42.老師
【今回のあらすじ】
勇真は、老師に翻弄される。
「こちらへ来るがいい」
階段のてっぺんから、長くて白い髪とひげの老人が勇真に向けて右手を差し伸べる。銀糸で刺繍が施された白い長袍を着ている。
あの男だ。古いビデオに映っていた、あの老人。
頭を撫でる手の感触を思い出し、勇真は不快感に頭を拭いたくなった。
やはりこの老人が、尸皇であり、老師と呼ばれている人物に違いない。
子供心にこの老人が怖かった。今も恐怖を感じている。しかし、5歳の子供ではない勇真は、恐怖を飲み込み尸皇を睨みつけた。
「俺をどうする気だ」
老師は、スッと目を細めた。
ズンッと、まるで重力が増したかのような感覚が勇真を襲い、館全体がギシッと鳴った。
老師が階段を降りてくる。一歩、また一歩、ゆっくりと。
それに合わせて、押しつぶされそうな威圧が加わる。館がビリビリと震えた。
階段の途中に座っている青年の前を通り過ぎる。青年は不揃いに切られた髪を鮮やかな緋色に染めており、真っ赤なシャツに黒いズボンを身に着けている。片膝を抱いて俯いているため顔は見えない。彼は、老師が目の前を通り過ぎても、まったく気付いていないかのように動かない。
老師がさらに階段を降りてくる。
一歩一歩、威圧が増してゆく。
館が悲鳴を上げる。窓ガラスが砕け、棚に置いてある燭台が倒れる。
階段の下に立っていた兄が、額に汗を浮かべ青ざめた顔で跪いた。座れ! 跪け! と、言葉にされたわけではないが、老師が発する圧が、それを強要してくる。勇真の横で、寅三も膝をついた。
勇真は、両足に力を込めて抵抗した。
跪く謂われはない。神護の家に生まれはしたが、この老人に仕えているわけではない。少なくとも今はまだ。
「ユウ君、やめたまえ!」
寅三の鋭く諫める声がした。声に焦りが感じられる。
老師が目の前に来た。
「グッ‼」
歯を食いしばる。
頭が締め付けられる。息が吸えない。毛細血管が破裂しそうなチリチリした感覚が、全身の皮膚を這う。それでも、意味もなく跪くことなどできない。この老人に屈服し、言いなりになる自分など許せない。
急に、ダラリと何かが流れ落ちるのを感じて手のひらで受けた。
鼻血だ。
意識が遠のきそうになるのを、必死に留める。
フッと老師が笑った。
今まで体を締め付け、周囲を圧していた力が消える。勇真はよろめき、前に倒れそうになった。
老師がその体を支えた。
「思いのほか、頑固者だな」
老師は、勇真の手をとると、上目遣いに勇真を見ながら血を舐めた。
「あ……」
思わず声が漏れる。それは、一度も経験したことのない感覚だった。老師の舌が勇真の血を舐めるたびに、血が熱くなり、体中が震える。
「やめ……」
やめろと言おうとするが、途中で吐息になってしまう。
跪く以上の屈辱に、老師を振りほどきたいが、体が言うことをきかない。血を飲ませたい、飲んでほしいと、体が欲してしまう。牙を喉元に突き刺してほしい。
その欲求を抑え込もうと、さらに歯を食いしばる。
だが、老師がひと舐めするごとに、欲求は強く鋭く高まる。心臓の鼓動が早まり、背筋がゾクゾクする。足が震え、立っているのもおぼつかない。
「神護の血の中でも、お前のはさらに格別だな」
老師が耳元で囁き、にんまりと笑った。
自分を苛む欲求が薄れたその隙に、勇真は、首にかけていた銀の十字架をTシャツの下から引っ張り出し、老師に押し当てた。
老師は十字架をつまんで笑った。
すかさずズボンのポケットから鉛筆を取り出すと、老師の肩に刺した。
「こんなもので、余を倒すことはできんよ」
子供の悪戯を楽しむような口調で言うと、笑いながら鉛筆を引き抜いた。傷口はみるみる塞がった。
「銀も、十字架も、木の杭も、ニンニクも、太陽光も、聖水も、我らの弱点ではない。諦めよ」
無力感に力が抜けた。
【登場人物】
神護勇真:主人公。33歳。神護家最後の生き残り。
老師/尸皇:血種の祖。尸族を率いる。
赤いシャツの青年:神護夏樹。勇真と真澄の大叔父。祖父の弟。89歳。外見は20代前半。尸族。未来視。
兄:神護真澄。勇真の兄。35歳。外見は7歳。尸族。
神護寅三:勇真の高祖父の三男。勇真の曾祖父の弟。111歳。外見は20代半ば。尸族。
【用語】
長袍:中国の伝統衣装。袖が広く裾が長い。
鉛筆:木の杭の代わりに吸血鬼に効くとか効かないとか……。




