第9話 「俺は何もしていません」
戦いが終わったあとの青柳村は、これまで蓮が見たことのない熱気に包まれていた。
夜明けの光が土塀の内側を照らし出す頃には、村人たちは互いに肩を抱き合い、涙を流し、あるいは天に向かって拳を突き上げていた。子供たちまでもが、大人たちの興奮に釣られてはしゃぎ回っている。昨夜まで漂っていた諦めにも似た緊張は、跡形もなく消え去っていた。
「陳蓮殿! 陳蓮殿はどこだ!」
誰かが叫ぶと、その声はまたたく間に広場全体に広がっていった。人垣が割れ、蓮の姿が見つかると、村人たちが次々とその周りに詰めかけてくる。
「陳蓮殿のおかげだ! あんたが村を救ってくれた!」
年老いた女が、皺だらけの手で蓮の手を強く握りしめた。目には涙が浮かんでいる。
「本当に、なんとお礼を言ったらいいか……」
「い、いえ……」
蓮は戸惑いながら、後ずさりそうになる体を抑えた。人に囲まれることにも、こうも真っ直ぐな感謝を向けられることにも、慣れていなかった。
「あんたがいなかったら、俺たちはとっくに――」
李が、興奮を隠しきれない様子で、蓮の肩を強く叩いた。その勢いに、蓮は思わずよろめいた。
「いえ……俺は、何もしていません。強かったのは、こいつらです」
蓮は、手にしていた強化済みの猟銃を、小さく持ち上げてそう答えた。心からの本音だった。剣も振るわず、銃も撃たず、ただ道具の仕組みを理解し、それを強くしただけ。実際に戦ったのは、村人たち自身と、その手にある道具だ。自分は、ただそこにいただけに過ぎない。
だが、その言葉は、村人たちの耳には、まったく別の響きで届いていた。
***
「またそんな謙遜を。あの道具がなければ、俺たちに勝ち目なんてなかった。その道具を強くしたのは、他でもないあんただろう」
村長が、杖をつきながら歩み寄ってきて、そう言った。周囲の村人たちも、うんうんと頷いている。
「い、いえ、本当に、俺は――」
「分かっている、分かっている。あんたは謙虚な男だ。だが、我々はこの目で見た。あんたの力がなければ、この村はもう、この世に存在していなかっただろう」
村長の声には、揺るぎない確信が滲んでいた。蓮がどれだけ「自分は何もしていない」と繰り返しても、それは謙遜としか受け取られない。むしろ、そう繰り返せば繰り返すほど、村人たちの目に映る蓮の姿は、ますます尊いものになっていくようだった。
(違う、そうじゃないんだ……)
蓮の胸の内には、言葉にできないもどかしさが渦巻いていた。自分は英雄でもなんでもない。剣術も武術も、人並み以下のままだ。強かったのは、あくまで自分が強化した「道具」であって、自分自身の力ではない。だが、その違いを、この場の誰にも、うまく伝えることができなかった。
李が、興奮した様子で周囲の若者たちに言って聞かせている。
「見ただろう、あの光景を! 木の板が銃弾を弾き返して、鎌の切れ味が別物になって……! 陳蓮殿は、まるで神様が遣わした人みたいなお方だ!」
「神様だなんて、そんな――」
蓮の反論は、沸き起こる歓声にかき消された。
***
その日の夜、村長の家で、ささやかながらも心のこもった宴が開かれた。村の乏しい蓄えの中から、精一杯の料理と酒が振る舞われる。蓮は、その場の中心に据えられ、代わる代わる村人たちから礼の言葉と、酒杯を向けられた。
「陳蓮殿、これからもこの村にいてくださるんでしょう?」
若い母親らしき女性が、幼子を抱えながら、期待に満ちた目でそう尋ねてきた。
「あの……それは、俺にもまだ、何とも……」
蓮は言葉を濁した。この村に留まりたいという思いは、確かにあった。命を助けてもらった恩もある。何より、行くあてのない今の自分にとって、この村は唯一の居場所と言ってもよかった。
だが同時に、蓮の中には拭いきれない違和感もあった。この村に留まる限り、いずれまた同じような脅威が訪れるかもしれない。そのたびに、自分は道具を強化することしかできず、実際に戦うのは村人たちだ。その構図に、蓮は何か、根本的な危うさを感じていた。
(俺がこの村にいる限り、村の人たちを、いつまでも危険に巻き込み続けることになるんじゃないか……)
自分を捕らえていた匪賊崩れの集団への報復として、村が狙われた側面もある。もし自分がこの村から離れれば、少なくともその危険性は減るのではないか――そんな考えが、蓮の頭の片隅をよぎった。
だが同時に、この村人たちの温かさに、蓮は確かに救われてもいた。行くあてもなく、右も左も分からないこの世界で、初めて自分を受け入れてくれた場所だ。
***
宴が終わり、村人たちがそれぞれの家へと戻っていったあと、蓮は一人、村外れの丘へと足を運んだ。
夜風が、火照った体に心地よい。丘の上からは、青柳村の灯りが、小さく温かく瞬いているのが見えた。そして頭上には、見たこともない配置の星々が、満天に広がっている。
(ここがどこなのか、どうすれば元の世界に戻れるのか……まだ何一つ分かっていない)
蓮は、膝を抱えて座り込み、夜空を見上げた。上海の空とは、明らかに違う星の並びだ。東亜同文書院での日々、教授に呆れられたこと、体力測定でいつも最下位だったこと――そうした記憶が、遠い過去のことのように感じられた。
だが、たった一つだけ、蓮の中で確信に変わりつつあることがあった。
――この乱世で生きていくには、自分にはこの「理解する力」しかない。
剣も振るえない。拳も使えない。走ることさえ、人並み以下だ。それでも、道具の仕組みを理解し、それを本来の性能を超えて強くすることだけは、蓮にできる、唯一の武器だった。
(この力を使って、これから、どうやって生きていけばいいんだろう)
答えの出ない問いを、蓮は静かに胸の内で反芻していた。
そのとき、遠くから、雷鳴にも似た低い響きが聞こえてきた気がした。蓮は顔を上げ、地平線の彼方に目を凝らす。だが、そこには何も見えない。ただ乾いた夜風が、荒野を吹き渡っていくだけだった。
(気のせい、か……)
それでも蓮の胸には、拭いきれない予感があった。この乱世は、まだ始まったばかりに過ぎない。青柳村での出来事は、これから訪れる、はるかに大きな時代のうねりの、ほんの入り口に過ぎないのだと――蓮は、はっきりとは言葉にできないまま、そう感じていた。
星明かりの下、蓮はしばらくの間、一人、静かに座り続けていた。




