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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第三十四話 動かす港

 ハリスは、しばらく藤兵衛から視線を外さなかった。


「港の“運用”についてだ」


 その言葉を、昌造が訳す。


「条文ではなく、実際に回している者の説明を聞きたい」


 問いというより、役割の指定であった。

 井上清直が、そこで一歩前へ出る。姿勢は静かだが、場の重みを引き受ける者の動きである。


「では――港務と輸送の実務を預かる者より、ご説明申し上げます」


 そう言って、下手へ視線を送る。


「朝倉」


 藤兵衛は、そこで初めて一歩前へ出て、深く一礼した。


「承りました」


 声は低く、余分な力がない。

 そう言って、藤兵衛は卓上に手を伸ばした。畳まれていた一枚の地図を、静かに広げる。紙の擦れる音が、行灯の下で小さく響いた。


 描かれているのは、四国南西部と豊後水道である。

 長崎、函館のように、すでに外へ向けて名を知られた港ではない。主要航路より少し外れた土佐の西端に、控えめな湾が一つ示されていた。


 ここで初めて、場の空気が動いた。


 ハリスの視線が、文束から地図へ移る。

 ヒュースケンも、蘭語の整理を頭の中でしながら、視線だけは地図の曲線を追った。

 清直は眼を細め、忠震は紙の余白を測るように宿毛の湾口を見つめた。

 昌造だけが、最初からそれをよく知る者の落ち着きで、地図の上へ視線を置いている。


 藤兵衛は、地図の端を指で押さえたまま続けた。


「こちらが、宿毛にございます」


 ハリスは、すぐには返さなかった。先に出した「詳しい説明を」という言葉を、相手がどう受け取るかを見ている。

 藤兵衛は急がない。地図を示したまま、次の言葉を待った。


 やがてハリスが口を開く。


「私は、港の名で判断したいのではない。判断したいのは、通商が止まるか、回るか――その一点だ」


 昌造が訳す。言葉は短いが、重みがあった。

 これは最初からハリスが一貫して置いている理である。税も、遊歩も、裁判権も、結局は通商を止めぬための条件として見ている。その延長に、いま港がある。


「浦戸を挙げたのも、主要港であり、修船・補給・連絡が確実だと見たからだ」


 一拍。


「だが、聞き慣れぬ宿毛という名が出た。しかも、即興ではない」


 その最後の一語に、清直の指がわずかに動いた。

 昌造が訳し終えるのを待ってから、ハリスは続ける。


「ならば私は、その港がどう回るのかを知りたい」


 ヒュースケンは、ここでは筆を執らない。これは記録のための言葉ではなく、交渉の芯そのものだからだ。


 ハリスは、質問をだらだらと重ねなかった。

 代わりに、条件を置いた。


「今日、私が聞きたいのは三つだけだ」


 そう言って、指を折る。


「一つ。条文を待たずに使えるのか。

 二つ。通商が増えても、遅れずに回り続けられるのか。

 三つ。その運用は、貴国だけで完結しているのか」


 短い。だが、逃げ場はない。


 藤兵衛は、地図の上から目を上げた。


「順に申し上げます」



「まず、一つ目にございます」


 声は低く、抑えられている。

 だが、そこには最初から言い切る者の覚悟があった。


「宿毛は、条文が整う前より、通商が滞らぬよう回しております」


 即答であった。


 その一言に、清直と忠震の視線が、ほんのわずかに交わった。

 事前に共有されていた説明より、一段踏み込んでいる。少なくとも「回しております」と言い切るところまでは、二人も聞かされていなかった。


 清直の胸の内に、一瞬だけ冷たいものが走る。

 それは怒りではない。むしろ、ここで止められぬと悟った者の冷たさであった。

 条文は、後から整えられる。だが、すでに回り始めている実務は、今この場で「いや、それは無い」と言っても止まらぬ。止めれば、むしろこちらがその動きを知らなかったことだけが露わになる。


