14話 どこにも行かないで
「ねぇ、なんでソファで寝てたの?」
翌朝、視界に飛び込んできたのは、いつもと変わらない光景だった。
ソラの好きな厚切りトーストとスクランブルエッグ。コーヒーの香りが漂い、テレビからは代わり映えのしないニュース番組が流れるリビング。
「深夜番組を見てたら、いつの間にか寝てたんだよ」
俺は即座に嘘をついた。
明け方まで帰ってくるの待っていて寝落ちした。なんて、恥ずかしくて口が裂けても言えない。
「もしかして、僕がいなくて寂しくて、リビングで待っててくれた?」
上目遣いでのぞきこまれる。
「自意識過剰なんだよ。ほら、冷める前に食べろ」
「なんだ、違うのか」
明け方に帰宅したソラは、シャワーを浴びていた。俺の知らない夜の匂いは消されていた。
「今夜は一緒に寝ようね」
「毎晩のように、俺のベッドに潜り込んでくるなよ」
「ケイの隣はあったかいもん。でも……、いつまでも居座ってたら、邪魔?」
冗談めかした問いの中に、一瞬だけ真剣な色が混じる。
「え?」
思わず声が大きくなった。
「本当のところ、どう思ってるのかなって」
不意に、言いようのない不安が込み上げた。目の前にいるこの存在が、砂のように指の間から零れ落ちてしまうような。
「ソラ」
気づけば、俺の手はソラの細い手首を強く掴んでいた。
「え、ケイ?」
いつも余裕たっぷりに俺を翻弄するソラが、一瞬、呆気に取られたように目を丸くした。
俺が自ら触れるなんて、初めてだったかもしれない。
「……行くなよ」
思わず手に力が入る。
「邪魔だなんて思ってない。だから、どこにも行かないで、ここいいて」
ソラは驚きを隠せないまま、それでも愛おしそうに俺の手に自分の手を重ねた。
「うん。わかった。行かないよ。どこにも行かない」
その体温が、昨夜の凍りついた孤独を少しずつ溶かしていく。
「そういえば、お兄さんの結婚式、どうするの?」
唐突な質問に、俺は手を止めた。
「行くよ。いつまでも逃げ回ってるわけにはいかないしな」
「逃げる?」
ソラが不思議そうに首を傾げる。
「隼人と梨夏の勤め先は、親父の会社なんだ」
「ケイのお父さんは、社長さんってこと?」
隠し通せることでもないと観念して、俺は軽く頷いた。
「ケイの育ちが良さそうな理由、わかった気がするよ。お坊ちゃまだったのか」
クン、と首筋に鼻を寄せられ、ゾクりと背筋が震えた。
「社長なんてピンキリだよ。まあ、不自由のない生活はさせてもらってたけどな。でも最近は業績が悪くて、かなり苦しいらしい」
「もしかして……お兄さんと梨夏さんが別れた理由って」
察しのいいやつだ。
「隼人の結婚相手は大手企業の社長令嬢だ。家同士の結びつき……いわゆる、政略結婚だな」
「なるほどね。あんなに美人の梨夏さんが振られるなんて、普通はないもんね」
本当は、隼人が一方的な悪者なわけじゃない。家のため、会社のために自分を殺したのだと分かっている。
そして、次男の俺は何もしない。
分かってはいるが、梨夏の笑顔と涙を知っている俺には、どうしても納得ができない。
結局、俺はまだ子供なんだろう。
「……ちゃんと、話をしないとな」
自分自身へ言い聞かせるような呟きに、ソラは腕の力を強め、俺の肩口に唇を寄せた。
「僕も一緒に行ってあげようか? ケイの『恋人』としてさ」
「……馬鹿言うな」
突き放しながらも、俺はその体温を振り払うことができない。
「あ、レタスが高騰だってさ」
ニュースの話題に切り替わると、ソラはようやく俺から離れ、テレビへと視線を向けた。
いつもの無邪気なソラに戻ったその横顔。
俺は安堵と同時に、言葉にできない寂しさを覚えた。
『昨夜は誰といたんだ?』
喉まで出かかった問いを、苦いコーヒーと一緒に無理やり飲み込んだ。
本当のことを聞いて、この温もりが消えてしまうのが怖かった。
家族も、そして目の前にいるソラも。
触れられる距離にいるのに、本当は遠い場所にいるみたいだ――。




