第三十七話 火と荷と銭
翌朝、坂本竜馬が顔を出した時、借家はもう半分ほど「会所の顔」になりかけていた。
土間には、まだ荷の一つも入っていない。だが、帳場にするであろう一間には机の位置が決まり、裏手の小庭には空の樽や箱を置いた時の導線まで、すでに見えている。表の間口は広くない。むしろ狭い。ところが裏へ回ると、細いながらも荷車が通れそうな引き戸がある。
朝倉惣兵衛は、その裏戸の敷居に屈み、木の傷み具合を見ていた。
「どうながじゃ」
竜馬が声をかけると、惣兵衛は顔を上げた。
「表はこれでよろしいかと。広すぎれば目立ちますき」
「裏は」
「裏の方が肝でございます。荷は人目を避けて入れられる。表は客、裏は荷――そう分けられます」
言いながら、惣兵衛は立ち上がって、座敷の方へ顎を振った。
「帳場はあちらでようございますろう。表から見えすぎず、裏の出入りも聞こえる。蔵は借り物で足ります。最初は持たぬ方が軽い」
竜馬は、貸本屋の亭主の言った「品より先に、時勢の匂いを売る男」を思い出した。
惣兵衛は匂いを売る男ではない。だが、こちらはもっと着実だ。物を置く前に、物の通る順を整えている。
「兄上なら」と惣兵衛が言った。「まず荷の置き場やのうて、出入りの順を見ますろう」
竜馬は、ふっと笑った。
「おまんら兄弟は、よう似いちゅうのう」
「私はまだ、似ようとしておるだけでございます」
惣兵衛の答えには衒いがなかった。
竜馬はその借家をもう一度ぐるりと見た。昨日まで、自分は火薬をどこで買うかばかり考えていた。だが、惣兵衛はもう、その火がどこから入り、どこで姿を変え、どこへ出るかを見ている。
主計の言った「店は逃げぬ。火の筋は逃げる」が、今さらのように腹へ落ちた。
「わしは中居屋へ行く」
「はい。こちらは私が見ます」
「口の堅い手代を二、三人、暫時見つけよ。荷が入る前に、人の順を整えんといかん」
「承知しました」
竜馬は頷き、借家を出た。
朝の日本橋はもう動いている。昨日はただ広いばかりに見えた町が、今朝はそれぞれ違う速さで流れているように見えた。急ぐ荷、急がぬ客、立ち止まって様子を見る番頭、道の隅で口を利く人足。誰も彼も、同じ町を歩いているのに、見ている順が違う。
中居屋重兵衛――撰之助の言う「筋」とは、きっとこういうものなのだろう。
◆
中居屋を訪ねると、撰之助は今日はすぐに奥へ通した。
「お早いことで」
昨日と同じ柔らかな声である。だが、今日は最初から竜馬の顔色を測っているのが分かった。
「昨日の続きを聞きに来たがじゃ」
「続きを聞くために、まず町を歩いてみられましたか」
「歩いた。歩いて、ようやく分かったぜよ」
竜馬は座につくなり言った。
「火薬を一山買うゆう考えが、そもそも間違うちょった」
撰之助の目が、ほんの少しだけ細くなった。
「完成した火薬を四十貫目も一口で動かいたら、そりゃ御用になる。買うのではのうて、割らないかんがじゃ」
撰之助は、そこで初めて笑った。
「結構でございます」
そして静かに指を折る。
「硝石。硫黄。炭。それに見本となる仕上げ火を少々。そう分けて動かせば、火薬としての形は見せずに済む」
「江戸で仕上げる必要はない」
「ございません。むしろしてはならぬ。仕上げは土佐でなさい。江戸で一つにした時分に、御用の口になります」
竜馬は身を乗り出した。
「硝石は」
「薬種の顔で通る。硫黄はもっと楽です。炭は荷に埋もれる。問題は、それぞれを別の荷として通し、しかる後に同じ場所へ着けることです」
「その“着ける”筋が要る」
「ようやくそこまで来られましたか」
撰之助は、帳場の上へ指先で小さく三つの点を打った。
「火だけを欲しがる者は三流です。火を荷に化かせる者が二流。その荷を勘定へ化かせる者が一流」
「ほいたら、わしはまだ三流か」
「昨日までは」
さらりと答えられ、竜馬は苦笑した。
「今日は?」
「二流の入口、というところでしょうか」
撰之助は、そこで紙を一枚引いた。名を書かない。場所も書かない。ただ、指で一つの点を押す。
「荷の理は、こちらで聞くのが早い。小野組の番頭筋です。名はわたしから通します」
「小野組……」
「火薬に関心は示しません。示すのは、荷として通るかどうかだけ。つまり、いちばん手強い相手です」
竜馬は立ち上がった。
「望むところじゃ」
「いえ」
撰之助はそこで軽く笑った。
「たぶん、叩き出される方が先でしょう」
◆
小野組の番頭は、竜馬の顔を見るなり、いかにも面倒だという顔をした。
