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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第三十六話 砲薬新書

 雨は、いきなり来た。


 秋の江戸には珍しくもない、夕刻前の通り雨である。だが、それまで乾いていた石畳へ叩きつけるように落ちてきたものだから、往来の人足も手代も、みな一度足を乱した。


 坂本竜馬も、その一人であった。


「こらかなわん」


 言うた時には、もう肩口から襟まで濡れている。

 着流しの袖を払う暇もなく、竜馬は道の脇に見えた軒へ駆け込んだ。板の看板には、古びた墨で「貸本」とある。二度の江戸修行の折にも、たしか何度か顔を出した覚えのある店だった。


 土間の端で息をつき、手拭いで顔を拭う。雨脚はなお強い。表を見れば、通りの向こうが白く煙っていた。


「まっこと、主計かずえ様も和破わや用題ようだいを言いなさるもんよ……」


 誰へともなく、そう愚痴が漏れた。

 店の奥で帳場にいた亭主が、ちらと顔を上げたが、よそ者の独り言と見たのか、何も言わぬ。


 竜馬は、濡れた前髪をかき上げながら、軒先から落ちる雨を見た。


 安政四年九月二十四日――江戸へ着いてまだ幾日も経っていない。

 新世社江戸会所の看板は、まだ上がっていない。上がっていないどころか、肝心の探索方たる自分が、店の縄もほどかぬうちから町へ出ている。


 だが、殖産総監家老・五藤ごとう主計かずえから渡された役目を思えば、帳面の前にじっと座ってはいられなかった。




 あれは、江戸へ着いて二日目のことである。


 土佐藩江戸屋敷の長屋門をくぐった時、竜馬の頭にあったのは、まず新世社の江戸会所をどこへ置くか、という話だった。屋敷近くに借家を取るか、蔵を先に押さえるか、帳場を幾つ置くか。そういう段取りなら、竜馬にも見当がつく。二度の江戸修行で、道場筋にも船宿筋にも顔がある。どこへ看板を出せば、どの口が寄るかくらいは、薄々分かっているつもりでいた。


 だから、屋敷へ通された時も、てっきりその相談から始まるものと思っていた。


 ところが、座敷にいた主計は、竜馬の顔を見るなり、いきなり別のことを言った。


「店探しは、そなたがやらずともよい」


 竜馬は、思わず目をしばたたいた。


「はあ……?」


「藤兵衛の弟を付ける。朝倉惣兵衛じゃ。あれは浦戸でも荷と人の出入りを見てきた。江戸でも、借家と蔵の口を押さえるには向いておる」


 惣兵衛の名が出て、竜馬はようやく合点した。

 たしかに、あれは裏方の段取りに向いている。若いが、物の流れを人の都合より順で見る癖がある。


 だが、それでも腑に落ちなかった。


「ほいたら、わしは何をやるがです」


 そこで初めて、主計が顔を上げた。


「火薬じゃ」


 低い、いつもの声であった。


 竜馬は、しばし言葉を失った。

 江戸詰探索方に回されること自体は、薄々分かっていた。だが、いきなり火薬と言われるとは思わなかったのである。


「火薬……にございますか」


「万が改めた砲を、試しの一基で終わらせる気はない」


 万条ばんじょう砲――細川万こと万象が、砲身の施条から弾、装薬、照準まで組み直した新しい砲。世さ来いの折、鳴龍丸の披見でそれが見せた精密さは、竜馬も海の上で見ている。十町向こうの的へ、ただ届くだけではない、狙って外さぬよう作られた砲であった。


 だが、主計はその名誉も見映えも語らなかった。


「砲は、一基なら誤魔化せる。石立の鋳所も、職人も、万の手も、一基だけならどうとでもなる。じゃが、数にするとなれば違う。詰まるがは筒やない。火薬じゃ」


「丸玉砲用の火では足らん、ということですろうか」


「足らん。粒を揃え、湿りを避け、燃えのぶれを減らさねばならぬ。同じ砲を鋳ても、同じ火が入らねば、ただの重い筒に戻る」


 そこまで聞けば、竜馬にも用の重さは分かった。

 火薬が要ることは誰でも言える。だが“まとまった量”で、“質を揃えて”となれば話は別だ。猟や花火や旧式砲の補いではない。しかも今の世にあって、火薬は商品であると同時に、半ば政治でもある。


