17話 秘密の残り香
深夜1時。終電を逃した俺はタクシーで帰宅した。
支払いを済ませ、車を降りたそのとき――
カツカツと階段を下りるヒールの音が響いた。
「圭人!そのタクシー、待っててもらって!」
「え、ああ」
梨夏の声だった。
なぜここに?という疑問はあったが、慌てて運転手に待つよう伝えた。
「よかった、タクシーを探す手間が省けたわ」
「うちに来ていたのか?」
「そう。圭人と飲もうと思ったのよ」
細身のワンピースに、黒いヒール。彼女の手元には、革張りのビジネスバッグ。
仕事帰りらしいが、めずらしく髪を下ろしている。
「不在で悪かったな」
「いいのよ。ソラくんが付き合ってくれたから」
梨夏は俺のすぐ前を通り過ぎ、タクシーへ滑るように乗り込む。
いつもの香りがする。
「じゃ、またね」
月明かりの下、どこか甘さを帯びた笑顔だった。
俺はぼんやりとタクシーが走り去るのを見送り、ソラの待つ部屋へ帰った。
「おかえり」
リビングのドアを開けると、ソラがソファからゆっくりと身体を起こした。
「遅かったね」
いつもと変わらない、猫のような柔らかな笑顔。風呂上がりなのか、その頬は蒸気を含んだように赤らんでいる。
「そこで、梨夏に会ったよ」
「ああ、さっきまでここにいたから」
「ふたりで飲んでたのか?」
「梨夏さん、仕事で色々あるみたい。疲れていたから、ハーブティーを入れてあげたんだ」
珍しい。酒豪の梨夏がハーブティーだけで?
「ケイも飲む?」
「ああ、もらおうかな」
「オッケー、待っててね」
ソラは屈託のない足取りで、俺の脇を通りキッチンへ向かう。
――あれ?
ソファに腰を下ろすと、そこには梨夏の愛用しているシャネルの5番の残り香。
いつもなら凛として華やかな香りなのに。
妙に湿り気を帯びて、肌にねっとりと絡みついてくる。
ここで二人がお茶を飲み、他愛もない会話をしていた――。
そんな平穏な光景を思い描こうとしても、脳裏に浮かぶのはもっと濃密で、言語化できないどろりとした気配だった。
「ケイ、どうかした?顔色が悪いよ」
カップを手にしたソラが、俺の顔を覗き込む。
その瞳の奥に、俺の知らない光が宿っているような気がして、思わず視線を逸らした。
「あ、いや……少し飲みすぎたかな」
「大丈夫?」
「シャワーを浴びて寝るよ。ごめん、ハーブティーはまた今度にしてくれ」
逃げるように立ち上がった俺の背中に、ソラの静かな声が突き刺さる。
「――おやすみ。ケイ」
バスルームに入り、鍵をかける。
服を脱ぎ捨て、熱いシャワーを頭から被った。
だが、身体は少しも温まらない。それどころか、胃の奥からせり上がってくる不快感が、吐き気となって喉元を焼いた。
どうして、気づいてしまったんだろう。
確かな証拠なんて何もない。
ただの直感だ。けれど、さっきのソラの首筋の赤み、梨夏のどこか甘い微笑み、そして、この部屋に充満していた異質な熱。
ソラと梨夏が、俺のいないところで――?
いや、たとえ2人が何をしようと、俺にそれを咎める資格はない。
ソラは俺の恋人ではないし、梨夏だって彼女じゃない。
ソラは同性だからと、自分勝手な理由でソラの好意を宙吊りにしていたのは俺の方なのに。
それなのに、喉の奥が引き攣れるように痛む。
裏切られた、という身勝手な絶望が、冷たいタイルに染み込んでいく。シャワーの音にかき消されるように、俺は嗚咽をあげた。
『大好きだよ』
何度も、何度も耳元で囁かれたあの言葉を、もっと真摯に受け取っていればよかったのか。
俺の臆病さが、ソラを別の誰かの腕の中に追いやったのではないか。
疎外感、後悔、そしてソラを失うことへの猛烈な恐怖。それらが混ざり合って、情けないほど涙が溢れて止まらなかった。
シャワーを止めた後の脱衣所は、耳が痛くなるほど静かだった。
髪を乾かす気力もなく、寝室へ戻りベッドに潜り込む。
いつもなら、しばらくするとドアが開き、ソラが当然のように潜り込んでくるはずの場所。
深夜2時。
待っても、待っても、ドアが開く音は聞こえなかった。
今夜は、ベッドにはクッションの防壁はない。
シングルベッドがやけに広く感じる。
シーツはいつまでも冷たいままだった。