 忠震もまた、同じ瞬間に別のことを悟っていた。

 ――文にない実。

 これをどう条へ落とすか。落とせぬなら、どう条の外に置くか。

 そこまで考えて、なお口を開かない。


 ハリスが短く問うた。


「滞らぬ、とは?」


 確認である。昌造が訳し終える前に、藤兵衛は答えた。


「入港の届け、碇泊の割付、接岸、給水、検疫、石炭の手配まで、順が定まっております」


「“定まっている”?」


「はい。人ではなく、順で回します」


 その一言に、忠震が小さく眉を動かした。

 藤兵衛は続ける。


「船が入る。まず届けが入る。次に港務が動く。荷役方が動き、検めの者が入り、給水と石炭の手配が並びます。誰か一人の才覚で裁くのではなく、船が入った時の順を先に置いております」


「誰が、その順を決める?」


「港務にございます。個々の裁量には任せませぬ」


 清直が、そこで初めて口を挟んだ。


「朝倉、その“港務”とは、奉行所の役人だけを指すのか」


 問いは鋭い。

 つまり、宿毛の運用が藩の正式な役所だけで閉じているのか、それとも公社や現地の船頭、商人たちを巻き込んだ実務なのかを問うているのである。


 藤兵衛は、清直の方へは向かず、地図のまま答えた。


「奉行所だけでは足りませぬ。役目ごとに、受け持ちを分けております。検めは役所、荷は荷方、石炭と水は供給方、曳船は船手、通詞は昌造殿の系統にございます」


 ハリスの目が細くなる。

 つまりそれは、役人の机上ではなく、現に現場が役割分担されているという意味だからだ。


「実際に動いたことがあるのか」


 そこは、一段踏み込んだ問いだった。


 藤兵衛は、今度はわずかに目を上げた。


「小規模の出入りにて、順を崩さず回しております」


 完全な自白でも、言い逃れでもない。

 だが、「まだ何もしていない」とは言わなかった。


 ヒュースケンは、その返しを聞いて胸の内で舌を巻いた。

 この男は、出しすぎず、隠しすぎない。

 そして何より、港を「場所」でなく「手順」として語っている。



「二つ目にございます」


 藤兵衛は、指をもう一本立てた。


「通商が増えた場合、遅れずに回り続けられるか――そのためにこそ、宿毛を使います」


 ハリスが問う。


「具体的には?」


「泊地を広げるのではなく、滞留を作らぬ設計にしております」


「滞留?」


「荷を溜めませぬ」


 藤兵衛は地図の上で、宿毛湾の内側から外へ向けて指を滑らせた。


「石炭も水も、山と井戸から持ち込んで積むばかりでは追いつきませぬ。ならば、湾内に留め置かぬことが肝要にございます。入った船には、先に要るものを先に渡す。荷は荷で溜めず、積み替えるなら積み替える先を先に決める」


 ここは、前の素案より具体が必要なところであった。

 藤兵衛は言葉をさらに落とす。


「石炭は、山に積むだけでは間に合いませぬ。よって、常に二十日分を湾内に持ち、残りは陸から三日置きに補う手配にしております。水は、井戸と川を別に使い、飲料と機関用を分けております」


 清直が、そこで小さく息を呑んだ。

 そこまで詰めているのか――という驚きである。


 ハリスは、今度こそ前のめりになった。


「二十日分?」


「はい。切らさぬための量であって、積み上げるための量ではございませぬ。増えれば、回す回数を増やします」


「それで足りると?」


「足りぬ量になれば、港を広げる前に便を分けます」


「どうやって?」


「宿毛で詰まる前に、速い船で長崎、横浜へ流します」


 そこまで言って、藤兵衛は口を閉じた。

 だが、ハリスには十分であった。


(あの船か)


