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血と絆 ~または記憶と祈り~  作者: 木庭七虹
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69.公爵-1

【今回のあらすじ】

公爵の過去。騎馬民族の戦士であった少年イェルはブルガリア帝国皇帝に仕え、そして裏切る。

 公爵(デュック)は、かつてイェルという名で呼ばれていた。

 誰が名付けたのかは知らない。どこで生まれたのかも知らない。いつ生まれたのかも知らない。親の顔も知らない。

 部族の中で部族の子として育てられた。

 彼が属するクマン人は遊牧民で、赤子のころから馬に乗り、10歳を過ぎるころには戦士として戦いに出る。イェルも10歳ごろには戦士として従軍しており、幾多の戦いを生き延びて、10代後半で騎馬軍の司令官マナスタルに取り立てられて(かたわら)で仕えることになった。


 マナスタルが率いる騎馬軍は、ブルガリア帝国皇帝カロヤン・アセンのもと、機動部隊として活躍していた。皇帝の妻がクマン人であることと、互いに利益が一致したことから、ブルガリア帝国軍に助力していたのだ。ただし、ブルガリア帝国軍の支配下に(くだ)ったわけではない。あくまでも共闘関係にあった。

 戦いの相手はラテン帝国だ。ラテン帝国は第4回十字軍の指導者らがコンスタンティノープルに建国した国家で、旧東ローマ領と周辺国家への侵攻を企てていた。

 その侵攻を阻止したい勢力がカロヤンに助力を求めてきた。カロヤンがそれを受け入れたのは、もちろん親切心からではない。ブルガリア帝国の守りと支配域拡大のためだった。

 この戦いでブルガリア帝国は大勝した。ラテン帝国初代皇帝ボードゥアン1世を捕らえて処刑し、ラテン帝国領を破壊した。

 その後も、クマン人の騎馬軍はブルガリア帝国軍と行動を共にし、大いにその力を発揮した。


 マナスタルの指示で、イェルはカロヤン・アセンに近侍することとなった。

 暴力という単純な力を信奉しているイェルにとって、カロヤンは魅力的な男だった。持てる力を純粋に行使し、勝利するという単純さが良い。力ある者が勝つというわかりやすさが良い。カロヤンは強者だった。強者であるからこそ、尽くす甲斐があるというものだ。


 翌年、再びラテン帝国軍と対峙(たいじ)したカロヤンは、またもや敵を退ける。ブルガリア帝国の力はさらに増し、カロヤン・アセンの支配は揺るがないかのように見えたのだが……。

 イェルには政治がわからない。頭を使うのは苦手だ。それでも、暴力と破壊と略奪に終始するカロヤンの軍に、このころから危うさを感じ始めていた。何もわからぬイェルの耳にすら怨嗟(えんさ)の声が届いていたのだ。さらに王妃との不仲の(うわさ)と共に、クマン人の離脱が(ささや)かれ始めていた。


 カロヤン・アセンが暗殺されたのは、さらにその翌年のことだった。

 コンスタンティノープル攻撃の足がかりとしてテッサロニキを包囲中、クマン人の裏切りに()った。

 マナスタルの指示に従って実際に手を下したのはイェルだった。

 皇帝の寝室に忍び入り、その脇腹に槍を深々と刺した。簡単な仕事だった。皇帝の身辺警護を指揮していたのは、他でもないイェル自身だったからだ。

 カロヤンは目を見開きイェルを見た。その瞳にあったのは純粋な驚きだった。怒りも憎しみもなかった。ただただ信じられないという目。

 イェルは槍を引き抜き、今度は喉を突き刺した。皇帝は事切れた。

 敬愛する皇帝を手にかけても、イェルは何の感慨も(いだ)かなかった。強い者は勝ち、強い者は生き残る。そして弱い者は負け、弱い者は死ぬ。皇帝は弱かった。味方を信じすぎた。あらゆる可能性を考えて方策を立てておかなかった。戦略家の名に(あたい)しない甘さがあった。だから死んだ。それだけのことだ。


 皇帝の死で混乱するブルガリア軍の陣中から無事脱出したイェルは、その後もクマン人の騎馬軍の中にあって、クマン・キプチャク連合の支配域を守るための戦闘と、略奪という名の狩猟に励んでいた。


 かつて仕え、この手で殺した皇帝のことなどすっかり忘れ去ったころ、イェルはその男と出会った。姿かたちは違う。年齢も異なる。しかし、その男がまとう暴力の気配に懐かしいものを感じた。なによりも、その目――緑色に金の粒がきらめくその瞳に宿す、支配欲と残虐と英知と慈愛の光は間違いなくあの皇帝のものだった。

 男はかつて皇帝がイェルを呼ぶのに使った〈草原の疾風(かぜ)〉という呼び名で彼を呼んだ。

「お前を迎えに来た。昔のように我に仕えよ」

「俺に復讐するために、墓場から蘇ったのか?」

 イェルが問うと、相手は笑った。

 生きていたときも人の心を捉えてやまない男だったが、今は人を超えたゾッとするような魅力を(たた)えている。その微笑(ほほえ)みを見ているだけで、頭がくらくらしてくる。(ひざまず)いて(ちょう)()いたくなる。

「妙な(じゅつ)は使うな」

 イェルは、湧き上がる感情を振り払い、歯を()き出してすごんだ。

「今の俺は誰にも仕えない。俺が仕えるのは俺だけだ。俺の主になりたければ力を示せ」

【登場人物】

イェル:騎馬民族の戦士。ブルガリア帝国皇帝カロヤン・アセンに仕える。後の公爵デュック

マナスタル:クマン人の騎馬部隊の司令官。イェルの上司。

カロヤン・アセン:ブルガリア帝国皇帝。後のロワ

ボードゥアン1世:ラテン帝国初代皇帝。カロヤン・アセンに敗れ処刑される。


【用語】

クマン人:黒海の北、ヴォルガ川沿いに住んでいた遊牧民戦士。

ブルガリア帝国:第二次ブルガリア帝国。12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。

ラテン帝国:第4回十字軍の指導者らがコンスタンティノープルに建国した国家。

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