町人の番頭は、武家にへつらう者ばかりではない。こと荷の出入りを握る者になると、相手が大名でも、荷にならぬ話は荷にならぬ顔で聞く。
「で、何を通したいと仰るので」
小広い座敷の帳場で、番頭は最初から帳面の上に手を置いたまま言った。
竜馬は、撰之助の教えた通り、火薬とは言わぬ。
硝石、硫黄、炭。その三つを、それぞれ別の荷として土佐へ送りたい、とだけ言った。
番頭の眉が、ほんの少しだけ動く。
「硫黄はどこ筋から」
「薩摩筋も見えるが、江戸で寄る分を先に割りたい」
「硝石は」
「薬種の口を借りる。まとめぬ」
「炭は」
「荷に紛らす」
番頭はそこで、ようやく竜馬の顔を見た。
「それを、どこで一つにするおつもりで」
「土佐で」
「どこへ入れる」
「宿毛を本筋に、浦戸は避けたい」
「なぜ」
「浦戸は官用が先に立つ。混ぜれば詰まる」
その答えに、番頭の手が帳面の上で止まった。
「ほう」
竜馬は、そこでさらに言葉を継いだ。
「一荷で通しゃ目立つ。三つに割って、時も口も変える。江戸では火にせず、土佐で仕上げる。そうすりゃ、これは火薬の荷やない。まだ“火になる前の荷”じゃ」
番頭は黙った。
それから、初めて口元をわずかに歪めた。
「なるほど。お侍の割に、ようやく“買う話”から“運ぶ話”になってきた」
竜馬は、それを褒め言葉と受け取った。
だが番頭は、すぐに容赦なく続ける。
「しかし、荷は理だけでは動きません。誰が代を立てる。誰が損を飲む。何より、名目をどうする」
「名目……」
「そうです。帳面の上に、何として立つか。荷には顔がいる」
そこまで詰められて、竜馬は初めて、火薬の筋には火と荷だけでは足りないのだと知った。帳面の上でそれが何として立つか、どの金で動くか、そこまで決まらねば荷は荷にならぬ。
番頭は、最後にこう言った。
「小野は荷の理は見ます。だが、銭の理は別です。次へ行きなさい。三井でございます」
◆
三井の番頭は、小野よりも表情を動かさなかった。
竜馬の話を、始めから終いまでほとんど顔色を変えず聞き、ただ要所だけを切った。
「誰名義で立てます」
「新世社の江戸会所にて――」
「まだ看板も上がっていない」
ぴしゃりと切られる。
「では、土佐藩の名で?」
「御公儀に悟られぬ話に、藩の名を立ててどうします」
竜馬は、ここでようやく、この男が撰之助や小野組の番頭よりもさらに容赦なく、金の安全だけを見ているのだと分かった。
「返しは何で立てます」
「返し……」
「金を立てる以上、返ってくる道が要ります。火薬そのものでは返せぬ。では、その先に何がある」
そこで竜馬は、昨日から今日にかけてのすべてを、初めて一本にした。
鳴龍丸の速さ。
宿毛という通す港。
江戸会所。
万条砲の量産。
そして、その先にできる新しい荷筋。
「土佐は、ただ火薬を欲しがっちゅうがやない」
自分でも驚くほど、声が落ち着いていた。
「遅れぬ船を持っちゅう。遅れぬ港を作ろうとしゆう。火が要るがは、その筋を守るためじゃ。守れたら、次は荷が動く。江戸と大坂、土佐と長崎、その間に遅れぬ口が立つ」
番頭は初めて、竜馬の顔を真っ直ぐに見た。
「つまり」
「今回の銭は、火薬に使うがやない。その先の筋へ打つ先金じゃ」
座が静かになった。
しばらくして、番頭は言った。
「全面には立てませぬ」
「分かっちゅう」
「小口に割る。名目も割る。小野を通る分に限る。最初は一度きりの試し」
「それで足りる」
「足るかどうかは、そちらで決めることです」
その冷たさが、かえってありがたかった。
三井は味方ではない。だが、利に乗るだけの算段が見えれば、手を貸す。
町というのは、こういうものか、と竜馬は思った。
◆
夕刻、竜馬はもう一度、中居屋へ戻った。
撰之助は、顔を見るなり昨日と同じように微笑した。
「さて、今日はどの辺りまで」
竜馬は座るなり言った。
「硝石は薬種、硫黄は別口、炭は荷へ紛らす。江戸で一つにせん。土佐で仕上げる。小野が荷の筋を見る。三井が小口の立替を呑んだ」
撰之助は、その間一度も口を挟まなかった。
聞き終えてから、静かに茶碗を置く。
「昨日の貴方は、火薬を買いに来ておりました。今日の貴方は、火を土佐へ渡しに来ている」
その言葉で、竜馬はようやく自分が何を掴んだかを知った。
撰之助は続ける。
「見本となる仕上げ火は、こちらで少量出しましょう。あとは原料で通す。貴方が持って帰るべきは品ではなく、順です」
「順……」
「火の順、荷の順、銭の順。その三つが揃えば、品は後からついて来る」
竜馬は、深く息をついた。