 双胴。速力。停止距離。

 昨年江戸で見た鳴龍丸の特性が、ここで初めて港務の言葉に繋がる。あれは軍事の見世物ではない。遅れを作らぬための輸送の歯車として、すでに織り込まれているのだ。


 ヒュースケンは、紙の上の指を一瞬止めた。

 昌造はそれを見て、しかし何も言わずに訳を続ける。


「つまり」


 ハリスが確かめる。


「大船をただ留める港ではなく、遅れが出る前に流す港だと?」


「左様にございます」


 藤兵衛は答えた。


「宿毛にすべてを溜める気はございませぬ。宿毛で止まれば、以後はどこへ移しても遅れは遅れにございます」


 その言い方に、忠震が今度ははっきりとうなずいた。

 港を守るのではない。遅れを生まぬよう、先に分ける。これは文の理ではなく、現場の理であった。



「では、最後だ」


 ハリスは三つ目を口にする。


この問いは、単に独力か否かを聞いているのではない。

 宿毛の運用、ひいては新型蒸気船の実働が、外国人技師やオランダ商館筋の知見に深く依ってはいないか――ハリスは、そこを見定めようとしていた。


 藤兵衛は、はっきりと首を振った。


「外の助けは、前提にしておりませぬ」


 昌造が、即座に訳す。


「必要になれば受けます。されど、回すために要るものは、すでに内に揃えております」


「要るもの、とは」


「人、順、荷役、補給、帳面にございます」


 藤兵衛は答えた。


「技は外より借りうる。されど、港を毎日回すのは、結局、そこで働く人と順だけにございます」


 ハリスは、しばらく黙っていた。

 視線が、再び地図へ落ちる。


 宿毛。小さな湾。

 だが、その上に今の説明が重なっていく。名ばかりの開港地ではない。動かすための港として、すでに考え抜かれている。


「……なるほど」


 短く、そう言った。


「三つとも、“今”の話だな」


 藤兵衛は深く一礼した。


「はい。先の計画ではございません」


 場の空気が、静かに変わる。

 これはもう、紙の上の港ではない。


 ハリスは、椅子に深く腰掛けた。


「続けて聞こう」


 認めた合図だった。


「次は、なぜ浦戸ではないのか」



 藤兵衛は、そこで初めて少しだけ息を入れた。

 地図の上で指を浦戸の位置へ滑らせる。しばし止める。


「浦戸は――官用港にございます」


「官用?」


「公儀御用、造船、儀礼、検疫――それらを最優先する港にございます」


 ハリスは地図を見たまま、続けて問う。


「商船は、どう扱う」


「沖待ちまでは許します」


 藤兵衛は浦戸湾の外縁をなぞった。


「郵便、検疫、応急の補給までは許します。されど、他国船の接岸は致しませぬ」


 ハリスは、すぐには反論しなかった。しばらく黙ってから、低く問う。


「……なぜ、そこまで分ける」


 藤兵衛は、地図から目を上げない。


「混ぜれば、必ず遅れが出ます」


 一拍。


「通商が止まるからです」


 その答えは、あまりに明快であった。


「造船も、軍務も、通商も――いずれも急ぎます。急ぎが重なれば、優先が競合し、すべてが滞ります。港を一つにすれば、見かけは大きくとも、実際には遅れの集まる場所になります」


