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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第三十二話 名と実の引き綱

 梅雨にはまだ早いはずの江戸の空は、朝からうすく湿っていた。庭木の葉だけが妙に濃く見える。裏口に近い土佐藩江戸藩邸の奥座敷で、山内容堂は膝を崩したまま、湯呑を指先で転がしていた。


 障子の向こうでは、藩邸の朝がいつも通りに動いている。足袋の擦れる音。帳面を繰る紙の音。どこかで低く咳払いする気配。その「いつも通り」を破ったのは、控えの者の一声であった。


「殿。公儀より使者にございます」


 容堂は、すぐには顔を上げなかった。


 公儀――。

 その言葉には、この数年で二つの意味が重なった。表向きの命と、その裏に沈んだ算段。どちらであっても軽く扱ってよいものではない。


「通せ」


 短く言って、ようやく手を止める。


 通された使者は、役目の分かる装束をきちんと身につけ、余計な動きをひとつもしなかった。差し出された書状も華美ではない。だが封の結びはほどよく固く、記された印は明確であった。


 容堂はそれを受け取るなり、すぐには封を切らなかった。まず脇に置く。一拍。それから、ゆっくりと紙を開いた。


 文面は驚くほど簡潔だった。


 ――通商談判準備の件につき、土佐藩中より技術説明要員を召致す。

 ――朝倉藤兵衛。

 ――別途、語学・技術通詞各一名、召致の支度あるべし。


 それだけである。


 容堂は目を細めた。藩主宛でありながら、命令でもない。相談でもない。言葉遣いは丁寧だが、判断を求めてもいない。「そうする」という事実だけが、淡々と置かれている。


「……ふん」


 喉の奥で、短く息が漏れた。


 朝倉藤兵衛。その名が、ここでも出るか。


 容堂は障子の向こうへ声をかけた。


「藤兵衛は、今江戸におるな」


「はっ。新世社の段にて出ておりますが、只今こちらへ戻るところかと」


「呼べ」


 それだけ言って、再び書状へ目を落とす。


 技術説明要員。語学・技術通詞。

 土佐を代表させるとは書いていない。条約の席へ出るとも書いていない。だが逆に言えば、余地だけが妙に少ない文だった。


 容堂は、ふっと鼻先で笑った。


(堀田備中守め……)


 どこまで承知の上なのか。いや、承知しているからこそ、こう書いたのだろう。命ずるほど露骨ではなく、伺うほど弱くもない。断れば土佐が退いたように見え、応じれば最初からそうなることを見込まれていたように見える。そのあわいだけを残してある。


 障子が静かに開き、朝倉藤兵衛が入ってきた。畳に手をつく姿勢は深いが、過剰ではない。江戸詰の空気に慣れた身の、無理のない所作である。


「殿、お呼びにて」


「これを読め」


 容堂は書状を差し出した。藤兵衛は一礼し、両手で受け取り、さっと目を走らせた。その表情に驚きは浮かばない。ただ、ほんのわずかに呼吸が深くなった。


「……某が、指名にございますか」


「そう書いてあるな」


 容堂は湯呑を置き、藤兵衛を正面から見た。


「お前が行けとは、わしは言うておらん。だが、公儀は言うてきた。さて、どう思う」


 藤兵衛は即答しなかった。書状を畳の上に置き、膝の上で指を組む。


「通商の場で先に要るのは、条文そのものではなく、前の段のすり合わせかと存じます」


「前の段、とな」


「はい。石炭、水、修船、検め、通詞――港が動き出した後に止めぬための段取りにございます」


 容堂は、ゆっくりとうなずいた。


「つまり、お前は“出る”とも“出ぬ”とも申さぬわけだ」


「はっ。出る出ぬを決めるのは、殿にございます。ただ……」


 そこで言葉を切り、視線を少し下げる。


「某一人を名に挙げる文では、ございませぬ」


 容堂の眉がわずかに動いた。


「ほう」


「語学と技術通詞。名は出ておりませぬが、意味は明らかにございます。某だけ行かせて済む話ではない、と申している文にございます」


 容堂は笑った。


「分かっておるな、藤兵衛」


 そして、そこで初めて結論を口にした。


「本木と中浜も呼べ。本木は船の話を蘭語で誤りなく通せる。中浜は、言葉だけでなく向こうの決まりを知っておる。……備中守に無理を通して、蕃書調所から土佐へ戻させた男だ。今、遣わねば才が腐る」


