第3話 理解という力
匕首の柄を握った瞬間、蓮の脳裏に、不思議な感覚が流れ込んできた。
それは、言葉にするのが難しい感覚だった。目で見ているわけではないのに、匕首の刃の内部構造が、まるで透けて見えるかのように分かる。鉄の中に走る結晶の粒――冶金の知識でいう「組織」というやつだ。粒が粗く、あちこちに歪みが残っている。焼き入れの温度が均一でなかったのだろう、刃の根元と切っ先とで硬度にむらがある。刃角は蓮が想像していたよりもさらに浅く、これでは満足に何かを切ることすらできないはずだ。
(この刃、鋼の組成は、たぶん炭素量が少なすぎる。焼き入れも甘い。刃角も浅すぎて、これじゃ食い込む前に刃こぼれする……)
東亜同文書院の理科の授業で聞きかじった程度の冶金学の知識が、頭の中で次々と結びついていく。蓮は昔から、こうして物の仕組みを分解して考えることだけは、誰にも負けないという妙な自負があった。もっとも、それが何かの役に立つ日が来るとは、これまで一度も思ったことはなかったが。
(でも、もし――刃角をもっと鋭く、組織をもっと均一に、焼き入れの温度分布まで理想的な状態に「した」としたら)
そう考えた瞬間だった。
指先から、じわりとした熱が伝わってきた。上海の骨董市で、あの青銅の分銅に触れたときと、まったく同じ感覚。
「――!?」
驚いて手を離そうとしたが、間に合わなかった。匕首の刃が、青白い光をまとい始める。淡く、しかし確かな輝きが、闇に沈んだ小屋の中をぼんやりと照らし出した。
(な、なんだこれ、なんだこれ――)
心臓が早鐘を打つ。だが、思考の片隅では、驚きよりも先に、ある種の確信が芽生えていた。
(さっきの分銅と、同じだ。俺は今、この刃の「仕組み」を、頭の中で理解し尽くした。そうしたら――)
光が収まったとき、蓮の手の中にあった匕首は、明らかに先ほどまでとは違っていた。刃の輝きは変わらず鈍く錆びついた色のままだったが、刃先にはうっすらとした青みが差し、まるで研ぎ澄まされたばかりの新品の刃物のような、鋭い光沢を帯びている。
(試してみるしかない)
蓮は縛られた手首の縄に、震える手でその刃を当てた。切れるかどうかも分からない。もし切れなければ、そのまま見張りに気づかれて終わりだ。
刃が縄に触れた瞬間、ほとんど抵抗を感じることなく、縄はまるで柔らかい豆腐でも切るように、すっと断ち切れた。
「……嘘、だろ」
蓮は自分の目を疑った。両手が自由になった感触に、指先が震える。続けて足首の縄にも刃を当てると、これもまた、あっけないほど簡単に切れてしまった。
***
自由になった手足を軽くさすりながら、蓮はしばらくその場に座り込んだまま、動くことができなかった。頭の中を、様々な思考が渦巻いている。
(今のは、いったい何だったんだ。分銅に触れたときに何かが変わった。そして今、この匕首にも同じことが起きた。共通しているのは……「理解すること」、なのか?)
冷静になって考えれば考えるほど、それ以外に説明のつく要因が見当たらなかった。蓮は匕首の刃の構造を、頭の中で徹底的に分解し、理想の状態を思い描いた。そして、その思考が完成した瞬間に、匕首そのものが、まるでその理想を体現するかのように変化した。
(もしこれが偶然じゃないとしたら――俺は、物の仕組みを深く理解することで、その物自体を強くすることができる、ということか?)
にわかには信じがたい話だ。だが、目の前で起きた現象を、蓮はもう疑いようがなかった。手の中の匕首は、確かに変わったのだ。
同時に、蓮の胸の内には、皮肉な感慨も湧いてきた。剣術の授業では木刀を構えるだけで手が震え、射撃訓練では的にすら当たらなかった自分。体を鍛えることに関しては、誰よりも劣っていたはずの自分に、こんな力が備わっていたとは。
(体力じゃない。武術でもない。俺にあったのは、「理解する」ことだけだったのか)
自嘲めいた笑みが、思わず口の端に浮かんだ。だが、感慨に浸っている時間はなかった。小屋の外では、見張りの男が相変わらず酒精にまかれていびきをかいているものの、いつ目を覚ますとも知れない。
(今のうちに、逃げないと)
蓮は音を立てないよう慎重に立ち上がり、匕首を握りしめたまま、小屋の扉にそっと手をかけた。
隙間から外を覗くと、見張りの男は壁にもたれかかったまま、完全に寝入っているようだった。かがり火の炎が、赤く揺らめいている。集落の奥からは、まだ低い話し声や笑い声が漏れ聞こえてきていたが、こちらの小屋に注意を払っている様子はない。
(土塀の外に出れば、あとは荒野を走るだけだ。走るのは、多少は自信がある――いや、正直、そこまで自信はないけど、他に選択肢がない)
蓮は深く息を吸い込むと、扉をわずかに押し開けた。木の軋む音が、静かな夜にやけに大きく響いた気がして、心臓が跳ねる。
見張りの男は、身じろぎ一つしなかった。
蓮はそっと小屋を抜け出し、かがり火の光が届かない影を選びながら、土塀に向かって歩き出した。手の中の匕首の、青みがかった刃先が、月明かりを受けて、かすかに光っていた。
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(第4話「廟の扉板」へ続く)