主計の言葉も、惣兵衛の見立ても、藤兵衛や主馬が整えている土佐の港も、ようやく一本へ繋がった気がした。
「江戸は広いと思うちょった」
思わず、そう漏れた。
「だが、広いがやないのう」
撰之助は、かすかに笑った。
「皆、口と順でつながっております」
そこで初めて真っ直ぐに竜馬を見た。
「新世社――ようございます。その名で江戸口を立てるおつもりなら、こちらも今後、筋の立つ限りはお取り引きいたしましょう」
竜馬の眉が、わずかに上がる。にかっと、人懐っこく笑った。
「そりゃあ、ありがたい。わしらは新しき世を作るがじゃ。これからもよろしゅう頼むぜよ!」
その破顔に、撰之助は胸中に一陣の風が吹いたような震えを覚えた。目の前の若者は、今まで出会ったどの武士よりも武士らしくなく、そして誰よりも、人を動かす匂いを持っていた。
「……貴方には、人を惹きつける不可思議な才があるようです。商いは、面白い筋と組むのがいちばん利になります」
撰之助は、静かに言った。
「わたしが見たのは、新世社という名ではありません。新しき世を、商いになる筋へ変えてゆく貴方の手つきです」
◆
その夜、竜馬は借家の一間で、まだ何も置かれていない帳場の机に向かっていた。
表では、惣兵衛が手代と何やら話している声がする。会所は整い始めている。
竜馬は、土佐へ返すための書付に筆を置いた。
火薬は一口で買うにあらず、割って通すべきこと。
江戸には火・荷・銭の三口あり、それを一つに束ねれば筋となること。
江戸会所は惣兵衛に任せて差し支えなく、自分はその筋を押さえたこと。
書き終えて筆を置く。
火薬は、まだ一粒も浦戸へ着いてはいない。
だが竜馬は、ようやく“火を買う”のではなく、“火を土佐へ渡す”道の形を見た気がしていた。
江戸へ初めて出た頃の己なら、ただ目新しいものに胸を躍らせていただろう。
異国船が来たと聞けば、朝餉も食わずに駆けつけ、見たこともない世界の匂いに、ただ心ばかり先へ飛ばしていた。
それが今は違う。
速い船を見れば、その先に何が動くかを思う。
荷を見れば、その後ろの港を思う。
銭を見れば、その勘定がどこで政へ触れるかを思う。
ふと、藤兵衛の顔が浮かんだ。
あの夜、己の知らぬほど広い異界を胸の内に抱えながら、それでも静かに前を見ていた男。
あの人に比べれば、まだ自分は小さい。
じゃが、小さいままで終わるつもりはない。
わしはもっと大きい男になりたい。
かつて口にしたその願いは、今ようやく、剣や名ではなく、筋を通し、人を繋ぎ、国の流れを動かすことなのだと分かり始めていた。
その時、胸の底に、藤兵衛と出会った、あの日の言葉がふっと蘇った。
――異国の竜馬に等しく、千里の外に轟きたれば
まだ遠い。
だが、ただ見上げるだけでは終わらぬ。
千里の外へ通じる道もまた、こうして一つずつ口と順を通して開いていくのだと、今夜の竜馬には思えた。
表の戸が開き、夜気がひと筋入り込んだ。惣兵衛が何事かを言い、手代が応じる。外では、江戸の町がまだ黙って動いている。
その流れの底で、火と荷と銭が、見えぬ順に従ってつながり始めていた。
竜馬は灯の下で静かに書付を畳み、明日の方へ目を上げた。
【史実解説】小野組と三井――幕末商人の役割
本話では、小野組を「荷の理を見る商人」、三井を「銭の理を見る商人」として描きました。もちろん、これは物語として分かりやすく整理した面があります。
史実では、三井も小野組も、ともに金融と為替に深く関わった富商で、明治初年には島田組と並んで新政府の為替方を務め、のちに三井小野組合銀行、さらに第一国立銀行へつながっていきます。ですから、史実そのままに言えば、「小野は荷だけ、三井は銭だけ」ときれいに割り切れるわけではありません。
ただ、そのうえで両者の“重みのかかり方”には違いがありました。三井は、越後屋呉服店と両替店を二本柱として発展した家で、幕末になると在地商人の台頭や諸藩の専売制の影響もあって、経営の重点をしだいに呉服より両替・金融へ移していったとされます。つまり三井は、もともと商品を売る商人でありながら、幕末・維新を越えるころには、より強く金・為替・信用の側へ比重を移していたわけです。
一方の小野組は、維新後に新政府の為替方として公金の収支を扱いながら、そこにとどまらず、生糸取引、製糸場経営、さらに東北各地の鉱山経営へも手を広げていきました。つまり小野組は、金融の力を持ちながら、それをより直接に物流・産業・現物の世界へ押し出していく商人でもあったのです。
参考史料:『三井文庫所蔵史料』、『三井文庫所蔵史料』




