第5話 陳蓮と名乗る
夜が白み始める頃、蓮はふらふらとした足取りで荒野を歩いていた。追手の気配はもう完全に消えている。だが、代わりに空腹と疲労、そして寝不足が、じわじわと体力を奪っていた。
(このまま、どこにも辿り着けなかったら……)
不安が頭をよぎるたび、蓮は握りしめたままの匕首と扉板を見て、自分を奮い立たせた。少なくとも、丸腰で放り出されたわけではない。この力さえあれば、何とかなるかもしれない――そう信じることが、今の蓮にできる唯一のことだった。
日が完全に昇りきった頃、地平線の向こうに、小さな集落の輪郭が見えてきた。土塀に囲まれた、それほど大きくはない村だ。畑の緑が広がり、遠目にも人の生活の気配が感じられる。
(村だ……!)
最後の力を振り絞って、蓮は村に向かって歩き出した。
***
村の入り口に近づいたとき、畑仕事をしていた老人が、蓮の姿に気づいて声を上げた。
「だ、誰だ! 動くな!」
老人の声に、周囲にいた村人たちが次々と顔を上げる。傷だらけで、土埃にまみれ、見るからに怪しい風体の若者――蓮は自分がどれほど不審な姿をしているか、そのときになってようやく自覚した。
「あの……すみません、俺は怪しい者じゃなくて……匪賊に襲われて、逃げてきただけなんです」
両手を上げ、できる限り穏やかな声でそう説明した。だが、老人たちの警戒は解けない。手には鍬や棒を握り、遠巻きに蓮を取り囲んでいる。
「匪賊に襲われた、だと? どこの者だ」
「本当に、俺にも……よく分からないんです。気づいたら、この辺りの荒野に一人でいて」
我ながら説明になっていないと思いながらも、蓮にはそうとしか言いようがなかった。訝しげな沈黙が流れる。
そのとき、村人たちの奥から、白髪の老人が杖をつきながら歩み出てきた。この村の村長らしい、落ち着いた物腰の人物だった。
「その傷は、本物のようだな。おい、若いの。とりあえず、水と食事をやれ。話はそれからだ」
「あ、ありがとうございます……!」
村長の一声で、村人たちの警戒がわずかに緩んだ。蓮は崩れ落ちるように地面に膝をついた。
***
村の広場で、蓮は粗末だが温かい粥を振る舞われた。それを掻き込みながら、蓮は改めて自分の状況を説明した――もっとも、荒野で気づいたら一人で倒れていたこと、その後郷勇くずれの集団に捕らわれたが、命からがら逃げ出したことを話しただけで、あの「力」のことには触れなかった。まだ、村人たちにどこまで話していいものか、蓮自身にも判断がつかなかったからだ。
「そうか。あの一帯を荒らしている匪賊崩れどもか。うちの村にも、いつ来るとも分からんな」
村長は苦い顔でそう呟いた。周囲の村人たちの表情にも、不安の色が濃く滲んでいる。
「あの……この村の名前は?」
「青柳村という。見ての通り、小さな村だ」
「青柳村……」
蓮はその名を、記憶の中の地図と照らし合わせようとした。だが、やはり心当たりはなかった。この世界の地理は、蓮の知る中華民国とは、根本のところで何かが違うらしい。
「お前、名は」
村長に問われ、蓮は一瞬迷った。「如月蓮」と名乗るべきか。だが、日本人だと明かせば、この乱世の中で余計な警戒や、あるいは敵意を招くかもしれない。それに、蓮自身、この世界がどういう場所なのか、まだ何一つ理解していないのだ。
「……えっと、レン、です。陳蓮、と」
とっさに、そう名乗っていた。苗字は本来の「如月」から音を取り、姓を「陳」とする、その場しのぎの偽名だった。
「陳蓮、か。分かった。しばらく、この村で休んでいくといい。とはいえ、うちも余裕があるわけじゃない。何か手伝えることがあれば、手伝ってもらうがな」
「もちろんです。何でもします」
蓮は深く頭を下げた。行くあてのない今、この村に置いてもらえるだけでも、ありがたいことだった。
***
その日の午後、蓮は村の中を案内してもらった。畑、井戸、小さな祠、そして村外れにある古い納屋。決して豊かとは言えないが、村人たちは互いに助け合いながら、慎ましくも堅実な暮らしを営んでいるようだった。
案内してくれた青年――村長の孫だという李という若者は、道すがら、村の武装についても教えてくれた。
「うちにも一応、自衛のための猟銃が数丁あるんだ。それと、大刀が何本か。でも、正直、あの辺りをうろついてる匪賊崩れどもと比べたら、心もとないもんさ」
「猟銃、ですか」
蓮の脳裏に、廟で扉板を強化したときの感覚が蘇った。あの現象が、単なる偶然ではないのだとしたら――もしこの村の武具にも、同じことができるのだとしたら。
「李さん、その猟銃、見せてもらってもいいですか?」
「ん? 別に構わないけど……興味あるのか?」
「はい。ちょっと、仕組みが気になって」
李は不思議そうな顔をしながらも、村の武具を保管している納屋へと蓮を案内してくれた。中には、確かに使い込まれた猟銃が数丁と、刃こぼれした大刀が数本、無造作に置かれている。
蓮はその一丁を手に取り、じっと見つめた。錆びついた銃身、緩んだ機構、粗末な木製の銃床。決して、良い状態とは言えない代物だった。
(もし、この村が匪賊に襲われたら――)
村人たちの慎ましい暮らしと、あの荒野で見た匪賊崩れの男たちの凶暴な顔つきが、蓮の脳裏で重なった。何もしなければ、この村もいずれ、同じ目に遭うかもしれない。
(俺に、何かできることがあるとしたら――)
猟銃を握る蓮の手に、自然と力がこもった。
---
(第6話「迫る影」へ続く)




