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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第二十七話 南へ返る船

 ――安政五年四月八日 大坂湾


 灌仏会かんぶつえの賑わいにあわせ、湾岸には夥しい人が詰めかけていた。川口の舟溜まりより沖の方まで、見物の影が絶えなかった。


 この日、大坂湾にて行われたのは、鳴龍丸の天覧であった。


 吐く蒸気の息が白く立てばどよめきが走り、船体が身をずらせば、そこかしこで声が上がる。黒船のことを思い出した者もいた。土佐柏紋の旗を認めて、ふいに口をつぐむ者もあった。


 されど、最初に“おかしい”と気づいたのは、町人でも浪人でもない。

 商人たちであった。


 船脚が合わぬ。

 頭の内で刻んでいた刻限と、目の前の距離が食い違う。順風でもなく、潮待ちでもないのに、沖へ出るのが早すぎる。


「……勘定に合わぬ」


 誰かが、思わずそう漏らした。


 櫓や帆で出る速さではない。風を読む間もなく、潮を待つ間もなく、船は進んでいく。川口より湾央までのあいだを、人の目が追う速さそのものが置き去りにされていく。回頭の折も同じであった。大きな船が向きを変える。その一続きの動きを、商人たちは荷役の刻や積み替えの間で量ろうとしたが、数える前に済んでしまう。


 拍手もあった。歓声も上がった。冷やかしも、怯えも、嘲りもあった。

 だが、それらはひとつの声にはならなかった。


 鳴龍丸は、見世物として熱狂をさらうには速すぎた。

 かといって、人々がすぐに呑み込める類のものでもない。距離と刻の釣り合いそのものを揺るがす速さを、人々はまだ言葉に出来ずにいた。


 この日の実見は、新たな御裁可を仰ぐためのものではない。すでに朝議と勅許によって、「献上船として差し支えなし」とされたものが、実地においてもその枠を逸れておらぬかを、公儀と朝廷の立会のもとで見定めるための場であった。


