第二章 深海の地下アイドルと、金曜日カレーの処方箋
交番前の反復横跳びと、医官の緊急トリアージ
「――まったく、どこの世界だろうが『兵站』が一番の頭痛の種だな」
ルナミス帝国・第三防衛都市のメインストリート。
澄み切った青空の下、上空を巨大な魔導飛行船が悠然と横切り、大通りには魔力駆動の車が規則正しいモーター音を響かせて走っている。建物の隙間には「タローソン」や「ルナミスマート」といった極彩色の看板がひしめき合い、ここは本当に異世界なのかと錯覚してしまうほど、地球の現代都市に近い光景が広がっていた。
約百年前に建国者・佐藤太郎がもたらした『100円ショップの概念』と現代知識は、この国を独自の魔法近代国家へと変貌させている。
ポポロ村・自警団の医療総監(兼・前線救急救命士)である中村優太は、巨大ホームセンター「タローマン」のロゴが印字された分厚い紙袋を提げながら、ため息をついた。
先日、ポポロ村に襲来した魔物群との防衛戦――事実上の『ボス戦』――は、自警団長である月兎族のキャルルと、頭の悪い竜人族のイグニスの力技、そして優太の戦術的救護によって無事に乗り切った。だが、激戦の代償としてポポロ村の医療物資は底を尽きかけていた。
今日はその事後処理と買い出しのための、久々の市街地への遠征である。
優太は路地裏の喫煙スペースらしき日陰に立ち止まると、ポケットから愛煙する『アメリカンスピリット』の箱を取り出した。無骨な軍用マッチを指の腹で擦り、一発で着火する。
紫煙を深く吸い込み、ゆっくりと肺から吐き出した時だった。
――シュッ! シュッ! シュッ! シュッ! シュッ!
背後の大通りから、風を切るような異様なスキール音が聞こえてきた。
魔導車のブレーキ音ではない。もっと生々しく、質量を持った何かが極限のスピードで空気を叩いているような音だ。
優太は眉をひそめ、タバコを咥えたまま通りを覗き込んだ。
音の発生源は、街角にあるガラス張りの近代的魔導交番(派出所)の前だった。
そこに、一人の少女がいた。
歳の頃は十六、七歳くらいだろうか。色素の薄い艶やかな髪と、深海のように透き通った瞳。黙って立っていれば間違いなく国宝級の美少女なのだが、彼女の服装と行動が全てをぶち壊していた。
ルナミスデパートのワゴンセールで売れ残っていたであろう、絶望的にダサい『臙脂色の芋ジャージ』。足元には年季の入った健康サンダル。
その格好の少女が、交番の入り口前で、残像を残すほどの猛スピードで『反復横跳び』を繰り返していたのである。
「……何の訓練だ、あれは」
優太が目を細める中、交番の中から屈強なルナミス帝国警察の巡査が、ひどく疲労困憊した顔で出てきた。
ルナミス帝国の義務教育では、市民全員が基礎的な戦闘訓練を受けており、トップアスリートを凌駕する筋力(平均20馬力)を持っている。当然、警察官ともなればその道のプロフェッショナルだ。だが、その屈強な巡査が、芋ジャージの少女の反復横跳びを前に完全にドン引きしていた。
「おい……頼むからもうやめてくれ。目が回る。というか、お前なんでそんなに必死なんだ……」
「シュッ! シュッ! ……アイドルは! 施しは受けませんの! シュッ! 私はただ、己の肉体の限界に挑み、その対価として正当な評価を求めているだけですわ! シュッ!」
「わかった! わかったから! お前の負けでいい……いや、俺の負けだ! ほら、これ食え!」
巡査が奥から持ち出してきたのは、湯気を立てるホカホカの『カツ丼』だった。
佐藤太郎の謎の遺産により、ルナミス帝国では「交番や取り調べ室ではカツ丼が出る」という都市伝説が完全にシステムとして定着してしまっている。
カツ丼の匂いを嗅いだ瞬間、少女の反復横跳びがピタリと止まった。
「……カツ丼! 卵とじの黄金の輝き……! あ、ありがとうございますぅ!! いただきますぅ!!」
先ほどの「施しは受けない」という気高いアイドルのプライドを0.001秒でドブに捨て去り、少女は餓狼のような瞳でカツ丼のどんぶりへ両手を伸ばした。
「待て!!」
少女の手がどんぶりに触れる直前、鋭い声が響いた。
優太である。彼は吸いかけのアメスピを携帯灰皿に放り込み、足音も立てずに二人の間に割って入ると、巡査の手からカツ丼のどんぶりを無造作に奪い取った。
「ああっ!? 私の! 私の正当な対価がぁっ!」
「……あんた、この子を殺す気か」
優太は少女の抗議を無視し、冷ややかな視線を巡査に向けた。
「は? いや、殺すって……こいつが交番の前でいきなり反復横跳びを始めて、腹の虫を雷鳴みたいに鳴らしてたから、見かねて出前を……」
「親切心はありがたい。だが、医療的には最悪の処置だ」
優太の目は、すでに『医官の目』に切り替わっていた。