 藤兵衛は深く頭を下げた。その動きに迷いはない。


「承知仕りました。両名、早馬を以て呼び戻す段、手配いたします」


「急がせよ。ただし、こちらから騒ぐな」


 容堂は書状を畳み、脇へ押した。


「この件、公儀から見れば“人を出せ”というだけだ。土佐が前に出る話ではない。分かっておるな」


「はっ。あくまで、前の段のための随行に」


「そうだ」


 容堂は庭の緑へ視線を流した。


「条約を結ぶかどうかの話ではない。だが、動かすつもりの話ではある。その端に土佐の名がちらつくのは、避けねばならん」


 藤兵衛は静かに応じた。


「そのためにこそ、某らが呼ばれたのでございましょう」


 容堂はその言葉を否定しなかった。


「江戸へ出る支度をせよ。老中の屋敷へ呼ばれることになろう。城ではない。……城へ上げるほどの話ではない、ということだ」


 その一言に、藤兵衛はわずかに目を伏せた。


「心得ました」


「本木と中浜には、こう伝えよ」


 容堂は、低い声で続けた。


「これは栄誉でも、抜擢でもない。“間違えさせぬための役目”だ、と」


 藤兵衛は深く礼をした。その背を見送りながら、容堂は独りごちる。


「さて……土佐は呼ばれた。呼ばれた以上、黙って座るわけにもいくまいな」


 庭の木々が、湿った風にわずかに揺れた。江戸の空は相変わらず重い。だが、動き出した歯車の音だけは、確かに聞こえていた。




 老中詰所の奥に、ひと間だけ空いた座敷があった。江戸城ほどの張り詰めはないが、私邸の緩みもない。物を決めるには狭く、物を誤らせぬには丁度の広さである。


 上座に老中首座・堀田正睦。

 その脇に井上いのうえ清直きよなお――下田奉行として、この談判を現場で預かる実務の要。

 もう一方に岩瀬いわせ忠震ただなり――目付として、理屈と文言を崩さず積み上げる男。

 下手に朝倉藤兵衛。半歩下がって、中浜万次郎と本木昌造が控える。


 人の配置だけで、この座が「決める場」ではなく「詰める場」であることが分かる。城中の大広間ではない。だが、ここでの一言が、やがて城の言葉になる。その手前の場所であった。


 正睦が口を開いた。


「今日は条約を決める場ではない」


 誰も動かない。最初に前置きを置くところが、この老中の癖であった。


「だが、動かぬまま置くつもりもない。――つまり、話は“前の段”だ」


 正睦は、卓上の文束を一つだけ前へ出した。厚みはない。だが綴じは固く、紙質も選ばれている。


「これが、こちらの考えだ」


 清直が文束を取り、無言で藤兵衛の前へ滑らせる。現場の男らしい、無駄のない手つきである。藤兵衛は一礼し、手元へ引き寄せた。


 開いた瞬間、目の動きが速くなる。港名。居留。遊歩。税。条々は整っている。無駄もない。だが、藤兵衛はすぐには顔を上げなかった。しばらく読み進め、紙を一枚戻し、また読み直す。