 ゆえに鳴龍丸は退けられなかった。

 腑に落ちたわけでもない。されど、排されもせぬ。


「朝廷の許した船」

「公儀の通した速さ」


 人々は、ひとまずそう受け取り、見送るほかなかった。


 熱は、なお収まらぬ。

 次に要るのは、この速さをどう量るかではない。これを、どう扱うかを定める場所であった。


 その答えが用意されるのは、ここより西ではなく、南――土佐である。


 ◆


 土佐・浦戸。海陣奉行所・舟手方奥座敷。


 畳の中央に据えられた低い机の上には、折り畳まれた造船図、双胴推進の模型、そして実際に稼働していた小型蒸気機関の部品が、無造作に並べられていた。


 集まっているのは四名。


 舟手御用掛・細川よろず

 海陣奉行・淡輪たんなわ治郎兵衛じろべえ

 海防総督家老・山内太郎左衛門主馬かずま

 そして――参政付仕置添役、朝倉藤兵衛。


 今ここにあるのは、試作の場ではない。技術を語る場でもない。藩として、何を造り、何を後回しにし、何をまだ造らぬと決める場である。


 最初に口を開いたのは、山内主馬だった。


「――では、本題に入ろう」


 低く、無駄のない声である。


「幕府献上の御用舟だ。二艘。万、最短でどれほどだ」


 万は、女らしい細い指で机上の図を押さえたまま、顔だけを上げた。その眼にはためらいがない。


「半年で形にはなります。船体、機関、推進、いずれも鳴龍丸で実証済み。資材さえ揃えば、これ以上は詰められません」


 その言葉は自信に満ちていた。

 だが、そこで藤兵衛が口を開く。


「――急ぐ理由は、どこにございましょう?」


 空気がわずかに引き締まる。治郎兵衛が慎重に応じた。


「献上船ゆえ、遅れれば幕府や朝廷の不信を招くおそれが――」


 藤兵衛は首を横に振った。


「不信とは、“意図が読めぬ時”に生じます。丁寧に、理由を持って進めれば、遅いことそのものは不信にはなりませぬ」


 万も、それに頷いた。


「材木の乾燥、舟渠の空き、釜焚きの調整……急げば形は作れますが、“余裕のある仕事”にはなりません」


 藤兵衛は静かに言った。


「献上御用舟は、速さを見せる船ではない。“余裕”を見せる船でなければならぬ」


 主馬が膝の上で手を組む。


「――ならば、こう整理する。献上御用舟は“政治の器”。完成の早遅ではなく、“姿勢”が価値だ」


 一拍置いて、続ける。

「実戦用の造船は、別の軸で動かす」


 藤兵衛が即座に応じる。


「御用舟は時を稼ぐ船、海防の船は国を守る船。同じ舟として扱えば、双方を誤ります」


 治郎兵衛も深くうなずいた。


「海陣奉行の立場から申し上げても、その線引きは不可欠です」


 主馬が、ゆっくりと結論を落とす。


「よし。献上御用舟は一年。急がぬ。それが、最も誠実だ」


 この瞬間、鳴龍丸は「成した事」から、担うべき前提へと位置を変えた。机上の図面は、もはや成果を語るためのものではない。判断と責任を具体に落とし込むための道具となったのである。


