第4話 廟の扉板
土塀の崩れた箇所を見つけ、蓮はそこから外へ抜け出した。荒野に出た瞬間、張り詰めていた緊張が少しだけ緩む。だが、油断はできない。まだ集落からそう離れていないのだ。
(とにかく、離れないと。方向は……分からないけど、とにかく走るしかない)
月明かりだけを頼りに、蓮は荒野を走り出した。日頃の運動不足がすぐに祟り、息が上がる。脇腹が痛み、足がもつれそうになる。それでも、立ち止まるわけにはいかなかった。
どれくらい走っただろうか。息が続かなくなり、蓮はとうとう膝に手をついて立ち止まった。振り返ると、集落のかがり火はもう遠く、豆粒のような明かりにしか見えない。
(このまま、逃げ切れる……?)
そう思った矢先だった。
「――逃げたぞ! 学生が逃げた!」
夜の静寂を破って、集落の方角から怒声が響いた。見張りの男が目を覚ましたのだろう。松明の明かりがいくつも動き出し、それがこちらへ向かってくるのが見えた。
「くそ……!」
蓮は再び走り出した。だが、日頃鍛えていない体は、すぐに限界を訴え始める。距離は少しずつ、しかし確実に詰められていった。
***
荒野の先に、崩れかけた廟のような建物が見えた。かつては村の守り神を祀っていたのだろう、今は屋根の一部が崩れ落ち、朽ちかけた木の扉だけが、かろうじて原形をとどめている。
(あそこに隠れれば――いや、隠れても見つかるのは時間の問題だ)
それでも他に選択肢はなかった。蓮は最後の力を振り絞って廟に駆け込み、崩れた柱の陰に身を潜めた。
追手の松明の明かりが、みるみる近づいてくる。
「あっちだ! 廟の方に逃げ込んだぞ!」
蓮の心臓が、痛いほどに脈打った。手の中には、まだあの匕首がある。だが、複数人相手に、この非力な体でどうにかできるとは、到底思えなかった。
(何か、他に――)
視線を巡らせた蓮の目に、廟の重い扉板が映った。半分崩れ落ちかけているが、まだ木材としての形は保っている。
(あれなら――)
考えている暇はなかった。追手の足音が、もう目と鼻の先まで迫っている。蓮は震える手で扉板を引き剥がし、両手で抱えるようにして構えた。
「見つけたぞ、この野郎!」
先頭を走ってきた男が、腰の駁殻槍を抜き放ちながら叫んだ。銃口がこちらを向く。
(間に合え……!)
蓮は必死に、扉板の構造を頭の中で分解しようとした。木目の方向、繊維の密度、経年による劣化、衝撃を受けたときの応力の分散のしかた。理科の授業で聞きかじった材料力学の断片的な知識と、蓮自身の観察眼が、頭の中で目まぐるしく組み合わさっていく。
(この板、木目に沿った方向には強いが、直角方向の衝撃には弱い。もし、繊維の密度を均一にして、衝撃を面全体に分散できる構造に「した」としたら――)
銃声が轟いた。
閃光と共に、銃弾が蓮めがけて飛んでくる。反射的に目をつぶることしかできなかった。
だが、衝撃は来なかった。代わりに聞こえたのは、金属同士がぶつかったような、甲高い音だった。
恐る恐る目を開けると、蓮が構えていた扉板が、鈍く青白い光をまとっていた。その表面に、弾かれた銃弾がめり込むこともなく、ただ跳ね返って地面に転がっている。
「な、なんだと……!?」
先頭の男が、信じられないという顔で立ち尽くした。
***
「化け物か……!?」
別の男が叫んだ。集まってきた郷勇くずれの男たちが、次々と銃を構えて発砲する。だが、その全弾が、蓮の掲げる扉板に阻まれた。木の板であるはずのそれは、まるで鋼鉄の盾のように、あらゆる衝撃を弾き返し続けていた。
蓮自身も、この現実が信じられなかった。だが、体の震えは止まらないままでも、心のどこかで、冷静にこの現象を観察している自分がいた。
(さっきの匕首と同じだ。理解が、力になっている。この扉板も、俺が仕組みを理解し尽くした分だけ、本来の性能を超えている……)
「くそっ、化け物め! 頭領に報告だ!」
数発を撃ち込んでも一向に埒が明かないと悟ったのか、男たちの間に動揺が広がり始めた。統率の取れていない匪賊まがいの集団は、想定外の事態に脆い。誰かが後ずさり、それにつられるように、隊列が乱れ始めた。
蓮はその隙を逃さなかった。扉板を抱えたまま、廟の裏手にある崩れかけた壁の隙間へと駆け込む。
「待て、逃げるな!」
背後から怒声が飛んでくるが、追撃の勢いは明らかに鈍っていた。蓮は息を切らしながら、無我夢中で荒野を走り続けた。
どれほど走っただろうか。もう息も切れ、足も棒のようになった頃、ようやく追手の気配が完全に消えたことに気づいた。
蓮はその場に崩れ落ちるように座り込み、荒い息を整えながら、手の中の扉板を見つめた。輝きはすでに収まり、ただの朽ちかけた木の板に戻っている。だが、そこに確かに宿っていた力のことを、蓮は忘れることができなかった。
(俺は、生き延びた。この力のおかげで……)
安堵と興奮が入り混じった感情の中で、蓮は夜空を見上げた。見知らぬ星々が、頭上いっぱいに広がっている。この世界のどこにいるのかも、どうすれば元の世界に帰れるのかも、まだ何一つ分かっていない。
それでも今は、生き延びられたという事実だけが、蓮にとって何よりの救いだった。
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(第5話「陳蓮と名乗る」へ続く)




