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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第四十四話 吾、思う故に

 安政六年六月。

 江戸の夕べは、土佐の夕べより音が多い。


 藩邸の奥へ入れば、たしかに静かではある。けれど、その静けさの底を、町のざわめきが絶えず薄く流れてゆく。車のきしる音、荷を下ろす掛け声、どこかで戸を立てる響き、名も知らぬ町人の笑い声までが、障子の向こうで細く重なっては消えた。高知の城下では、夜が近づけば音もまた地へ伏した。江戸は違う。人の気配だけが、いつまでも闇の向こうへ続いている。


 その日、藤兵衛は夕刻になって奥の一間へ呼ばれた。


 呼びに来た小者は、用向きを何も言わなかった。だが、言われずとも心当たりはあった。

 ここ数日の藩邸は、ふだんの忙しさとは別の張りを帯びていた。将軍継嗣のこと、条約のこと、批准使節のこと、公儀の船のこと。長崎筋から入る報も、江戸城から回る内々の沙汰も、ことごとく同じ方角へ流れ込んでいるように見えた。


 しかも今度の使節は、亜米利加アメリカへ渡って終いではないという。

 阿蘭陀オランダからも批准使節の強い要請があった――そんな話が、帳場の脇や廊の曲がり角で、声を潜めて行き交っていた。亜米利加まででも気が遠くなるのに、その先なお欧州まで道が伸びるというのなら、もはやただの渡海ではない。人の名も、船の名も、日ノ本の面目も、そのまま海の向こうへ持ち出される、ということになる。


 東洋が、なお江戸に留め置かれていることも、藤兵衛には重かった。

 藩の中枢を担う参政として、本来なら容堂の江戸での勤めが済めば、ともに土佐へ戻るべき時にも、東洋は戻らず、この町に置かれている。容堂の差配であることは分かる。だが、その差配の底に何があるかまでは、藤兵衛にも見通せぬ。分かるのはただ、東洋がここにいるという事実が、藩のうちでまだ何か終わっていないことを示している、ということだけであった。


 廊を行き、名を告げ、襖の前に膝を折る。聞きなれた声が中から返った。


「入れ」


 短い。

 いつも通りである。

 それだけで、かえって胸の内が静まった。


 襖を開けると、座敷には東洋一人であった。

 灯はまだ入っていない。障子の一枚が少しだけ開けられ、そこから差し込む夕方の光が、畳の上へ細長く落ちている。机の上には書付が二通ほど重ねられ、硯の墨はまだ乾いていない。東洋はそれらの脇に座し、脇息にもたれず、ただ静かにこちらを見ていた。


 藤兵衛が頭を下げると、東洋は軽く顎を引いた。


「座れ」


 それだけであった。藤兵衛は勧められるままに座した。


 しばし、何も言葉がなかった。

 沈黙が気詰まりではないのは、相手が東洋だからである。言葉を探すために黙るのではない。先に要らぬものを落とし、残ったものだけを口にするために黙る。だから待つ方にも、妙な焦れは起こらなかった。


 やがて、東洋は机上の書付へ指を置く。


「批准使節の筋、ほぼ定まった」


 藤兵衛は黙って聞いた。


「公儀の側の顔ぶれは揃うた。海の差配をする者もおる。ただ、条約批准の名目は亜米利加で終わる気配は薄い」


 そこで東洋は、机上の書付を軽く指で叩いた。


「阿蘭陀が、使節を自国へも寄せよ、船も見せよ、とな」


 藤兵衛は、わずかに目を上げた。理のない話ではなかった。

 浦戸の世さ来いで鳴龍丸が走った日から、特許の密約が立ち、長崎で材が動き、舟渠へ器械が沈み、名の出ぬところで手を貸してきたのは彼らである。国の命運を賭ける技術を生み出した土佐が、さらに新たな船を起こして大洋へ出るとなれば、自分たちの港へも寄せよと望むのは、礼や好奇ばかりではあるまい。


 その目には、いま起ころうとしている一艘が、鳴龍丸の延長ではなく、その先にあるものとして映っているのだろうと、藤兵衛は思った。


「阿蘭陀があそこまで強う寄せてくるわけは、公儀にも見えておるまい。じゃが、長崎伝習以来、船のこととなれば阿蘭陀の顔を立てぬわけにもいかん。ゆえに、この筋は断れんろう」


 東洋の声は静かであった。


英吉利イギリス仏蘭西フランスも黙ってはおらん」


 東洋は続けた。


「日ノ本の使節が阿蘭陀まで来て、しかも新しい舟を伴うとなれば、自国へも寄せよと望むは当たり前じゃ。ゆえに、道は西へ伸びる」


 その一言は、海の距離より重かった。

 浦賀を出て太平洋。亜米利加。さらにその先。紙の上なら一本の線で済む。だが、人の身で渡れば、その線は涯てしない。


 東洋は続けた。


「土佐より差し出すべき人を示せと、大老より指図があった」


 藤兵衛は、膝の上の手をわずかに握った。

 海の向こうの異国の話を聞くたび、胸の底では別の「異」が先に身じろぎしていた。異人とて同じ“人”である。三ツ目の鳥人、巨躯の竜人、喋る海豚いるかの賢者。二つの太陽、現世へ帰るために登った、白亜の塔の石段――あの楽園とも牢獄ともつかぬ地に比べれば、異国はなお人の世の内にある。