 正睦は急かさない。


「どう見える」


 問いは短い。だが、答えの軽さは許されない。


 藤兵衛は文束を閉じ、畳に置いた。


「よく詰めてございます」


 まず、そう言った。清直も忠震も、それを否定しない。ここまでは想定通りである。


 続けて藤兵衛は、静かに言った。


「ただ――港が、まだ紙の上にございます」


 室内の空気が、わずかに揺れた。


「港とは、名を書けば済むものではございませぬ。灯が入り、船が入り、人が動いて、初めて港になります」


 正睦の指が、膝の上でわずかに動いた。


「その動きが、ここには記されておりませぬ」


 忠震が静かに言う。声は低いが、言葉の形は崩れない。


「港務は、追って定めればよい」


 理としては、その通りである。条約本文に港役人の細目まで書き込むものではない。そういう意味で、いかにも岩瀬らしい答えであった。


 だが、その理を受けてなお、現場の側から言葉を返したのは万次郎である。


「船は追ってはくれませぬ」


 静かな声だった。


「石炭、水、検め、曳船、修船――どれ一つ欠けても、港は止まります」


 昌造が短く補う。


「決まりが薄いほど、通詞は慣例を使います。慣例は、先に使った者の言葉になります」


 それは文言の危うさであった。条にないことを、その場の“前例”が埋める。しかもその前例は、先に口を出した者の論理で固まる。昌造が見ているのは、まさにそこだ。


 清直が、ようやく口を開く。


「つまり、港を名だけ先に決めても、役人も手順も道具も揃わねば、現場では立ちゆかぬと申すのだな」


「はい」


 藤兵衛が答えた。


「向こうは港そのものを欲しがっておるのではありませぬ。止まらぬ場所を、欲しがっております」


 その瞬間、正睦の視線が鋭くなった。


「……土佐は、港を開く用意があると申すか」


 座が、ぴたりと静まった。


 清直は視線を落とし、忠震は口を結んだ。昌造の指先がわずかに畳へ触れ、万次郎は息を殺す。問いの形は穏やかでも、ここでの一語は藩の立ち位置を変えかねない。


 藤兵衛は即答しなかった。否とも是とも言えば、土佐は一気に前へ出る。しかもその瞬間に、主語を奪われる。


「いいえ」


 低い声だった。


「土佐が港を開くのではございませぬ。公儀が使う港を、土佐が整えるだけにございます」


 一拍置き、さらに続ける。


「主は公儀。場だけが土佐である――それ以上でも以下でもございませぬ」


 正睦は、口元を緩めたまま、しばらく何も言わなかった。座中に漂った緊張は、解けたのではなく、形を変えただけである。


(“開く”とは言わぬか)


 言い切らせれば、そこを縫われる。否定されれば、道が塞がる。だがこの男は、そのどちらも選ばなかった。


 躱した、というよりも――。


(……配置だな)


 正睦はそう思った。主は公儀。場のみ土佐。その線引きが、問われたその場で即座に出る。思いつきではない。藩が前に出ると誤解された時の退き方まで、最初から用意されている。


