16話 ご主人様が不在の夜は〈梨夏side〉
コンクリート打ちっぱなしの、小さなビル。通りに面した1階のカフェ、POCHHITの入り口には『CLOSE』の看板が出ていた。
梨夏はそのまま、視線を上へと向けた。見上げた3階の部屋の窓には、ほのかな灯りが宿っている。
ドアホンを鳴らすと、ほどなくしてソラがドアを開けた。
「あれ、梨夏さん。どうしたの、こんな時間に」
スウェット姿のソラは風呂上がりなのか、その頬はほんのりピンク色に上気している。
少し伸びた前髪からは、雫が零れて鎖骨を濡らしていた。
まったく、なんて色っぽい男なのだろう。梨夏は一瞬、言葉を失った。
「こんばんは。圭人はいる?」
「友達と飲みに行ってて、今夜は遅くなるって」
「そう、残念ね。一緒に飲もうと思って来たんだけど」
あからさまにガッカリした梨夏に、ソラがクスッと笑う。
「せっかく来たんだし、僕で良ければ付き合いますよ」
「そう?じゃあ、お願いしようかしら」
ソラに促され、梨夏はリビングへと足を踏み入れた。
無意識に視線を巡らせる。
整えられた部屋。観葉植物、ソファ、壁際の低い本棚とそこに並ぶ本の背表紙。
――変わっていない。
すべてが、梨夏が知る「あの夜」のままだった。
「ソラくんは、いつもソファで寝てるの?」
「うん。でも大抵は、ケイのベッドに潜り込んでます」
ソラは屈託のない、それでいて独占欲の滲む笑顔を向けた。
「仲がいいのね」
「おかげさまで。はい、どうぞ」
ソラが用意したのは酒ではなく、温かいハーブティーだった。ふわりとハチミツの甘い香りが漂う。
「たくさん飲んでも酔えない夜は、これが一番効きますよ」
ソラはソファの肘掛けに顎を乗せ、梨夏の顔を至近距離でのぞき込むように言った。
梨夏は驚いたように視線を上げる。
「私、そんなにお酒臭いかしら?」
「いいえ。シャネルの5番の香りだけです」
すまして答えたソラに、梨夏は目をパチパチさせた。
「ソラくん。――あなたは一体何者なの?」
「ただのケイの飼い猫ですよ」
その言葉に、梨夏は軽くため息をついた。猫の皮を被った、虎か何かではないのか。
「さてと、梨夏さん」
「なに?」
「僕も、梨夏さんに聞きたいことがある」
ソラは喉の奥で怪しく笑う。その瞳は、獲物を狙う夜の獣のように静かに光っていた。
「梨夏さん、圭人と寝たことがありますね」
ソラの突然の言葉に、梨夏は思わずマグカップを取り落としそうになった。
「なぜ、そう思うの?」
梨夏が掠れた声で尋ねると、ソラはクスクスと笑った。
その笑い声には、どこか悪戯っぽい響きが含まれている。
「においです」
「シャネルの5番?」
「違いますよ。嗅覚だけでわかるものじゃない。でも、確かにケイと梨夏さんからは、同じにおいがする」
ソラは梨夏にぐっと顔を近づけ、クンクンと嗅ぐように鼻を鳴らした。
この子の勘は、どこまで鋭いのだろう。
「僕にもわけてほしいな、ケイのぬくもり」
「おもしろい子ね」
梨夏は感情を悟られないよう、努めて冷静に微笑んだ。
だが、ソラはそんな梨夏の内心を見透かすかのように、さらに言葉を続ける。
「教えてよ。ケイは、どんなふうにあなたを抱いたの?」
ソラは梨夏の腕にそっと顔をすり寄せた。
まるで、本物の猫が甘えるように。その柔らかな唇が梨夏の白い手首、脈打つ場所に熱く触れる。
「圭人は……、優しかったわ」
梨夏はそっとソラの髪をなでた。まるで、すりよってきた猫をなでるように。
「それから?もっと教えてよ」
ソラの薄いグレーの瞳に、自分の顔が映っている。そのまま、さらに近づく距離。
「悪い子ね、ご主人様の不在時にイタズラするつもり?」
梨夏がそう言うと、ソラは可愛らしく首を傾げた。
「猫って、さみしいとイタズラするものでしょ?」
「そうだったわね」
梨夏は静かに目を閉じた。
ソラの舌先がわずかに彼女の唇を割り、ハチミツの甘い後味を流し込んでくる。
甘いけど、優しくなんてないキスだった。
かつて圭人が座ったこのソファで、別の男と、それも彼が拾った「猫」と唇を重ねるなんて――。
軽く触れた唇が離れる。
「ケイのこと、好き?」
「それは……」
圭人は梨夏に惹かれている。自惚れじゃない。
けれど、兄の元婚約者である梨夏に、完全に踏み込んでくれることは決してないだろう。例え、梨夏も圭人に惹かれていると知っても、それは変わらない。
あの一夜も、きっと圭人は無かったことにしたいはずだ。
「妬けるな、やっぱりさ」
梨夏の口づけに深く侵入する唇。遠慮は無用と言わんばかりだ。ソラのキスは、梨夏の心の奥底にある、埋められない穴を直接刺激するかのようだった。
「あ、んっ……」
隼人とも圭人とも違う、ヤケドしそうなほど熱を帯びたキスだった。
「梨夏さん」
唇がわずかに離れたとき、ソラは言った。
「僕は圭人みたいに優しく抱いてあげられないし、隼人さんほどノーマルでもないよ」
「ちょっと、隼人の性癖は知らないでしょ」
「わかるよ」
「どうして?」
「女も男も、抱くも抱かれるも、色々と経験してきたんだ。あの手のタイプは、どうせつまらないセックスしかしないね」
可愛い顔から大胆な発言。でも、梨夏は否定できなかった。
「物足りなかった、そんな顔してる」
クスっと笑う。
「本当に、悪いネコね」
梨夏はソラの膝の上にまたがると、自らブラウスのボタンを外した。
「おしゃべりはもういいわ。さっさと抱いてよ」
「あはは、美人に凄まれると怖いなぁ」
ソラはペロリと舌を出すと、いたずらっ子のように笑った。
二人は圭人に惹かれながらも、叶わないもどかしさを抱えていた。
誰もが圭人の優しさに救われ、心を許すが、その優しさは、特定の誰かに向かうものではない。
それが、梨夏とソラの、共通の苦しみだった。
「私の中に微かに残る圭人のぬくもり、ソラくんにも分けてあげるわ」
「それは――、嬉しいな」
誰にも言えない秘密を共有する、二人の孤独な魂が、その夜、寄り添い合った。
「夜は長いからね。楽しませてもらうよ」
ソラが梨夏の腰に手を回した。恐ろしいほどに手慣れた仕草に思えた。




