11話 雨の午後
隼人と梨夏が帰ったあと、店内に残ったのは冷え切った空気と、言いようのない重さだけだった。
大きな窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。
満開だった桜の花びらが、雨に叩きつけられ、無惨に地面へ張り付いている。
客足はすっかり途絶えてしまった。
俺はカウンターに座り、ただ雨粒が窓を伝う音を眺めていた。
「ケイ」
呼ばれた声に意識が戻ると、ふわっと甘く濃厚なココアの匂いが店内に漂っていた。
「疲れたときは甘いものだよね」
差し出された温かいマグカップを、俺は無言で受け取った。
ソラは俺をソファ席へ促すと、自分も当然のように隣に腰を下ろした。使い古された布製のソファが、二人の重みで小さく沈む。
「僕でよければ、なんでも聞くよ」
湯気の向こう側で、雨に濡れた窓ガラスが滲んで見えた。
「俺は昔から、あいつの影で生きてきたんだ」
「そっか」
自分でも驚くほど、声が弱々しく響いた。
何をしても『隼人のように』『隼人はできたのに』と言われ続け、俺の存在はいつも兄の優秀さを引き立てるための装置だった。
どうせ何をやっても隼人には勝てない。
心のどこかで、ずっとそう諦めていた。
『あなたは、そのままでいいのよ』
そう言ってくれたのが、梨夏だった。
猫と共に助けられたあの夏から、梨夏とは親しくなった。
美人なのに酒豪で豪傑で、姉というよりは頼れる理想の兄貴分のような人だった。
俺が梨夏に惹かれたのは、ごく自然なことだった。
だからこそ、彼女が隼人の婚約者だと後から知ったとき、俺は声を荒らげて問い詰めた。
『俺が隼人の弟だと知ってて……だから、親切にしてくれたのか?』
『あら、知ってたら何なの?』
行き場のない俺の感情を、梨夏はあっさりと言い放って受け流した。
『隼人の弟として接したことなんて一度もないわ。圭人は圭人じゃないの』
梨夏は「バカね」と言って笑った。
はじめて自分という人間を肯定してくれた女性は、俺のコンプレックスの塊である隼人を愛している。
どうしようもない矛盾。
だけど、梨夏が幸せならそれでいい。
そう願ったはずなのに、隼人は別の女性を選んだ。
――そして、今日。
『お前は昔から、俺のお下がりがお似合いだよ』
兄の冷たい言葉が、頭の中で何度も反響して離れなかった。
店内に流れる控えめなジャズの旋律さえ、今は俺を嘲笑っているかのように聞こえた。
「ケイ」
ソラは俺の肩に頭を預け、いたずらっぽく笑った。
「僕も梨夏さんのこと、好きだよ」
「そ、そうか」
「夜の仕事をしていると、たくさんキレイな女性と会うけど、心までキレイな人はあんまりいない。梨夏さんは、いい匂いがする。圭人と同じで、一緒にいると心地が良い、そんな匂いなだ」
ソラの髪が頬をくすぐる。
「だからかな……。やっぱり妬けるね。今は僕がケイと一緒にいるのに、ケイの心には梨夏さんがいるんだね」
「そんなことない。梨夏は姉みたいなものだよ、恋愛じゃ…ない」
俺が隼人に勝てることなんて、なにもないのだから。
「美味しいコーヒーも淹れられる。常連さんは前のオーナーじゃない、今のケイに会いに来るんだ。優しくて、ちゃんと怒れる、人の痛みに鈍感ではない。素敵なことだよ」
ソラはチュッと音を立てて、俺の頬にキスをした。
「なっ……!」
「ケイは、そのままで大丈夫だよ」
その体温と言葉が、少しずつ心の奥に染みていく。
「僕にときめいた?このまま、いい感じになるのはどう?」
ソラが俺の膝に手を置いた。
「コラ!」
俺が軽く払いのけると、ソラは少し唇を尖らせて、しかし目はまっすぐ俺を見つめていた。
「梨夏さんは、お兄さんの元婚約者。なるほどね。だから、ケイは梨夏さんを『好き』なんじゃなくて、『好きになったらいけない相手』と思っているわけだ」
「それは――」
「本当のところ、梨夏さんと寝たことあるんじゃない?ね、どんなだった?」
「ど、どうって……、何もないよ」
心の奥にしまい込んでいた、夜の記憶の欠片が散らつく。
「あやしい」
ソラがジロリと俺を睨んだ。そのとき、カランカラン、とドアのベルが鳴った。
「いらっしゃいませ!」
反射的に体が跳ね上がる。
俺は慌てて顔の熱を冷まし、客に笑顔を向けた。
ソラも一瞬で、いつもの猫のような無邪気な表情に戻り、客の方を向く。
「ご注文をどうぞ。ほろ苦いコーヒーなんてどうですか?」




