75.夏樹-2
【今回のあらすじ】
夏樹は、大切な人の記憶を真澄に託す。
あと1、2週間で桜も咲くだろうという頃、土手に菜の花や、名前もしらない白や黄色や青の小さな花が咲き始めた頃に、夏樹は友人数人と河川敷を歩いていた。
ふと、前方に何か白いものが見えた。
転がる日傘だ。
純白のワンピースを着た彼女が、蹲っていた。
意識するより前に、夏樹は駆け寄っていた。
長い黒髪がこぼれ、表情は見えなかったが、胸を押さえ苦しそうにしている。
「大丈夫ですか?」
肩に手をかけ尋ねると、彼女は顔を上げ、苦しそうな息をしながら夏樹を見つめた。目が涙で潤んでいる。
夏樹は思わず見惚れ、次の瞬間、そんな場合ではないことを思い出した。
「救急車を……!」
夏樹は、そのまま地面に倒れ込みそうな彼女の体を支えて、叫んだ。
友人のひとりが近所の家に電話を借りに走る。
彼女の兄を知っていると言っていた友人が、彼女の家に走ったようで、家族が駆け付け、まもなく救急車も到着し、彼女は運ばれていった。
翌日夏樹は、電車に乗って、信濃の山の館に行った。
老師の部屋に行き、頼み込む。
「今すぐ僕を尸族に迎え入れてください!」
尸族になれば、この血で彼女を助けることができる。血の力を使えば、彼女も彼女の家族も言いなりにできる。有無を言わせず血を飲ませて、そのあと記憶を消せば何の問題もあるまい。
だが、老師は夏樹の申し出を拒んだ。
「今はまだ、その時ではない」
食い下がったが、老師の返事は覆らなかった。
夏樹は、無理を承知で寅三に頼んだ。一緒に東京に行って、彼女に血を与えて欲しいと。
寅三は、縁もゆかりもない女のためにこの屋敷を離れるわけにはいかないと言った。老師を守るのが私の役目だからと。
夏樹は失意のまま東京に戻った。
それからしばらく彼女の姿を見ることはなかった。
もうこの世にいないのかもしれないと思った。
が、満開の桜が盛大に花びらをまき散らす中、木の下に佇む彼女の姿を見つけた。あの日と同じ赤いワンピースに赤いハイヒール。真っ白な日傘を差している。母親と思われる女性に支えられ、桜花を見上げる彼女の横顔に、胸を打たれた。
そのまま花吹雪と共に消え去ってしまいそうな儚さに、心が乱れる。今すぐ駆け寄って抱きしめたい衝動を夏樹は必死に抑えた。自分は、彼女の目に入らないただの通りすがりに過ぎない。何の接点もない赤の他人だ。
母親に伴われて彼女が去ったあとも、夏樹はしばらくの間その場にとどまっていた。やがてゆっくりと歩みを進めると、彼女がいた場所に立つ。彼女が見ていたのと同じ枝を、同じ花を、その隙間から覗く青空を、いつまでも見上げていた。
翌年、夏樹は山の館へ呼ばれた。
尸皇の血を受け取り、夏樹は人であることをやめた。いや、あの桜花の下で、すでに人であることは放棄していた。
流れ込む血種に身をまかせ、死を超越した者へと、神に近い者へと変質していった。
つもりだった――。
「僕はね、あの時人であることを捨てたと思っていたんですよ。今後はこの世に対してどんな感情も――喜びも、悲しみも、怒りも何も感じることはないだろうと。どんなことに対しても、二度と心を動かすことはなかろうと思っていたんです。でも実際は、彼女を忘れることはできなくて、思い浮かべれば、この胸にちゃんと痛みを感じてしまうんです。そしてこの痛みを自覚するたびに、自分が人間であることを思い知らされてしまうんですよ。家族や出会った人たちのことも忘れてはおらず、思い出せば切なくなるということに気づいてしまうんです。今目の前にいる、キミやユウ君や寅三さんを、大切に思ってしまうんです。すべて捨てたつもりだったのに、記憶の中の彼女が、僕を人間の側に留めるんです。僕は、僕を人間の側に留めてくれた彼女が、確かにこの世に存在していたという事実を消し去りたくないと思ってしまう。消え去らないで欲しいと願ってしまうんです。だからマー君、キミに彼女の思い出を託してもいいですか?」
語り終えて真澄を見ると、真澄は泣きそうな顔をしていた。
夏樹は言った。
「マー君、キミは明日、死んではいけませんよ」
「それは、予言?」
夏樹は首を振った。
「老師の、僕の、そしてユウ君の願いです」
【登場人物】
神護夏樹:勇真と真澄の大叔父。祖父の弟。
老師/尸皇:血種の祖。尸族を率いる。
神護寅三:勇真の真澄の高祖父の三男。曾祖父の弟。尸族。夏樹の叔父。
神護真澄。勇真の兄。35歳。外見は7歳。尸族。
ユウ君:神護勇真。主人公。
【用語】
尸族:血種の一派。血種の祖である尸皇に従う者たち。
血種:種。世界を観測する存在。または血の中に種を宿し、血を媒介に特殊な力を操る者たち。