 ただ異界を知る身にとって、「異国へ赴く」という言葉は、ただ遠い国へ渡るという以上の重みを持つ。


「おんしは、土佐の顔として出す」


 短い一言であった。

 それ以上の飾りは、東洋には要らぬ。


 藤兵衛は深く頭を下げた。いずれ自分の名がそこへ載ることは、とうに分かっていた。だが、分かっていることと、実際に口に出されることとは違う。


「――覚悟はできておったか」


 東洋が言った。


「覚悟、とはまた少し違いまする」


 藤兵衛は少し考えてから答えた。


「まだ腹へは落ち切っておりませぬ。ただ、逃れられぬ筋であることは分かります」


 東洋の口元が、わずかに動いた。

 笑ったというほどでもない。けれど、その答えに嘘がないことは認めた顔であった。


「逃れられぬ、か。そうじゃろうの」


 そこで東洋は、ふと視線を障子の外へ向けた。

 夕の光が少し弱まり、庭の緑がひときわ深く見える。


「思えば、あれが始まりじゃった」


 唐突なようでいて、藤兵衛には何のことかすぐ分かった。

 浦戸である。


 あの日の海の色まで、胸の奥へ戻った。

 日差し。潮の匂い。人いきれ。

 本木昌造が持ち込んだ蒸気船の雛形が、波止場の近くで皆に囲まれていた日のことだ。小さな船が火と水の理で走る。それだけでその場は十分にざわめいていた。多くの者は珍しさを見た。異国の技を見た。だが、治郎兵衛も藤兵衛も、その珍しさの先へ目が行っていた。


「昌造の雛形が水を切った時、皆、異国の船じゃ、で済んだ」


 東洋の声は低かった。


「だが、おんしと治郎兵衛だけは違う目をしておった」


 藤兵衛は黙っていた。


「どうしたらこの国の海で生きるか。どこを替え、どう渡し、どう重さを逃がすか。浦戸で口に出たものが形になり、土佐を、公儀を、朝廷を動かし、ここまで伸びた」


 たしかにそうであった。あの日は雛形に驚いた。だが、驚いて終わりはせなんだ。治郎兵衛が双胴にした時の渡し方を言い、藤兵衛は積みと重さの置き所を口にした。そこへ東洋が耳を傾け、容堂は面白げに笑いながらも、藤兵衛からだけは目を外さなかった。

