19話 ドレスと恋心
何事もなかったように、ソラとの日常は続いた。
忘れたふりをしよう。それでいいじゃないか。
そう自分に言い聞かせながら、数週間が過ぎた、ある5月の晴れた昼下がり。
俺は梨夏に引きずられるようにして、都心の高級デパートに来ていた。
落ち着いた雰囲気のフロアで、梨夏は煌びやかなフォーマルドレスを次々に手に取る。時折スタッフに話しかけ、試着室を出入りしていた。
「元婚約者の披露宴に参加するなんて、兄さんも父さんも、いったい何を考えているんだ」
俺は小声で不満をこぼす。
「何か言った?」
「なんで、そんなに嬉しそうなんだよ」
「あら、圭人とデートなんて久しぶりじゃない」
「どこがデートだよ」
梨夏は聞こえないふりをして、胸元が大胆に開いた黒いワンピースを自分に当ててみせた。
「これは?」
「エロすぎ」
「じゃあ、こっちは?」
今度は派手なゴールドのスパンコール付き。
「却下」
俺は梨夏の手からドレスを奪うと、ハンガーにかけてラックへ戻した。
「夜の蝶にでもなる気かよ」
似合うからこそ、危ない。
「これも仕事なのよ。取引先の偉い方々のお酌係、つまりホステス代わりだもの」
「だったら、なおさら露出は控えろ。知らないオヤジたちに色気を振りまくな」
そんな梨夏を見たくはない。
「あら、ヤキモチ?」
核心を突かれた。
そうだ、ソラと梨夏の仲に、俺はソラだけではなく、梨夏にもまた、微かに嫉妬していた。
「――うるさい」
「ドレスはやめて、着物にでもしようかしら」
「それもいいな……。あ、これは?」
視線の先にあったドレスを、俺は手に取った。
「着てみて」
「ちょっと地味じゃない?」
梨夏はモスグリーンのシンプルなドレスを手に試着室へと入って行った。
「どうかしら?」
透き通るような肌と、すらりと伸びた背筋。シンプルだからこそ映える梨夏の美しさ。
「……うん、いいね」
俺の正直な言葉に、梨夏はふっと満足げに微笑んだ。
「じゃ、これにするわ。次は圭人よ」
「俺はいいよ」
昨年、友人の結婚式で着たスーツがある。3点セットで29,800円の格安スーツだけど。
「新郎の弟で、社長の次男なのよ? 相応のスーツで参加しないとダメじゃない。それに、隼人からも『いいスーツを見立ててくるように』って業務命令が出てるのよ」
梨夏は黒いカードをちらつかせた。
「デートとか言っておいて、結局は隼人の差し金かよ」
「いいから、ほら。不貞腐れてないで、ついて来なさい」
梨夏に腕を引かれ、メンズフロアへ移動する。
梨夏は俺の体に合わせてジャケットを選び、ネクタイの質感やシャツの襟の形まで、真剣に悩んでいる。
自分のドレスを選んでいたときより、ずっと楽しそうな横顔だった。
――よかった。笑っててくれて。
つまらない嫉妬を少し忘れ、その表情を見ていると、俺の心はじんわりと温かくなる。
あの夜、泣いていた梨夏の姿を重ねてしまったからだ。
◆◆◆
買い物を終え、重たいブランドの紙袋をいくつも提げてデパートを出た。
人混みを避け、大通りに面したオープンカフェのテラス席に落ち着く。5月の風が心地よかった。
「いい買い物だったわ。ありがとう、圭人」
「業務命令だろ」
「素直じゃないわね。あなたが選んでくれたから、嬉しかったのよ」
梨夏はそう言って、優しく微笑んだ。その横顔を、なんとなく眺める。
爽やかなブルーと白のストライプシャツにスキニージーンズ。長く艶のある黒髪。
梨夏と初めて出会った、あの暑い夏を思い出した。
「何か、言いたそうね」
「え――いいや」
言葉を濁したが、嘘はお見通しだろう。
梨夏はふわりと笑い、バッグから細いタバコを取り出す。
「なぜソラくんと寝たのか―ー、気になって仕方ないってところかしら」
遠慮のない直球。梨夏らしい。
「隼人には、もう未練はないのよ」
「ソラを好きになったからか?」
梨夏はゆっくりとタバコに火を点ける。
ライターがカチンと小さな音を立てると、それがまるで心臓を直接叩くように響いた。
「私ね、ソラくんの気持ちが、少しだけ分かるの」
「ソラの?」
「似たもの同士なのよ、私たち」
「……わかんねぇよ」
梨夏は深く吸うと、そのまま少し黙った。
「とにかく、2度はないわ」
通りを眺めながら、梨夏はゆっくりと口を開く。
「あの夜とは、違うのよ」
――あの夜。それは、俺との夜のことか。
隼人と別れた梨夏は、泣きながら俺の部屋にやってきた。
肩を小さく震わせ、声を押し殺すように言った。
『ごめんね、他に行く場所がなかったの』
俺は黙って肩を抱いた。
ただ慰めるつもりだった。本当に、暖かいココアのように、優しく心を満たしてあげたかった。
――それなのに。
兄への反発心か。それとも。隠れた気持ちが抑えきれなかったのか。
俺は梨夏を抱いてしまった。
タバコの香りとシャネルの5番。
梨夏とのキスはほろ苦さとなって、いつまでも俺の心に住み着いている。
「もしも、私が隼人と結婚していたら、あなたは私の義理の弟だったのよね」
「そうだな」
「あなたのお姉さんにはなれない。……なるつもりもないわ」
「今さら何を急に言ってんだよ」
アイスコーヒーの氷が、カランと音を立てた。
「圭人を隼人の代わりだなんて、思ったことはないわ。あの夜、私はあなたのそばにいたかった」
ふわりと漂う紫煙を目で追う。
テラス席のパラソルの向こうへ流れていく煙。
その視線の先、向かいの歩道の喧騒の中に、見覚えのある横顔があった。
「あれ、ソラくんじゃない?」
梨夏も気づき、テラス席から身を乗り出す。
暮れ始めた陽射しの下、ソラの隣には見知らぬ男がいた。
年齢は隼人と同じくらいだろうか。男はごく自然にソラの腰に手を回した。
ソラは嫌がる素振りも見せず、腰を抱かれたまま都会の雑踏へと消えて行った。
「なんだか、アダルトな雰囲気ね」
「そう、だな……」
「ソラくん、前に夜の仕事をしてるって言ってたけど、今も続けているのかしら?」
「どうだろうな」
そのまま、梨夏との会話を続けることができなかった。
胸の奥が鉛のように重くなるのを感じる。喉元を焼くような嫉妬が、再びチクリと痛み始めた。
「お待たせしました」
運ばれてきた、バスクチーズケーキ。人気商品だというのに、ちっとも味がしなかった。




