15話 不器用な上司〈梨夏side〉
梨夏がオフィスで作業をしていると、廊下からカツン、カツンと響く足音がした。
神経質な歩き方ですぐわかる。この部屋の主が帰ってきたようだ。
パソコンを打つ手を止め、スッと立ち上がると、すぐにドアが開いて隼人が入ってくる。
「常務、お帰りなさいませ」
梨夏は真面目で優秀な秘書だ。
まだ、二人が恋人関係であったときから、変わらず公私の区別は徹底していた。
「ただいま」
隼人は簡潔に答え、ビジネスバッグを梨夏に手渡すと、革張りのソファに深く身を沈めた。
ネクタイを少し緩め、深く息を吐く。
「圭人さんから、結婚式の招待状の返事が届いてます」
梨夏が封筒とペーパーナイフを差し出すと、隼人は無言で受け取り静かに封を切る。
梨夏はカフェで招待状を渡したとき、隼人から圭人への言動を思い出す。
隼人に悪意がないことは、梨夏にはよく分かっていた。兄として、弟を心配しているが故の、不器用な表現なのだと。
人の愛し方が下手な、かわいそうな男だから。
「圭人さんのお返事は?」
梨夏はすぐにポーカーフェイスを取り戻し、努めて冷静に問いかけた。
「出席だとさ。あいつも少しは大人になったようだ」
「社長も安心されるのではないでしょうか」
「ああ、そうだな。あとで報告しておいてくれ」
「承知しました」
梨夏はコーヒーを淹れて、そっとテーブルに置いた。ふわりと香りが広がる。
「好きなことを仕事にできれば、幸せだろうな」
コーヒーに視線を落とし、隼人がつぶやいた。梨夏は黙ってその言葉に耳を傾けた。
彼が背負うものの大きさを、梨夏は誰よりも知っていたからだ。誰よりも、間近で見てきたからだ。
「梨夏」
その声は、秘書に向けるそれとは少し違っていた。どこか甘えるような響きがあった。
「圭人をこの会社に……、いや。家に連れ戻すのは反対か?」
「私が口を出す問題ではありません。それに、決めるのは圭人さんです」
隼人は、その梨夏のまなざしをじっと見つめる。
「今は二人だけなんだ。かしこまった話し方はやめてくれ」
「お言葉ですが業務中です。それに、プライベートな関係はとっくに解消されました」
隼人はメガネをはずすと、寂し気に笑った。
フレームの奥に隠されていた瞳が、梨夏の視線を捕らえて離さない。
「梨夏、頼むよ。戻ってくれ――」
隼人は『恋人だった頃の梨夏に』という言葉を飲み込んだ。
「業務命令だと判断しますよ」
「ああ。それでいい」
隼人はホッとしたように、頬を少しだけ緩ませた。
「吸うか?」
隼人は胸ポケットから紙タバコを取り出した。
めったに吸わない代わりに、流行りの電子タバコではなく、馴染みの紙タバコを好む。
「社内禁煙よ。常務が私室でこっそり吸っているなんて、他の社員が知ったらどうするの?」
「少しくらい悪さをしないと、パンクするんだよ」
「優等生は大変ね。それなら、共犯者になってあげるわ」
梨夏は隼人の隣に座ると、ライターに火を灯した。
隼人が身を乗り出し、その火を覗き込む。
火が消えないよう添えられた梨夏の指先が、隼人の手にわずかに触れた。
かつての恋人であったときなら、そのまま引き寄せて唇を重ねていた。そんな甘く苦い記憶が過る。
互いの前髪が微かに触れ、同時にふっと紫煙を吐き出した。
梨夏の表情からビジネスライクな仮面が剥がれ落ち、柔らかい、本来の彼女の顔が覗く。
「圭人が羨ましいのね」
隼人は息を呑んだ。
「選ぶ自由なんて、あなたにはなかったから」
梨夏の声は、隼人の痛みに寄り添うようだった。
かつて愛し合った女だからこそ、隼人の喉元にある言葉にならない叫びを、容易く掬い上げてしまう。
「長男は会社のため必死に働いているのに、厳格なお父様は、自由奔放な次男には甘いのよね」
「圭人には俺にはない行動力がある――だろう?酒に酔った親父がよく言うセリフだな」
隼人が天井を仰いだ。
「圭人の自由は、隼人の不自由があってこそよ。……あなたは、誰よりも優しいもの」
梨夏の言葉に、隼人は目を細めた。
嫉妬と憧れ。
汚い感情さえも「優しさ」と呼んで肯定してくれるのは、世界中で彼女しかいない。
愛していない結婚相手に、それを求めることは、この先一生ないだろう。
「梨夏――、君は本当に、俺の良き理解者だな」
「今さらね。私、あなたにフラれたのよ」
隼人は苦笑を浮かべ、短くなったタバコを指先で弄んだ。
その指先が、名残惜しそうに梨夏の膝に置かれた手に触れ、そしてゆっくりと離れていく。
「披露宴には、梨夏も参加してくれるんだろう」
「業務命令とあらば参加します。奥さまは心穏やかではないでしょうね」
梨夏は自嘲気味に口角を上げた。
残酷さを承知の上で、隼人は彼女を側に置こうとしている。手放せない執着を、仕事という鎖で繋ぎ止めて。
「あまり着飾らないでくれよ。花嫁が霞んでしまうからな」
「それは無理な相談ね。私、美人だもの」
「ふ、それもそうだな」
隼人はそれ以上は語らず、再び静かに目を閉じた。
オフィスの空調の音が、静かに二人の沈黙を埋めていく。
「――圭人に惚れたか?」
梨夏はその問いに答える代わりに、タバコの火を灰皿に押し付けた。
赤い火種が静かに消える。
「仕事に戻りましょう、常務」
性格も選ぶ道も異なる兄弟は、どちらも、梨夏にとっては切ないほど大切な存在なのだ。




