『防衛指揮官兼・専属医』として定住することになった中村優太は、慣れた手つきで包丁を振るっていた。
まな板の上で等間隔に切り分けられているのは、このアナステシア世界特有の食材である『肉椎茸』だ。肉厚で、ステーキにすれば肉とキノコの旨味を同時に味わえるという素晴らしい食材である。
優太はフライパンに『地球ショッピング』で購入した純正のバターを落とし、熱で溶けて香ばしい泡が立ったところに肉椎茸を投入する。
ジューッという小気味良い音と共に、バターの動物性のコクと肉椎茸の山の香りが絡み合う。そこに地球の醤油と、現地の『醤油草』の絞り汁をブレンドした特製ダレを回しかける。焦げた醤油の匂いが、暴力的なまでの食欲を刺激した。
隣のコンロでは、完全家畜化魔獣である『トライバード』の巨大な卵を使った、甘い出汁巻き卵が黄金色に焼き上がっている。そして羽釜の中では、地球の無洗米と現地の『米麦草』を混ぜて炊き上げたホカホカのご飯が、つややかな湯気を立てていた。
「ふう……こんなもんか」
地球の調味料と現地の食材のハイブリッド和朝食。
殺伐とした極限の戦場を潜り抜けてきた優太にとって、誰かを傷つけるためではなく、誰かの腹を満たすために刃物と火を扱うこの時間は、かけがえのない精神のデトックスだった。
「んんっ……すぅーっ……はぁぁ……優太君の、ご飯の匂い……」
背後から、ひどく熱を帯びた、とろけるような声が聞こえた。
振り返ると、寝巻き姿のキャルルが、ウサギの耳をふにゃふにゃと揺らしながら台所の入り口に立っていた。彼女は目を閉じて深呼吸を繰り返し、鼻孔から優太の作った朝食の匂い——いや、優太の存在そのものを肺の奥深くまで吸い込もうとしているかのようだ。
「おはよう、キャルル。顔を洗ってこい、もうすぐ飯ができるぞ」
「おはよう、優太君……えへへ、私、毎日優太君のご飯が食べられて、本当に幸せ……。もう優太君が作ってくれたもの以外、一生喉を通らない体になっちゃったかも……」
「大袈裟だな。いいから早く座れ」
頬を染めて身体をくねらせるキャルルの重すぎる愛情表現を、優太は冷徹なツッコミで華麗にスルーする。
彼女のヤンデレ気質は、あの満月の夜の暴走以来、明確に右肩上がりだった。だが、優太への絶対的な依存と信頼の裏返しであると理解しているため、実害がない限りは放置している。
「おう、優太! 今日もいい匂いさせてんじゃねえか!」
そこへ、朝の巡回警備を終えた竜人族の青年、イグニスが土足で上がり込んできた……が、優太が視線だけで制圧すると、慌てて入り口で足を拭いてから食卓についた。
彼もまた、優太の戦術指導と料理にすっかり胃袋を掴まれた一人だ。
「ほら、食え。任務前のエネルギー補給は兵士の義務だぞ」
「おおっ! いただきまーす!」
テーブルに並べられた和朝食を見て、イグニスの赤い瞳が輝く。
巨体に見合った大口で、肉椎茸のバター醤油炒めをご飯に乗せ、豪快にかき込む。
「うめえええッ! なんだこの肉椎茸、いつも食ってるやつより百倍味が濃いぞ! 地球の『ばたー』って油、反則だろ!」
「よく噛んで食え。喉に詰まらせても、ハイムリック法をやってやる余裕はないからな」
「優太君の卵焼き、甘くてふわふわ……私、優太君の愛を食べてるみたい……んふふ」
騒がしくも、確かな幸福感に包まれた朝の食卓。
死蟲機の脅威に怯えていた日々が嘘のような、穏やかな日常だ。
優太は二人の食べっぷりを満足げに眺めながら、自分も箸を進める。
食後、優太がいつものようにアメリカンスピリットに火を点け、紫煙を吐き出していると、外から慌ただしい足音が近づいてきた。
「先生! 村長! 大変です!」
駆け込んできたのは、犬耳の自警団員、門番のバウだった。
彼は息を切らしながら、顔を青ざめている。
「どうした、バウ。また魔獣の群れでも出たか?」
「い、いえ! 防壁のすぐ外で、不審者が倒れてるんです! 息はあるみたいですが、ピクリとも動かなくて……!」
「不審者だと? よし、すぐに行く。イグニス、警戒態勢を取れ。キャルルは救急箱を持ってきてくれ」
「わかったわ、優太君!」
優太の的確な指示で、食卓の緩んだ空気は一瞬にして戦場のそれへと切り替わった。
優太はパーカーの内に折りたたみナイフを忍ばせ、足早に村の入り口へと向かう。
* * *
ポポロ村の南門。
かつて優太が有刺鉄線と土嚢で絶対殺戮陣地を構築したその場所に、一人の人影がうつ伏せで倒れていた。
優太はシステマの歩法で音を殺しながら接近し、対象を観察する。
(武器らしきものは……見当たらない。出血や外傷もないな。服装は……なんだ、あれは?)
倒れている人物の服装は、ファンタジー世界のアナステシアにおいて、あまりにも異質だった。
深いえんじ色に、袖にダサい二本線の入った服。どう見ても、地球のディスカウントストアのワゴンセールで売られているような『特売の芋ジャージ』だ。
そして足元には、健康サンダルが片方だけ引っかかっている。
「おい、大丈夫か? 意識はあるか?」
優太は警戒を解かず、背後から声をかけながら対象の肩を裏返した。
その瞬間、優太の目が見開かれた。
仰向けになった不審者の顔は、息を呑むほどに美しかった。透き通るような白い肌に、海の底を思わせる深いアクアマリンの長い髪。そして、耳の横にはヒレのような器官がついている。
「人魚……?」
海中国家シーランに住まうとされる、神秘の種族。
なぜそんな高貴な存在が、内陸の辺境の村で、芋ジャージを着て行き倒れているのか。
優太の冷徹な戦術脳が、状況の矛盾に処理落ちしかけたその時。
きゅるるるるるるるるるるるるっ。
静まり返った村の入り口に、腹の底から響き渡るような、情けなくも巨大な音が鳴り響いた。
芋ジャージの人魚が、うっすらと目を開け、虚ろな瞳で優太を見つめる。
「あぁ……神様……。どうか、私に、パンの耳を……ゆで卵でも、いいですぅ……」
神秘性など欠片もない、究極の飢餓を訴える言葉。
それは、優太の平穏な日常を打ち砕く、次なる騒がしい嵐——極貧地下アイドル人魚姫・リーザの襲来を告げる、盛大な腹の虫の合図だった。
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