 主計は、声をいっそう低くした。


「公儀に悟られず、まとまった量を押さえよ」


「まとまったち、どれくらいながです」


「試射・調練・備蓄を合わせれば、四十貫目(150kg)では利かぬ」


 竜馬は思わず素に返った。


「関ヶ原でもおっぱじめるがですか。そんな量を江戸の表で探しよったら、三日と経たんうちに足がつきますろう」


「じゃきに、そなたをやる」


 主計は、竜馬の顔から目を外さぬ。


「探すがは火薬だけではない。そういう品が、誰の手で、どう隠れて動くか。その筋ごと見て来い。江戸詰探索方とは、そういう役目じゃ」


 まずは会所を整え、看板を掛け、江戸で口を作る――そのつもりでいた竜馬は、そこでようやく気づいた。主計が自分にやらせたいのは、店の表ではない。店へ何を流し込めるか、その最も危うい筋を押さえることなのだ。


「店は逃げぬ。火の筋は逃げる」


 その一言が、妙に重く胸に残った。




 江戸へ入ってから、竜馬はまず正攻法で当たった。二度の修行で覚えた顔から辿るのが、一番早いと思ったからだ。


 最初に向かったのは、千葉道場であった。


 門をくぐれば、竹刀の当たる乾いた音が昔と変わらぬ調子で響いている。庭の砂の匂い、汗の匂い、門弟たちの荒い息。

 そこから出てきた千葉重太郎は、竜馬の顔を見るなり笑った。


「おう、坂本。やっぱり江戸へ戻ってきたか」


「ご無沙汰しちょります」


「先生はよせ。おめえがそう言うと、こっちまで年寄りじみちまう」


 通された座敷で、重太郎はやがて本題を聞いた。


「で、何を探してる」


 竜馬は少し声を落とした。


「火薬にございます」


 それだけで、座の空気が半歩変わった。

 門弟の一人が笑いかけた口を閉じ、重太郎は茶碗を置いた。


「猟の分かい、花火の分かい」


「そんな可愛い量ではないがです」


 重太郎はすぐには返さなかった。やがて低く言った。


「坂本。量を口にした途端、用向きの半分は見える。江戸でその口ぶりじゃ、ちと早え」


 さらに、講武所の砲術稽古へも顔を出す門弟を呼んで、砲術場や御用達筋の空気を探ったが、返ってきたのは似たような答えばかりだった。


「粗い火薬ならどこでもある」

「だが、粒を揃えろ、湿りを嫌えとなれば、何に使うと問われる」

「しかも量がまとまるなら、皆、まず役所の鼻を気にする」


 重太郎は最後にこう言った。


「江戸で先に打ち込む方が勝つのは、剣の話だ。今のおめえの用は違う。足を見せた時分に負けだ」


 次に竜馬は、本所の船宿へ足を向けた。修行の折にも、土佐から出入りする者の口はそこへ集まった。船頭は荷だけではなく、港の機嫌も相場も噂も運ぶ。


 だが、船宿の親父も首を振る。


「硫黄なら薩摩筋が早い時もある。じゃが今は目が多すぎる」


「硝石は?」


「寄るは寄る。だが、量を揃えて黙って抜くとなると、問屋より先に役所が嗅ぎつける」


「黒色火薬そのものは?」


「あるこたある。だが、おめえさんの欲しいのは、ただ燃えりゃ済む火じゃあるめえ」


 その一言が、主計の言葉と同じ重さで胸に落ちた。


 さらに竜馬は、昔世話になった筆墨問屋の番頭筋を辿り、本屋や蘭学者筋にも顔を出した。だが、どこへ行っても結果は同じだった。火薬はある。だが“質”と“量”の二つを同時に口にした途端、皆の顔が変わる。江戸では、火薬はもはや町人の品ではない。海防であり、騒擾であり、疑いそのものになっている。