 井上が、わずかに姿勢を正した。


「堀田様。これは土佐守の申し出、と解してよろしいか」


 その言い回しも慎重だった。「申し出」と言えば、土佐が主になる。言わねば、話は進まぬ。


 正睦は首を横に振った。


「申し出ではない」


 短く、断つ。


「こちらが使う。そう言うておるだけだ」


 忠震が深く息を吸った。


「……文に落とす前の話ですな」


「そうだ」


 正睦は頷く。


「城へ上げる話でもない。条文の行間に置く話だ」


 その一言で、この場の性質が定まった。これは決定ではない。だが、後戻りもしない段階である。


 正睦は、再び藤兵衛を見た。


「朝倉」


 呼んだ声は、先ほどより低い。


「お前は、準備があると言うておらぬ。だが――否定もしておらぬな」


 藤兵衛は、まっすぐに応じた。


「はい」


 正睦は、畳に掌をついた。


「交渉の場で藩の名を前には出さん。……だが、問われた時に答える役は――お前だろう」


 それは役職でも命令でもない。居場所の指定であった。


 藤兵衛の喉が、わずかに動く。


「心得ます」


 正睦は次に、半歩後ろへ視線を移した。


「中浜」


「は」


「お主は、向こうの言葉と不安を知っておる」


 そこで言葉を切る。


「だが――それを交渉の場で口にする役ではない」


 万次郎は何も言わず、静かに目を伏せた。


「お主が前へ出れば、向こうは“答えを持つ者”を見定める。そうなれば、話は通商ではなく、人の値踏みになる」


 この場で万次郎に求められているのは、才ではない。抑えである。正睦は、それを知った上で理由まで明かした。


「後ろに控え、言葉ではなく、理屈がどう通るかを見ておれ」


 万次郎はゆっくりと頭を下げた。


「承知いたしました」


 正睦は、昌造へ顔を向ける。


「本木。通詞はお前に任せる。技を語る必要はない。だが、誤りは通すな」


 昌造は、短く、だがよく通る声で答えた。


「はっ」


 藤兵衛が港の骨を語り、万次郎が相手の空気を見、昌造が言葉の綻びを塞ぐ。そういう布陣であった。


 井上が言う。


「ならば、まず詰めるべきは港務の細目でしょう。石炭、水、曳船、修船、碇泊。紙の上で済ませず、現場で本当に動くか」


 忠震がそれを受ける。


「文面は私が整えまする。だが、“後で決める”と書いてよい事柄と、あらかじめ地ならししておくべき事柄は分けねばなりますまい」


 正睦は、ようやく小さくうなずいた。


「そういうことだ」


 そして、全員を見渡す。


「ここから先は、誰がどこまで言うかを違えてはならぬ。藩の名を立てすぎれば、公儀の筋が傷む。公儀の名を振りかざしすぎれば、現場が立たぬ。そのあわいを歩く」


 誰も異を唱えなかった。


 老中詰所の外で、人の気配がひとつ動く。城はまだ沈黙している。だが、この奥座敷ではすでに、潮の向きが変わりはじめていた。


 正睦が、最後にもう一度だけ言う。


「今日は条約を決めぬ。だが、止めもせぬ」


 その一言が、この場のすべてであった。


 条文の上にはまだ現れていない港がある。

 名義も命も、まだ掲げられていない。

 だが、灯を入れ、船を止め、人を動かす場所の影だけは、すでにここへ置かれている。


 藤兵衛は、その見えぬ港のかたちを胸の内でそっとなぞった。宿毛。

 だが、その名を口に出す時はまだ来ていない。今はただ、公儀の港として整えうる場所があるということだけを、理の形で座へ置いておけばよい。


 正睦は膝の上で指を組み直した。


「では、これより各条の詰めに入る」


 清直は現場の順で、忠震は文言の順で、昌造は通詞の綻びから、万次郎は向こうの気配から、それぞれ紙の余白へ目を落とす。藤兵衛だけが、表に出ぬ名を背負う者のように、静かに前を見ていた。


 座敷の外では、江戸の空がなお重い。

 だが、その重い空の下で、まだ誰のものとも定まらぬ港へ、最初の灯を入れる算段が、ようやく言葉になろうとしていた。


【史実解説】井上清直と岩瀬忠震


井上清直と岩瀬忠震は、安政五年(1858年6月19日)の日米修好通商条約に、日本側全権としてハリスと向き合った幕臣です。


二人の役目は、同じ「全権」でも少し性格が違っていました。

井上清直はもともと下田奉行で、開港地・港務・現地実務に近い位置にいた人物です。安政二年(1855年)に阿部正弘に登用されて下田奉行となり、安政五年には岩瀬とともに条約交渉と調印を担い、その後は新設の外国奉行も兼ねています。


一方の岩瀬忠震は、目付・海防掛として老中阿部正弘に登用され、のちに井上とともに通商条約締結に尽力した人物です。岩瀬は開明的な思想を持ち、堀田正睦に従って京都へ赴き、条約勅許を得るため公卿の説得にも当たったとされています。つまり岩瀬は、港の現場というより、幕府の外交方針や政治判断を背負って前へ出る側の人物でした。


井上清直は現場と港務に近い実務の顔、岩瀬忠震は幕府外交の理と政治判断を担う顔として見ると、この二人の並びはとても分かりやすくなります。もちろん実際の彼らは、そんな単純な役割分担だけでは括れません。けれど、幕末の条約交渉を小説で描くうえでは、この二人が「港の現実」と「外交の理」をそれぞれ背負って座っていた、と考えると、かなり実像に近いのではないかと思います。

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