70.公爵-2
【今回のあらすじ】
公爵の過去。イェルは王に噛みつかれ、血種として蘇った。
死者との戦いは楽しそうに思えた。人間との戦いには飽きた。人間は弱い。弱すぎる。イェルと互角に戦える者は少ない。死者はどうだろうか? 自分を楽しませてくれるほど強いだろうか。
自分が死ぬことに対して不安は抱かなかった。強ければ勝つ。弱ければ負ける。強ければ生き延びる。弱ければ死ぬ。それだけだ。
イェルは槍を構えた。
相手は武器を持っていなかった。素手のまま両手を広げてイェルに近づいてきた。
亡霊に対して躊躇も慈悲も必要あるまい。イェルはその左胸に槍を突き立てた。
しかし、男は槍に貫かれたまま何事もなかったかのように近づいてきて、イェルを抱きしめた。抱きしめられたと思った途端、首筋に噛みつかれた。引き剥がそうとしたが剥がせない。
血を啜られた。激しい官能の奔流にもてあそばれたあと、何かが自分の中に侵入してくるのを感じた。血管の中に暴力的に入り込み、傍若無人に暴れまわる何か。
自分の皮膚が硬くなるのを感じた。硬い殻となった皮膚の内側で、肉が、骨が、筋が、血管が、内臓が、溶けてゆく。どろどろと混ざり合った組織が、やがて再び人間の形を取り始める。人の形を取りながら、人ではない何かに生まれ変わる。やがて形が整うと、殻を破って外に出た。
目覚めたとき、イェルは人間ではなくなっていた。人間でないことはすぐにわかった。血が伝えてくる。お前は血種になったのだと。
目の前にあの男がいた。
「〈草原の疾風〉よ、また以前のように、お前は我に仕えるのだ」
横たわるイェルに顔を近づけると言った。一方的な命令だった。
「俺が憎くないのか?」
イェルは尋ねた。男は笑った。
「強い者が勝ち、弱い者は負ける。我は弱かった。考えが甘かった。ゆえにお前に殺された。ただそれだけだ。今はお前より強い。か弱いお前をなぜ憎む必要がある?」
ふいにイェルは、自分がものすごく後悔をしていたことに気づいた。この男をあんな形で暗殺してしまったことに。
どうせなら、死力を尽くして戦った末に、この男を殺してみたかった。
「本当に俺よりも強いのか?」
「試してみるか?」
イェルはしばし思案し、首を振った。
「今はいい」
男は血種の王と名乗り、いつか尸皇という男を倒して血種の皇帝になるのだと言った。イェルにそれを手伝えという。
申し出を断ろうと思えば断れそうだったが、彼についていくことに決めた。自分よりも強い者がいるのは良い。それを目指して自分を鍛えられる。彼が自分よりも強いというのであれば、いつか彼を超え、彼を殺そう。尸皇という奴がもっと強いというのであれば、そいつも超えて、この手で殺してやろう。
それから800年、イェルの名を捨て、公爵またはオーレルと呼ばれるようになった男は、ずっと王と共にいる。かつて皇帝だった男、自分がこの手で殺した男、そしてこれから自分が再び殺そうとしている男と共にずっと。
血種の王は、人間の皇帝であったときからずっと「生きることは、死ぬまでの暇つぶしにすぎない」と言っていた。そして、人であった頃も人ではなくなってからも、興味の向くままありとあらゆることを行った。そこには正義も悪意も倫理も美学も存在しない。人を救い人を殺し、人を慈しみ人を蔑み、人を愛し人を憎む。ありとあらゆる善行と、ありとあらゆる悪行をことごとく行い尽くして、そして今、王は、すべてに倦んでいた。生きることに飽きていた。
何事にも興味を示さず、死ねる日が来ることだけを待ち望む王に、公爵はイラついた。
――こんな腑抜けた王はいらない。
公爵は、800年前の約束通り、王に戦いを挑んだ。腑抜けた男に自分が負けるわけがないはずだと思った。
しかし、自分の体ひとつで真っ向から挑む公爵と、国を動かし、軍を手足のごとく扱っていた男の戦い方は別物だった。配下を自在に操って、いとも簡単に公爵を退けた。そもそも王は正々堂々の一騎打ちなどという概念を持ち合わせていない。勝つか負けるか――このふたつの間には、矜持も情も意地も介在しない。卑怯と罵られようと意に介さない。
――それが王の強さだ。
公爵は感嘆する。
やはり王は強い。それなのに、なぜ死を求めるのか? 生を厭うのか? それが悔しく、やるせない。自分では、生を楽しむ遊び相手にすらならないことが歯がゆい。
そしてついに、王が満面の笑みで公爵に告げた。去年のことだった。
「血種を殺す方法を見つけたぞ」
その頬は紅潮し、瞳は喜びに輝いていた。
公爵は絶望し、同時に願う。
――そんなに死にたいのであれば、俺が殺してやる。俺と戦って敗れ、そして俺に殺されろ!
【登場人物】
イェル:騎馬民族の戦士。後の公爵。
王:忌族を率いる王。
老師/尸皇:血種の祖。
【用語】
血種:血を媒介に特殊な力を操る者。