 藤兵衛は、机上の模型から視線を上げる。


「進度を抑えると決めた以上、次に問題となるのは――態勢です」


「場と人、ですな」と治郎兵衛が頷く。


「はい。現状、舟渠は浦ノ内に一か所。献上用の造船を進めながら、別軸で実用船を仕込むには余裕がありません」


 万も工程を追うように口を挟む。


「工期が重なる。建造と修繕を同時に走らせる余地がありません」


 主馬は短く言った。


「――分ける」


 それは相談ではなく、方針だった。


「浦ノ内の舟渠を増設する。御用舟は“政の道具”、実用舟は“国の楯”。分けて動かす」


 治郎兵衛は指先で机を叩き、即座に算段を立てる。


「導水、釜屋、材木置場……縄張りを切るなら、今しかありません」


 藤兵衛は深く頷いた。


「舟渠増設は補助策ではありません。造船計画の前提として組み込みます」


 一拍置いて、話題を進める。


「もう一つ。資材の受け入れ準備です」


 万の視線が上がる。藤兵衛は特許密約の写しを差し出した。


「オランダより、双胴船特許密約に基づく前払として、今月にも資材と機器が到着します」


 その脇には、別の――奉書が三通、整えられている。主馬はその束を見下ろしたまま、先に言った。


「……まず、状況整理だ」


 一通ずつ、指で軽く押さえる。


「薩摩より一通。献上御用舟の造船にあたり、機関・砲術・工部の技術者派遣を申し出てきておる」


 次いで二通目。


「宇和島。改計検証と試運用のため、工学に通じた人材を数名、差し出す用意があるとな」


 最後に三通目。


「佐倉だ。――堀田備中守の佐倉藩より、公儀向け書式・役方対応のため、洋学と砲術に通じた者を、技術文書方として差し出したいとある」


 万が眉をわずかに上げ、治郎兵衛が小さく息を吐く。


「……動きが早いですな」


「鳴龍丸の速さを見た後ではな」


 主馬は、平然と続けた。


「いずれも言葉を装ってはおる。だが、同時に――藩の内に仕法が流れることへの警戒でもあろう」


 視線が藤兵衛へ向く。


「朝倉。これは、どう扱う」


 藤兵衛は三通の奉書を一瞥したあと、視線を机に戻し、三人を見渡した。


「もう一つ――某の考えを、ここで明らかにしておきたく存じます」


 主馬が静かにうなずく。

「申せ」


 藤兵衛は、ためらいなく言った。


「この仕法を、土佐一藩にて囲い続けることは叶いますまい」


 万の指が、わずかに止まる。治郎兵衛の目が、藤兵衛を捉えた。


「それは――長うは保ちませぬ」


 室内に、重い沈黙が落ちた。

 藤兵衛は、その沈黙を破るように続ける。


「ゆえに、明かすことは要ります。ただし、限りなく明かすのではございませぬ」


 万が顔を上げる。


「……一橋に、ということですか」


「左様にございます」


 藤兵衛は、はっきりとうなずいた。


「まずは一橋方の内。藩主方みずから責を負われる筋のうちにて、設計の骨と仕法の大要を分かつ」


 主馬が腕を組む。


「秘して独占するをやめる、と聞こえるな」


 藤兵衛は首を横に振った。


「手放すのではございませぬ。預かりの筋を改めるだけにございます」


 治郎兵衛が低く唸る。


「土佐が中核を握ったまま、外へ“日本の力”として見せる……」


「はい」


 藤兵衛は迷わず答えた。


「土佐が造り、薩摩が助け、宇和島が理を吟味し、佐倉が公儀筋を通す。そうして初めて、『日ノ本は、藩々連なりてこれを成し得る』と示せます」


 主馬は長く息を吐いた。


「……なるほどな」


 その声には、苦味と同時に納得が混じっていた。


「鳴龍丸は、もはや隠し通せる段を過ぎました。江戸の上覧、大坂での実見にて、速さは見られ、構えは量られ、いずれは真似の算段も立ちましょう」


 主馬は口を挟まない。続きを促す沈黙だった。


「それならば――囲うより、先に筋を立てる方がよろしゅうございます」


 藤兵衛の声は低いが、揺れがない。


「こののち通商条約の掛け合いが本立ちになれば、泰西諸国がまず量るは、ただ一つ。日ノ本が、自ら国を守り得るか否かにございます」


 治郎兵衛が、静かに息を吸った。


「新型の蒸汽船を、日ノ本が“造れる”のか。あるいは、すでに“幾艘か備えている”のか」


 藤兵衛はうなずく。


「はい。それを示せねば、いかほど条文を整えても、掛け合いは“力なき国”として扱われましょう」


 万が、ぽつりと漏らす。


「……土佐だけが持っていても、足りない」


「その通りにございます」


 藤兵衛は即座に応じた。


「土佐のみが鳴龍丸級を有するは、藩としては誇りにございましょう。されど国全体を思えば――必ずしも最善とは申せませぬ」


 主馬の視線が鋭くなる。


「囲い続ければ、どうなる」


「土佐が“日ノ本の異物”となります。他藩には恐れられ、幕府には抑え置くべきものと見られ、異国には“一藩の奇手”と見做されましょう」


「……だが、他藩へ明かすとなればどうだ」


 主馬は視線を上げ、真正面から藤兵衛を見据える。


「殿が、それを良しとされるか。鳴龍丸は土佐の切り札でもあろう。藩の力を、藩の外へ出す――その是非を、誰が決める」


 場の重みが変わる。ここから先は、仕法でも約定でもない。藩主の御胸そのものに触れる話である。


 藤兵衛は、わずかに息を整えた。


「……決めるのは、土佐一藩ではございませぬ」


 主馬、治郎兵衛、万の視線が集まる。


「造船助勢の申し出がなされたのは、一橋の“密議の席”にてございます」


 藤兵衛の声は低いが、はっきりしていた。


「越前、薩摩、宇和島、水戸――そして我が土佐。あの場にあったのは、藩政の談合ではなく、国難に対する藩主方の申し合わせにございました」


 万が、無言で息を呑む。


「ゆえにこれは、土佐が“仕法を手放す”話ではございませぬ。藩主方が役目を分かち、土佐は“造る役”を勤めるという話にございます」


 藤兵衛は、一歩も踏み込まず、しかし退かずに言葉を重ねた。


「その筋も含め、殿――容堂公へは、某が東洋先生を通じて申し上げまする。これは藩益を捨てる儀ではございませぬ。土佐が国事の中核を預かるという選びにございます」


 沈黙が落ちた。


 主馬は、すぐには答えなかった。膝の上で組んだ手に力を込め、畳を見つめる。

 やがて、静かに息を吐く。


「土佐が抱え込めば、狙われる。だが、一橋の枠に置けば――国事として扱える」


 その一言は、承知でも退けでもなかった。

 だが、藤兵衛の言葉を“藩の政の言葉”として受け取った証であった。


 藤兵衛は深く頭を下げる。


「それが、某の考えにございます」


 万は、机上の模型に手を伸ばし、しばらく見つめた後、静かに言った。


「……守るために、閉ざさぬ。用いるために、ひろげる――か」


 治郎兵衛がうなずく。


「海防とは、船を隠すことではない。海を渡らせぬことだ」


 だが主馬は、なお口を開いた。低く、しかし重い声だった。


「……まだ一つ残る。阿蘭陀オランダとの特許密約に背かぬのか。この資材は“対価”であろう。仕法を他へ明かすことが、約定破りと見られぬ証はあるのか」


 室内の空気が、わずかに張る。

 治郎兵衛が藤兵衛を一瞥した。ここは、軽い答えで済ませられる場ではない。


 藤兵衛はうなずいた。


「主馬様のご懸念は、もっともにございます」


 即座の肯定だった。否定から入らぬ。その姿勢が、まず家老の警戒を一段下げる。


「ですが、密約にて縛られておりますのは、“欧州”における独占売りと、“欧州圏内での仕法秘匿”に限られます」


 藤兵衛は写しの端を指で押さえ、淡々と続けた。


「我らが日本国内にて、藩務として、あるいは国事としてこの仕法を用いること、また国内の同心の諸藩と分かつことは、約定の外にございます。阿蘭陀側の利は、“欧州に競い手を生まぬこと”にあり。極東の内政にまで口を差し入れる余地は、あの書面にはございませぬ」


