76.男爵-1
【今回のあらすじ】
男爵の過去。男爵は人間だったころセオという名で、幼くして両親を亡くした。
博貴の血を飲んで高揚したヴァンパイアたちの狂乱の宴は、最高潮に達していた。
王はその様子を満足気に見回すと、伯爵を伴ってホールから出ていった。
王がいなくなると、それまでじっとしていた公爵が、博貴に群がる吸血鬼たちを投げ飛ばし、蹴飛ばして追い払った。
不服と怨嗟の声が上がったが、公爵がひと睨みすると、みな黙り込んだ。王の配下で最も古く力のある公爵に逆らえる者は誰もいない。
公爵は、気を失った博貴を抱き上げると、扉を乱暴に蹴破ってホールを出て行った。
それを見送って男爵も、そっとホールを抜け出す。
みな己の欲望にまみれて、王を見ようとしない。王のためと口にしながら、少しも王のことなど考えていない。男爵はそのことに憤りを感じる。王の配下には三千人もの血種がいながら、王に忠誠の誠を捧げ、王のためだけに生き抜こうという者はいない。ただひとり自分を除いては――。
男爵は、王に拾われてこのかた、王の恩義を忘れたことはない。王への忠誠が揺らいだこともない。
男爵はヴィクトリア朝のロンドンで、街頭商人の息子として生まれた。
人間だったころの名前はセオという。母はいない。
父親は屋台でコーヒーとサンドイッチを売っていた。父が淹れるコーヒーは人気で、客足が途絶えなかった。おかげで貧しくはあるが親子ふたりそれなりの暮らしができていた。
セオも、5歳のときから父を手伝い、店に立った。セオが店に立つと女の客が増えた。女たちは、可愛い可愛いと言ってセオの頭を撫でていく。幼くして死んだ我が子や、生活のために売り払った我が子の代わりに抱きしめていく。
人生が激変したのは、セオが8歳になろうかというころだ。
客が言いがかりをつけてきた。
内容は忘れたが、コーヒーの量が少ないとか薄いとか淹れ方が下手だとか不味いだとか、そういう類の、競合する屋台が人を雇って妨害してくるときに使う、よくある言いがかりだった。
普段の父は、その手の理不尽にも腰を低くして耐えてきた。だがその日に限って客に口答えをした。
「俺のコーヒーが口に合わないなら、さっさとあっちへ行け。お代もいらん」
自慢のコーヒーをけなされて腹を立てたのかもしれないが、まったく父らしくなかった。
父は誠実に商売をしてきた。父は相手の男が言うようなコーヒーは売らないはずだ。近頃仕入れ値が上がって苦しいと漏らしてはいたが、客を失望させるような商売をする人ではなかった。
相手の男は、見下していた路傍の屋台のおやじに尊大な口を利かれたことに驚いたようで、真っ赤になって怒鳴りつけてきた。父も応酬する。喧嘩になり、父はひどく殴られたうえ、売り上げをすべて奪われた。
相手はもともと金を奪うのが目的だったのかもしれない。
そのときの傷がもとで、父はまもなく死んだ。
【登場人物】
神護博貴:勇真と真澄の叔父。忌族。
王:忌族を率いる王。
伯爵:王の配下。忌族。銀髪にアイスブルーの瞳を持つ美女。
公爵:王の配下。忌族。金色の髪に褐色の肌をした、ハリウッドのアクションスターのような男。
男爵/セオ:王の配下。忌族。赤銅色の髪をした、憎めない顔立ちの男。
【用語】
ヴァンパイア/吸血鬼:忌族に対する人間による呼称。
血種:血を媒介に特殊な力を操る者。




