5.異変
【今回のあらすじ】
勇真の前に、見知らぬ少年が現れる。
葬儀社のふたりを見送り、玄関の鍵をかけた勇真は、両親が眠る部屋に戻った。
枕飾りの前に座ると、立ち上る線香の煙をぼんやりと見つめた。
葬儀社の者が帰り際に「ひとりなので、一晩中燈明と線香を絶やさない寝ずの番はやらなくてもよい」と言っていたが、どうせ眠れそうにない。このまま朝まで起きていてもいいかと思った。
線香から目を逸らし、両親の布団に目を移す。古い家屋の薄暗い蛍光灯の下で、真っ白な薄っぺらい布団が、やけに現実離れして見えた。静寂の中で、柱時計の音だけがやけに耳に障る。
ため息を吐き、立ち上がると台所へ行った。
冷蔵庫を覗くと、いつも父のために用意されている缶ビールが、今日もきちんと最上段に並んでいた。一本手に取り、その場でプルタブを開ける。
一口飲むと、また、ため息が漏れた。
冷蔵庫の中身を処分しないといけないな、と思う。いや、この家そのものの処分を考えなければならないのか。
首を振り、思考を追い払う。
考えなければならないことがたくさんありそうだが、今すぐ検討する必要がなさそうな、ささいなことばかりが思い浮かぶ。もっと考えなくてはならない大事なことがありそうに思うのだが、それが何なのかわからない。
何も知らない。
何もわからない。
いっぱしの大人のつもりでいたのに、子供のように何ひとつわかっていない。そんな自分が嫌になる。
もうひと口ビールを飲む。視線が自然と周囲に向いた。
几帳面に片づけられた台所。
ここに立つ母の姿をもう見ることはできないと思うと、その空虚さに、喉の奥がつかえるような感覚がし、それを慌てて飲み下す。
あえて実家には近づかないようにしていたくせに、失われたと知ると、なぜもっと両親と過ごす時間を持たなかったのかと、親孝行のまねごとでもやっておかなかったのかと、思う自分が許せない。
この家に、両親に、背を向けたのは自分なのだ。ならば、いまさら良い息子のふりをして、何になるというのだ。
大きく息を吐くと、ビールの缶を片手に、薄暗い廊下を戻る。
床板が歩みに合わせてきしむ。
洋館と日本家屋を合体させたような屋敷は、写真を撮ってSNSにでもアップすれば、それなりの数の「いいね」が付きそうな、レトロな趣がある。両親がこまめに手入れをし、大切に保ってきたこの家は、昭和初期に曾祖父が建てたものだと聞いている。
小田原市内だが、市街地からはかなり離れており、周囲はいまだに田んぼや畑ばかりという不便な立地なうえに、いくら見た目は洒落ていても、古めかしく使い勝手の悪い家には、特に愛着も湧かなかった。生まれ育った場所なりの思い出が詰まっているのは確かだった。壁の落書きにも、柱の傷にも、日々の暮らしの記憶が潜んでいる。懐かしくはあるが、それらは全部家を出たときに切り捨てたはずのものだった。
襖を開け、もとの部屋へ一歩踏み入れたところで、勇真は危うく缶ビールを落としそうになった。瞬きを数度繰り返し、今見えているものが幻ではないことを確認する。
「誰だ!」
両親の布団の脇に少年がいた。
小学校の1、2年生ぐらいだろうか。黒い半ズボンと、揃いの黒いジャケットを着て、こちらに背を向けて正座している。尻の下で重なる真っ白い靴下が目を引いた。
「どこから入った」
玄関には鍵がかかっているはずだ。さっき葬儀屋を見送ったあと確かに施錠した。間違いない。窓にも鍵がかけてあるはずだ。
理解できない状況に、怖気が走る。
少年が振り向いた。
「久しぶりだね。ユウ君」
声は子供らしく澄んでいたが、口調はいやに大人びていた。
ふっくらとした頬。形の良い赤い唇。大きな目にまつ毛が長い。少し茶色がかった髪は、柔らかそうなくせっ毛だ。
少年の顔に見覚えがあるような気がし、次の瞬間、その理由に気づき背筋が凍り付いた。仏壇に立ててある写真に思わず目がいく。勇真が5歳の時に死んだ兄の写真だ。
少年は、生きていたころの兄にそっくりだった。
【登場人物】
神護勇真:主人公。33歳。IT企業に勤めるサラリーマン。
少年:もうお気づきだろうが、詳細は後に判明。まだもうちょっとだけナイショ。
【用語】
枕飾り:遺体を安置した際に、枕元に設置する仮の祭壇。ろうそく、線香、ご飯、水、団子、華、鈴などが乗っている。