 主馬の眉が、わずかに動いた。拒みではない。読み込みに入った徴である。


「阿蘭陀は外、藩主合意は内。内外を分ける――か」


 主馬は顔を上げ、治郎兵衛を見た。


「淡輪。海陣奉行として問う。この仕切り、差配は立つか」


 治郎兵衛は、間を置かず応じた。


「はい。設計の元と差配は土佐に集める。薩摩は助勢、宇和島は算理の吟味、佐倉は書付と公儀筋の捌き役。船を“殖やす”のでなく、“廻す”構えなら、無理はありませぬ」


 万も、控えめに続けた。


「仕法をばら撒かぬ限り、機関と推進の要は、こちらで握れます。そもそも容易に写し取れるものではありませぬし、明かしたとて、すぐ造れる備えを持つ藩は限られましょう」


 再び沈黙。


 主馬は、深く一度うなずいた。


「……よし。そこまで考えておるなら、私からは異論はない」


 言葉を切り、付け加える。


「だが、殿への進言は軽くするな。これは仕法の話ではない。土佐の立ち位置を決める話だ。三家老を通したうえで、参政より殿へ申し上げるよう計らう」


 藤兵衛は深く頭を下げた。


「承知しております」


 こうして、机の上の図面は、“船の設計”から、“藩の選び”を示すものへと変わった。

 それは、土佐が何を急ぎ、何を急がず、どこまでを御用舟とし、どこからを国の備えとするか――その選びを映すものとなったのである。


 外では、春の風に混じって遠く鐘の音が響いている。

 大坂での灌仏会の喧騒は、すでに過ぎた。

 鳴龍丸は、もはや速さそのものを語る船ではない。そこから先に何を造るかを迫る、前提となった。


 しばし、誰も口を開かなかった。


 その沈黙を破ったのは、万であった。


「……では」


 静かな声だった。だが、その一語には、先ほどまでとは別の重みがあった。

 万は、机の脇に伏せてあった大きな筒を手元へ引き寄せる。治郎兵衛がわずかに目を細め、主馬もまた視線を落とした。藤兵衛は、その仕草だけで、これが先刻までの評定とは別の段に入る合図だと悟った。


 万は紐を解き、厚手の紙をゆるゆると広げた。


 畳の上に開かれていくのは、船の図面であった。見慣れた鳴龍丸の図ではない。

 さらに長く、さらに広く、さらに深い。双胴の間は大きく取り渡され、中央には巨大な機関室が据えられている。甲板は三層。


 その全容が机いっぱいにあらわれた時、座敷の空気が変わった。


 万は、図の上にそっと手を置いた。口元に、ごく淡い影が差す。


「さて――これよりが本題にございます」


【史実解説】天覧とは何か

――鳴龍丸の“大阪天覧”は天皇が見たのか?

幕末の史料に出てくる「天覧」は、現代のように“天皇がその場で直接見る” という意味に限定されていませんでした。

むしろ実際には、公家や伝奏が実見し、その内容を天皇に奏上することまで含む政治用語として使われることが多かったのです。


■ “天覧”は「直視」ではなく「奏上」だった

幕末の朝廷では、軍艦や新技術の視察を行うのは関白・伝奏・公家であり、彼らが見聞した内容を天皇に報告することで、「天覧に供す」=天皇に示した、と扱われました。


つまり、天皇が実物を見ていなくても“天覧”と呼ばれるのは普通のことだったわけです。


■孝明天皇は御所から外出した?

では、天皇自身が蒸気船を見に行く可能性はあったのか。

結論は明確で、史実上あり得ません。

孝明天皇の在位中、行幸(御所外への外出)はゼロ、御所の外へ出た一次史料は一つも存在しません。

軍艦視察は思想的にも儀礼的にも不可能です。


このため、「大阪へ赴いて蒸気船を直に見る」という状況は、制度的にも文化的にも成立しません。


■“大阪天覧”の史実的な位置づけ

史実に即して最も自然なのは、「朝廷側の実見を、天皇への奏上を前提として“天覧”と呼ぶ」という理解です。


作中においても、実際に船を見るのは公家・伝奏。その内容が天皇に報告され、幕府としては「天皇に供した」ことになる、という位置づけにしています。

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