 気がつけば、夕方近くなっていた。

 空が急に暗くなり、そして今、こうして貸本屋の軒先に追い込まれている。


「まっこと、和破な用題ぜよ……」


 そのまま雨音を聞いているうちに、気がつけば足が棚の方へ向いていた。気を逸らしたつもりでも、手は役目の方へ戻る。兵書。蘭書。海防。砲術。


 その中で、一冊の背表紙に目が留まった。


 『砲薬新書』


 竜馬は、その四字を見た瞬間、雨音を忘れた。

 引き抜く。紙は擦れている。だが、使われていない本の傷みではなく、読まれてきた本の傷み方だった。


 ぱらりと開く。硝石、硫黄、炭。粒の揃え、乾き、保存、燃えのぶれ。売り文句ではない。実際に火と付き合った者の言葉が並んでいる。


 そして著者名を見る。


 “中居なかい 撰之助せんのすけ


 竜馬は、その名を口の中で転がした。


「中居……撰之助」


 帳場の亭主が顔を上げた。


「おや、その本に目が留まるとは珍しい」


「この人は、どなたぜよ」


「本を書いた男さ。今は日本橋で中居屋重太郎と名乗ってる。薬も火薬も諸国物産も扱う。何が本業か、よう分からん」


「よう分からん、とは」


「品より先に、時勢の匂いを売る男だそうで」


 竜馬は、そこで本を閉じた。


「会えるろうか」


「会うだけならな。ただし、口はきいても腹は見せねえ男でね。あんたが何を欲しがってるかより、何を隠してるかを見た方が早え」


 竜馬は、ふっと笑った。


「そりゃ、わし向きかもしれん」


 亭主は鼻を鳴らした。


「向こうも、そう思ったら厄介だ」




 撰之助の店は、日本橋の表通りから少し入った所にあった。


 豪商の構えというほどではない。だが狭くもない。薬種箱が見え、乾物の匂いもする。帳場には諸国の荷札が混じり、奥には砲術具めいた金物までちらりと見えた。何の店か、一目では分からない。それが、かえって胡散臭い。


 竜馬が名を告げると、小者はあからさまに訝しんだ顔をした。

 ややあって、奥から一人の男が出てくる。目が落ち着いているようでいて、じつは落ち着いていない。客の顔、草履の泥、袖の傷み、腰の具合――入ってきた瞬間から全部見ていた。


 撰之助は、立ったまま竜馬をひと目見て言った。


「火薬なら、お譲りできません」


 竜馬は、思わず目を瞬いた。


「まだ何も申しておらんぜよ」


「申されなくても、お顔を見ればおおよそは分かります」


 その返しの早さに、竜馬はかえって笑ってしまった。


「ずいぶん気の早いお人じゃ」


「商いは、気の遅い者から損をいたします」


 撰之助は、そこでようやく腰を下ろした。


「ちなみに、どれほどお入り用で」


 竜馬も腰を下ろす。

 ここで少しでも小さく言えば終わる。逆に大きく言いすぎても終わる。


「まとまった量にございます」


「ですから、どれほどかと伺っております」


「店先で申せる量なら、他へ参っちょります」


 撰之助は、そこで初めてかすかに笑った。


「どちらの向きで」


「土佐表から、ちっくと頼まれごとを持って参った者です」


「藩の御用でございますか。それとも商いの筋で」


「その二つを、きっちり分けて済む用でもございません」


「それは、いちばん厄介なお顔だ」


 撰之助は、指先で帳場を二度叩いた。


「火薬は、品としてはございます。ですが、貴方のお口ぶりは、ただ品を求めておいでのようには聞こえません。粒を揃えたい、湿りを嫌う、燃えのぶれも困る――そういう火を、しかもまとまった量で、人目を避けて欲しいとおっしゃる」


 その目が、竜馬の顔から動かない。


「何にお使いで」


「売る気がないなら、聞いてどうするがじゃ」


「売る売らぬの前に、こちらも腹を決めたいので。相手が、火薬だけを欲しがるお方か、火薬の先まで見ておいでか――そこは見極めとうございます」


 そこで竜馬は、ようやく理解した。

 この男は品を商っているが、それ以上に“用向き”を嗅いでいる。


「おまん、ただの火薬商ではなさそうじゃの」


「貴方も、ただのお客ではありません。その言葉の端、腰の据わり方、何より量の見立てが町人のものではない。武家のお方でしょう」


 竜馬は、そこで初めて笑みを消した。


「さあ、どうじゃろう」


 撰之助は薄く笑った。


「土佐のお方であることは隠しておられない。隠しておいでなのは、その先でしょう」


 そして急に黙った。

 その目の奥で、何か別の記憶が動いたのが見えた。


「……品川で見ました」


「何をじゃ」


「土佐の蒸汽船です。川筋はずいぶん騒ぎました。黒船の真似だと笑う者もおりました。ですが、わたしは違うと思いました。船そのものより、あれが“何を早く運べるようになるか”――そちらの方が気になった」