少女の肌の不自然な青白さ、毛先のパサつき、唇の乾燥具合。そして何より、あの異常な身体能力を支えているのが、栄養ではなく純粋な『生存本能と執念』だけであることを、優太の解剖学的知識と経験が看破していたのだ。
「いいか、よく聞け。極度の飢餓状態、かつ極度の鉄分・ビタミン不足に陥っている萎縮した胃袋に、いきなり重い豚肉とラード(油)の塊をぶち込めばどうなる? 血糖値が異常に急上昇し、インスリンの過剰分泌を引き起こす。結果、血中の電解質バランスが崩壊し、最悪の場合は心不全や呼吸不全でショック死する。『リフィーディング症候群』だ」
「リフィ……?」
「要するに、腹が減りすぎている奴に、いきなり油ギトギトの重いメシを食わせると死ぬってことだ」
優太の放つ、戦場をくぐり抜けてきた男特有の『絶対的な説得力』と、謎の専門用語の羅列に、巡査は「ヒッ」と息を呑んで後ずさった。
「そ、そんな恐ろしい食べ物だったのか、カツ丼って……!」
「いや、カツ丼は悪くない。タイミングが最悪だっただけだ。下がってろ、俺は医官だ。ここからは俺が引き継ぐ」
優太はタローマンの紙袋を置き、背負っていたタクティカルリュックを前に回した。
「……返してくださいませ。それは、私が命を削って勝ち取ったカツ丼ですの……」
芋ジャージの少女は、恨みがましい目で優太を睨みつけている。今にも優太の喉笛に噛みつきそうな気迫だが、足元はすでに空腹でフラフラだった。
「慌てるな。一時間後には食わせてやる。だが、まずは『地ならし』からだ」
優太はリュックのサイドポケットから、一本のペットボトルを取り出した。
ユニークスキル【地球ショッピング】の『100Pガチャ』で以前引き当てていた、地球の経口補水液(OS-1)である。さらに、野戦食として常備している『高カカオチョコレート(カカオ72%)』の小袋を取り出した。
「まずはこの水を少しずつ飲め。電解質と水分を体に吸収させる。その後に、このチョコを一粒だけ口の中で溶かすんだ。噛むなよ、ゆっくり溶かせ」
「……そんな泥水みたいな飲み物と、黒い石ころで私が満足するとお思いで――」
「いいから黙って口を開けろ」
優太は有無を言わさず、少女の口に経口補水液を少しだけ流し込み、続けて高カカオチョコを放り込んだ。
少女は「んぐっ」と喉を鳴らし、不満そうに口をモゴモゴと動かした。
数秒後。
少女の深海のような瞳が、カッと見開かれた。
「こ、これ……! この黒い石……信じられないくらい濃厚で、微かな苦味の奥に、脳がとろけるような甘みが……! いつも拾って齧っている公園のどんぐりや、五円玉の金属の味なんかより、ずっと、ずっと美味しいですわ!!」
「……比較対象がおかしすぎるだろ。お前、普段から何を食って生きてるんだ」
優太が呆れ果ててため息をついた、その瞬間だった。
彼の脳内に、無機質で軽快なファンファーレの音が鳴り響いた。
『――ピロリン♪』
『打算なき救命措置、および的確な栄養指導を確認しました。善行ポイント【+150 P】を獲得。現在のカルマ(運命力)が上昇中です』
(……またか。俺はただ、TCCC(戦術的戦傷救護)の基本手順に従って、目の前の飢餓患者に適切な処置をしただけなんだがな)
優太は内心で肩をすくめた。彼にとって、ポイントは目的ではない。誰かを助けるのは、息をするのと同じルーティンに過ぎないのだから。
「ぷはぁっ! 生き返りましたわ! 貴方、ただの一般人ではありませんわね? 私はシーラン国第一王女にして、ルナミス帝国全土を震わせる絶対無敵の地下アイドル、リーザと申しますの!」
「人魚族の王女様が、なんでルナミスの交番前で反復横跳びをしてカツ丼をせびってるんだよ……。俺は中村優太。ポポロ村の自警団で医官をやっている」
「ポポロ村……? ええっ!?」
リーザが芋ジャージの襟をギュッと握りしめ、驚きの声を上げた。
「ポポロ村といえば、私の親友……キャルルがいる村ですわ! 私、あの子のシェアハウス仲間でしたの!」
「……マジか。あいつの知り合いなのか」
優太は額に手を当てた。
満月になるとハイテンションで医療テロを起こす月兎族の村長に、頭の悪い竜人族の相棒。そこへさらに、この『極貧サバイバル人魚』まで加わるというのか。
「優太さん! キャルルのお友達なら、私のこともお友達ですわね! ということで、そろそろ私の胃袋も完璧に整いました! さぁ、そのカツ丼をこちらへ!!」
「……チッ、仕方ない。よく噛んで食えよ」
優太がどんぶりを渡すと、リーザは信じられない速度でカツ丼を掻き込み始めた。
その見事な食べっぷりを横目で見ながら、優太は新しくアメスピに火をつけ、ポポロ村へ帰還するための面倒な道中を思い、短く息を吐き出した。
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