盤面の乱れ
冷たい雨が、容赦なくナイトの冷たくなった顔を打ち続けていた。
クイーンはきつく唇を噛み締め、溢れそうになる感情を殺しながら、ナイトの開いたままの瞼を指先でそっと閉じさせた。涙を流す隙すら、この戦場は与えてくれない。眼前では、血と黒い粘液の海の中で、カメレオンの膨張した肉体が凄惨な断末魔のような音を立てて再び脈打ち始めていた。
「ギ……ギギッ……! ギギギギガガガッ!!」
二度の死を経て、カメレオンの擬態細胞はもはや一匹の生物としての「個」の形すら維持しなくなっていた。
周囲の打ち捨てられた瓦礫や折れた鉄骨、さらには雨水すら取り込みながら、黒い肉芽が異形に膨張・増殖していく。同時に焦土の各所から光を屈折させた「無数の偽クローン映像」と、大気を切り裂く「不可視の生体ブレード」が一斉に生成されていく。
実体と虚像の境界が消失し、多重の歪んだ残像となって、雨の街並みごと二人をぐるりと取り囲む。
「……三度目の進化。もはや単なる隠密や変身ではない。空間そのものを偽情報と刃で埋め尽くす『乱戦形態』ですか」
ビショップがナイトの遺体へと膝をつき、彼の遺品となった砕岩斧から高出力のコアパーツを素早く手際よく回収した。それを自身のライフル『アーク・ビショップ』の拡張ポートへ力任せに直結させ、静かにクイーンの背後へと立ち返る。
二人の全周を、無数の「カメレオンの歪んだ幻影」と「見えない刃」が取り囲む。
視覚も、熱源センサーも、音響照準もすべてがバグり、どれが実体で、いつどこから死角を貫く凶刃が迫るのかすら知覚できない極限の混乱。
その時だった。
「ツ……ツツッ……――こちら第三地区!『リアクター』所属、カーボン!!」
ビショップの胸元に固定された広域無線機から、激しいノイズと混信を突いて、血を吐くような悲痛な怒号が跳ね返ってきた。
「キセノンが落とされた!! 全電力解放プラズマ……照射ぁぁぁッ!! 効いてくれ、頼むから効いてくれぇぇぇッ!!」
ズズズズズズズズズンッ……!!!
通信の奥から届いたのは、鼓膜を揺らす地鳴りのような爆音と、遥か上空の雲を切り裂くプラズマ粒子の炸裂音。数百キロ離れた第三戦域で繰り広げられている地獄の情景が、通信機のスピーカーを通じて容赦なく二人へ叩きつけられる。
「……向こうも、絶望の真ん中ですか」
ビショップが苦い表情で、雨滴のついた眼鏡のブリッジを押し上げた。
「――が……こちら……第三戦域……『イージス』の防壁に……穴を……誰か……っ!」
途切れ途切れに届く悲痛な叫び。重複する救助要請。
自分たちがここで命を擦り減らしているこの一瞬一秒にも、別の戦場で仲間たちが血と肉を撒き散らしながら、未知の異形と刺し違えている。全戦域が同時に、誰一人として逃げ場のない「終局」へと雪崩れ込んでいた。
「ビショップ、広域通信を切れ。目の前の敵だけに集中しろ」
クイーンが低く、冷徹な声で命じる。
その眼光は、焦土を揺らめくように彷徨う無数のカメレオンの幻影だけを鋭く見据えていた。
「はい。……他部隊に気遣いをしている余裕など、端から我々にはないのは分かっています」
ビショップは指先で静かに通信回路を遮断し、大型ライフルを背後の敵群へ向けて構え直した。
「ですが……届いてきますね。世界中で、全員が命を燃やしている。なら、ナイトを失った我々『ギャンビット』が、ここで無様に遅れをとるわけにはいきません」
「当然だ。ナイトが命を賭して盤面を進めた。我々は最後の一兵になろうと、この地獄の盤上を制する」
周囲を取り囲む無数の幻影が同時に口を裂き、不気味な歪んだ笑みを浮かべながら、一斉に不可視の生体ブレードを掲げた。
雨音が消え、世界が死と偽りの悲鳴で満たされていく中、残された二人は互いの背中をぴったりと合わせ、暗闇のあらゆる死角から迫る凶刃の群れへと、決意の銃口を向けた。