 浦戸の波止で口に出たものが、細いながらも切れずに、ここまで伸びてきたのだ。


 東洋は、それ以上多くを語らなかった。

 ただ机の上の紙を一枚引き寄せ、硯の脇に置かれていた筆を取りながら言った。


「藤兵衛。ただ――今のままでは足りん」


 藤兵衛は、墨が含まれる、その筆先を見ていた。

 東洋の指は急がない。けれど、少しの迷いも見えなかった。


 一画。紙の上へ、筆が落ちた。次いで、ゆるく、しかしためらいなく運ばれる筆先。

 夕方の薄い光の中で、墨の黒だけがひどく深く見える。


 最後の払いが止まった時、東洋は筆を置いた。書き上がった一字を、机ごしに藤兵衛の方へ向ける。


 『吾』


 藤兵衛は息を呑んだ。


 われ

 その一字が、ただの文字には見えなかった。

 誰かの後ろに付く者の字ではない。誰かの兵として列に並ぶ字でもない。

 自ら立ち、自ら応える者の影が、その一字の中に立っていた。


 そして、その黒が目へ入った瞬間、胸の奥で別の白さがひらいた。


 江戸の座敷は消えぬ。

 だが、その上へ、もう一つの光景が重なる。

 白い石段。青く澄んだ空気。胸の奥まで冴え返るような高さ。

 中央監理塔リオアンハール

 魂の試練レザ・シンブク

 禍の記憶バラ・クーヴァの前へ向かっていた時の、自分の足の重さが、唐突に膝の裏へ戻ってきた。


 ――ようこそ、日の昇る高みへ。再び歓迎しよう。強き武士もののふよ。


 あの声。

 あの白。

 あの時、自分は「戻る」ために立った。

 楽園の記憶へ呑まれず、人の世へ帰るために、己の名と意志を握り締めて、あの石段を登った。


 異界の仲間たちの顔がよぎる。

 水底の都。光を宿した塔。滅びを抱いた者たちの静かな眼差し。

 あの世界で、自分は何を捨て、何を持ち帰ったのか。

 すべてを言葉にすることはできぬ。だが、あの時確かに、自分は「誰かの後ろに従うため」ではなく、「己で選んで帰るため」に立ったのだ。


 その記憶の上へ、いま東洋の書いた一字が重なる。


 吾。


 戻るために要ったもの。

 これから出るために要るもの。

 それが同じ字のうちへ収まっているように思えた。


 江戸の座敷へ意識が戻った時、新しい名はまだ空気の中に残っていた。

 藤兵衛は、まだその字から目を離せなかった。


 東洋が、静かに言った。


ふじは、絡みつき、離れず、伸びてゆく。断ち切らずに今へ繋いできた“えにし”じゃ」


 その一言は、思いがけぬほど深く胸へ入った。

 藤兵衛という名。異界から帰った日から、浦戸で模型を見た日から、舟渠の縁に立ち続けた日々まで、己の名の意味など考えたこともなかった。


「名を改めよ」


 東洋の声は変わらなかった。


「これからは、縁を繋ぎ、われを持つ者として」


 紙の上の一字が、夕の光の中でわずかに艶を返す。

 藤兵衛は、それを見つめたまま、ようやく声にした。


「……藤吾とうご


「うむ」


「藤、吾」


 東洋は頷いた。


「それでよい」


 短い言葉であった。

 だが、その短さで十分であった。

 理屈はもう、その一字に書かれている。


 藤兵衛は、深く頭を下げた。


「――拝命つかまつります」


 その一音で、名はもう戻らぬところへ置かれた。

 身体にはまだ馴染み切らない。だが、その馴染まぬところがむしろよかった。名の方が先に半歩だけ前へ出て、自分を急かしている。これまでの名なら、もう少し後ろへ控えていられた。藤吾には、それが許されぬ。


 しばらく、二人とも黙っていた。

 東洋は書付へ目を落とし、藤兵衛は自分の膝の上を見ていた。


 やがて東洋が言った。


「治郎兵衛も“橘治きつじ”と名を変えたそうじゃ」


「……はい。主馬かずま殿の名づけと、聞いております」


 藤兵衛は少し考えてから続けた。


「橘治どのは、 “名”を越えて、立ちました。藤吾は、“己”をもって立ちましょう」


 東洋は、ほんのわずかだけ笑った。障子の外へ目をやり、雨の気配を含んだ庭の暗がりをひとしきり見てから、静かに続ける。


「江戸を発てば、もうその名じゃ」


 東洋が最後にそう言った。


 藤兵衛はもう一度だけ、深く頭を下げた。


 部屋を辞して廊へ出ると、夕空はもうほとんど暮れていた。

 雨を含んだ雲の向こうに、見えぬ海がある。浦賀を出れば太平洋。その先にアメリカがあり、なおその先にはオランダがあり、イギリスがあり、フランスがある。


 人はまだ、そのすべてを一つの道とは思い描けない。

 けれど、その道はすでに紙の上へ引かれ、船の骨へ組まれ、人の名の中にまで入り始めていた。


 藤兵衛は、濡れた庭をしばらく見ていた。

 新しい名は、重いとも軽いとも言えなかった。ただ、その名だけが一足先に海の方を向き、まだ追いつかぬ身を黙って促しているように思われた。


 遠く、町のどこかで槌の音がひとつ鳴った。

 それはまだ出航の音ではない。

 だが確かに、海の方へ向かう音であった。



【史実解説】幕末の改名・通称・名乗り

現代の感覚だと、人の名前は「姓と名」で一つに定まっているものですが、江戸時代の武士はそうではありませんでした。本姓、苗字、諱、通称、官途名など、複数の名を持ち、場面や立場によって使い分けていました。


とくに大事なのは、いみなと通称の違いです。諱は正式な実名ですが、日常で気軽に呼ぶ名ではなく、慎重に扱われるものでした。一方、通称は日常的に呼ばれる名で、私たちが幕末人物としてよく親しんでいる呼び名の中にも、この通称にあたるものが少なくありません。


また、名前は一生変わらないものでもありませんでした。家督相続、元服、主君との関係、立場の変化、人生の節目などによって改名が行われることがありました。つまり武士にとって名を改めるとは、ただ響きを変えることではなく、「これからどういう者として立つのか」を世に示すことでもあったのだと思います。


明治に入ると事情は大きく変わります。壬申戸籍の制定によって、人は苗字を一つ、名を一つ定めて届け出ることになり、それまで複数あった名前のうち、どれを「本当の名」として残すかを選ぶ時代になりました。つまり幕末というのは、まだ武士の名が複数の層を持ち、立場や役目に応じて動いていた最後の時代でもあります。


本作で「藤吾」という名を立てたのも、単なる通称変更ではなく、藤兵衛が“土佐の顔として海の向こうへ出る者”になる、その節目として描いています。幕末の武士にとって、名を改めるとは、自分の在り様そのものを一つ前へ押し出すことでもあったのだろうと思います。

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