 その目が、再び竜馬へ戻る。


「今度は火薬ですか。土佐は、船の次を始めましたね」


 竜馬は、そこで初めてわずかに口の端を上げた。


「船の次とは?」


 撰之助は、ゆっくりと背をもたせた。


「花火でも猟でもない。旧い丸玉砲の分でもない。船の次か、あるいは船と一つに働く何かか――そこまでで十分です」


 一拍。


「面白い」


「面白がられても困るき」


「いえ、困るのはこれからでしょう。銭で動く口があります。荷で動く口があります。火で動く口もある。貴方がお求めなのは、その最後の口なのでしょう。ですが、それだけでは足りません」


 竜馬は、黙って聞く。


「江戸でそれほどの量を、そのお顔でお探しになれば、すぐ足がつきます。店を一つ回れば済む話ではない。筋をご覧なさい。誰が金を出せるか。誰が荷を動かせるか。誰が、火薬の質と量を揃えてなお口を閉じていられるか」


 それから撰之助は、ほんの少しだけ笑った。


「貴方、そういう役目で江戸へ来られたのでしょう」


「撰之助殿は、売って下さるがか」


「今はまだ、お譲りしません。ですが、見てさしあげることはできます」


「何をじゃ」


「貴方の腹を、です」


 雨は、もう止んでいた。

 店先の灯が、湿った石に映っている。


「明日またおいでなさい。その前に、日本橋をもう少し歩いてごらんなさい。貴方の火が、銭に変わるのか、荷に変わるのか――町の顔を見て来ることです」


 竜馬は立ち上がった。礼をする。

 しかし戸口まで行ってから、振り返る。


「撰之助殿」


「何でしょう」


「おまんなら、あの船で何を一番先に運ぶがじゃ」


 撰之助は、かすかに笑った。


「見物していたのではありません。勘定に合うかどうか、見ていたのです」


 一拍。


「わたしなら、あの船で荷は運びません」


「……ほう」


「まず運ぶのは、遅れぬという信用です。江戸から大坂まで幾日で着くか、まず世間に賭けさせる。約した日に着くと知れれば、商いの荷はそのあとでいくらでもついて来る」


 竜馬は黙っていた。

 撰之助は、その沈黙のまま続けた。


「信用が立てば、次は港の順が変わる。港の順が変われば、勘定の順も変わる」


 撰之助は、そこで言葉を切った。切ったまま、濡れた店先の先ではなく、そのさらに向こうを見ているような目をした。江戸と大坂の荷がどこを通り、どこで滞り、誰の帳面が膨らみ、誰の顔が曇るか――その順を胸の内で並べ替えているようであった。


「土佐は――御公儀を動かすつもりでございましょうな」


 竜馬は答えなかった。

 ただ、口の端にだけ、かすかな笑みを浮かべて店を出た。


 日本橋の灯の向こうで、町はなお黙って動いている。

 その底を流れる気配だけが、火薬の匂いを帯びていた。

【史実解説】速過ぎた豪商――中居屋重兵衛

中居屋重兵衛は、幕末の横浜貿易の草分けとして知られる商人です。本名は黒岩撰之助。上野国吾妻郡中居村の出身で、江戸で学問と火薬製法を修め、のちに火薬商・物産商として力をつけました。著作に『集要砲薬新書』があり、火薬と商いの両方に通じた人物でした。


そして安政六年(1859年)の横浜開港後には、いち早く横浜へ進出し、生糸貿易で大きな成功を収めました。開港直後の横浜で大量の生糸を集荷した、先駆的な売込商の一人とされています。


ただし、その生涯は長く続きませんでした。幕府の輸出制限令違反や尊攘派支援との関わりが伝えられ、最終的には捕らえられて獄死したとされます。つまり中居屋重兵衛は、開港の利益を誰より早く嗅ぎつけながら、その速さゆえに時代に呑まれた商人でもありました。



参考文献:『集要砲薬新書』、『横浜開港と上州商人』、『群馬県蚕糸業史』、『開港と生糸貿易 中巻』

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