74.夏樹-1
【今回のあらすじ】
夏樹の過去。大学時代、夏樹はひとりの女と出会う。
それは当たり前のことだと思っていた。寅三という先達もいる。時がくれば夏樹は尸族として老師に仕え、家族を守るのだと、何の抵抗もなく受け止めていた。
その当たり前が歪んだのは1957年、昭和32年の春のことだった。
戦後の復興めざましく、前年の1956年には「もはや戦後ではない」と宣言され、国連への加盟も果たし、明るい歌謡曲が流行り、これから高度経済成長へと向かう大きなうねりが生まれようとしていた。
21歳の夏樹は小田原の家を出て、大学に通うため、東京で下宿していた。自分の未来は決まっていた。成人した自分は、いつ老師から声がかかり呼び戻されてもおかしくない。それでも、今、この瞬間だけは、普通の人間として、普通の暮らしを楽しみたかった。
真面目な学生ではなく、友人と昼間から酒を飲んだり麻雀をしたりといった日常を繰り返し、冬はスキー三昧、夏は海に入り浸った。おとなしかった高等学校時代までの夏樹を知っている人たちは驚くが、人との交流を避けて本を読みふけっていたのも、大学時代のバカ騒ぎも、どちらもその根っこにあるものは同じだった。夏樹の将来を知っている親は、何も言わずに彼の好きにさせていた。
そのまま、青春の、バカ騒ぎと友情の楽しくもくだらない思い出を、人であることと一緒にひとつ残らず捨て去るはずだった。彼女と出会うまでは。
平日に講義をサボって友人たちと河川敷で草野球をしていた時だ。
早春の、まだ風が冷たいが太陽の光は暖かい、そんな午後。
飛んでいったボールを追いかけて、拾おうとした先に細い足が見えた。視線を上げれば、赤いワンピースを着た女だった。
足元に手を延ばそうとしている自分の無礼に気付いて赤面すると、立ち上がってわびた。
女は、足元のボールに目を落としてから視線を夏樹に向けたが、興味なさそうな顔で、無言のまま横を通り過ぎていった。
夏樹は思わず女を振り返った。
まだそれほど日差しは強くない季節だというのに、女は白い日傘をさしていて、それをくるくる回しながら歩み去った。赤いハイヒールが目に残る。
後ろ姿をぼんやり見送っていると、友人が駆け寄ってきて肩に飛びついた。
「ありゃあ、日吉の妹だな」
「日吉?」
「高校の同窓だよ。家がこの近所なんだ。神護は学部が違うから知らないか。経済学部のやつだよ」
そして、女の方を見て首を傾げた。
「病院の帰りかな?」
「病院?」
興味本位で尋ねた。確かに女は、透き通るような白い肌をしており、細く儚げな様子だった。
「生まれつき心臓が弱いらしいよ。噂によると、あまり長生きできないらしい」
夏樹は、もう一度女が去った方角に目を向けた。遠くに白いパラソルが揺れている。
死に近い女――。
そのことが、夏樹の胸をざわつかせた。
今年か、来年か、5年後か、10年後か知らないが、自分は人間であることをやめて、死を超越した者となる。彼女もやはり人間をやめる運命を抱えているのか。ただし、彼女は自分とは真逆の、死という闇に向かう定めだ。
それからよく彼女の姿を見かけるようになった。
おそらく、今までも見ていたのだろうが、あの日より前は意識に上っていなかったのだろう。
天気の良い日に、少しだけ散歩をしているようだった。いつも無表情で、何ひとつ興味がないというような顔で歩いているのだが、風に揺れる花や、地面を飛び跳ねて何かをついばむスズメたちや、散歩中の小型犬を見た時、足を止め、一瞬だけ愛おしげな目を向ける。しかし、それは本当に一瞬で、すぐに視線を外し、自分には関係がないという顔に戻る。
夏樹は彼女に声をかけることも側に近づくこともなかった。ただ、見かけると、つい立ち止まって姿を目で追ってしまう。見えなくなるまで見つめてしまう。
そのまま、何の接点もないまま、自分は山の館へ行き、彼女は黄泉の国に逝ってしまうのだろうと夏樹は思っていた。
【登場人物】
神護夏樹:勇真と真澄の大叔父。祖父の弟。寅三の甥。
神護寅三:勇真の真澄の高祖父の三男。曾祖父の弟。尸族。夏樹の叔父。
老師/尸皇:血種の祖。尸族を率いる。