 今度は宿毛を指した。


「宿毛は、商用専用にございます。通商に必要なものは、そこで揃えております」


 指が湾の奥へ動く。


「税関。検疫。給水。石炭。曳船。軽修。荷役。帳面。通詞。

 多くは要りませぬ。ただ、欠けさせぬことが肝要にございます」


 ハリスは、そこでようやく地図から視線を上げた。


「つまり――条文がなくとも、今日から止まらずに動く、と」


 藤兵衛もまた、顔を上げる。


「浦戸は、守る港。宿毛は、動かす港」


 深く一礼した。


「左様にございます」


 その瞬間、清直も忠震も、何も言わなかった。

 言葉は、すでに十分だった。


 ハリスは、しばらく黙っていた。

 やがて、ゆっくりと口を開く。


「私は、浦戸の名を求めていたわけではない。求めていたのは、蒸気船が止まらず、通商が遅れぬ仕組みだ」


 視線が、藤兵衛へ戻る。


「この設計は、それに応えている」


 即断ではない。だが、退けたわけでもない。

 むしろ、ここで交渉の基準そのものが少し動いたのである。


「条文、覚書、地図――三点で整理してほしい」


 忠震が静かに頷く。


「宿毛を正式開港地とし、浦戸は官用・臨時寄港に留める」


「その形で、検討する」


 場の重心が、静かに移った。

 表向きは譲歩に見える。だが実際には、港務の基準そのものが、この場で定まりつつあった。


 藤兵衛は、深く頭を下げた。


「承りました」


 その声に、迷いはない。



 ハリスは、なお地図から視線を上げなかった。


(奇妙だ)


 横浜も、函館も、条文に名はあっても、いずれも「これから整える港」である。

 条文が先にあり、実務は後から追いつく――それが、この交渉の前提であったはずだ。


(だが、ここには――)


 宿毛は、名目ではなく、すでに回っている港として提示されている。

 条文を待たず、指示を待たず、既成事実として。


(日本は、この交渉の外で、一歩先へ進んでいる)


 ようやく顔を上げた時、その表情に驚きはなかった。あるのは計算だけである。

 この港を使うなら、どこまでが日本の主導で、どこからがこちらの利になるか。

 逆に使わぬなら、何を取りこぼすのか。


 一方で、清直と忠震は、互いに視線を交わさなかった。


 横浜も、函館も――まだ整っていないことを、二人は誰よりも知っている。

 その中で、「今日から回る港」があるという事実。

 それは好機でもあり、同時に、幕府の手を離れた速度を意味していた。


(……これは、後から追いつく話ではない)


 清直は、内心でそう判断する。

 忠震もまた、条文の先にあるものを見据えていた。ここで主導権を誤れば、港だけでなく、運用の基準そのものが、この場で固定される。


 場は静かだった。

 だが、条約交渉の重心は、確かに動き始めていた。

【史実解説】蒸気船時代の港


帆船の時代の港は、「風待ち」と「荷の積み下ろし」ができれば、ある程度その役目を果たしました。けれども蒸気船の時代になると、港は単なる泊地では済みません。嘉永七年・安政元年(1854年)の和親条約でも、下田と箱館はまずアメリカ船の補給・燃料・物資補充のために開かれました。蒸気船にとって港とは、「寄れる場所」ではなく、「走り続けるための拠点」だったのです。


そのため、蒸気船時代の港に必要なのは、港の“名前”よりも運用能力でした。石炭、水、食料、曳船、荷役、検疫、通詞、修船設備――どれか一つが欠けても、蒸気船はたちまち止まります。だから十九世紀後半には、各国は港を「どこに持つか」だけでなく、「そこで何を補給し、どこまで修理できるか」を重視するようになりました。港は都市である前に、巨大な補給装置でもあったわけです。


日本でも、この現実は早くから理解されていました。たとえば佐賀藩の三重津海軍所は、安政五年(1858年)から明治四年(1871年)にかけて機能した西洋式海事施設で、修船・造船の拠点として知られています。幕末から明治にかけて長崎周辺でも、石炭採掘と船の修理・造船施設が結びついて整えられていきました。つまり日本は、蒸気船を「船一隻の新技術」としてではなく、石炭・修船・港湾運営まで含めた体系として取り込んでいったのです。


作中で宿毛を「名目の港」ではなく「回る港」として描いたのも、この点を意識したものです。幕末の開港交渉は、条約文に港名を書けば終わる話ではありませんでした。実際に船が入り、補給ができ、修船ができ、荷が滞らず、役人が処理できる――そこまで揃って初めて、その港は蒸気船時代の港になります。要するに、蒸気船時代の港とは、船を泊める場所ではなく、船を止めないための場所だったのです。

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