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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第二十八話 海の先の図

 万は紐を解き、厚手の紙をゆるゆると広げた。


 畳の上にひらかれていくのは、船の図面であった。見慣れた鳴龍丸の図ではない。さらに長く、さらに広く、さらに深い。双胴の間は大きく取り渡され、中央には巨大な機関室が据えられている。甲板は三層。二つの船尾へ渡る線の張りは、もはや湾内を走る早船のものではなく、外海の波を押し返してゆくための構えであった。


 その全容が机いっぱいにあらわれた時、座敷の空気が変わった。


 万は、図の上にそっと手を置いた。口元に、ごく淡い影が差す。


「さて――これよりが本題にございます」


 誰も、すぐには返さなかった。


 鳴龍丸の先に来るものを、皆それぞれ思い描いてはいた。されど、思い描くことと、こうして形となって眼前へ差し出されることとは違う。いま畳の上に伏しているのは、ただ大きい船の図ではない。藩の息遣いそのものを変えかねぬ問いの形であった。


 主馬が、ようやく低く言う。


「……申せ、万」


 万は一礼し、図の中央へ指を置いた。


「こちらが、外洋大型双胴蒸気船の新規設計にございます」


 治郎兵衛が思わず前へ身を乗り出した。


「外洋……」


 彼の視線が、まず船首から船尾へ走った。次いで、甲板の段差、機関室、帆柱の位置、両胴の幅、その間を渡す構えへと移る。読み慣れた舟大工の眼で図を追ううち、その顔からいつもの落ち着きが少しずつ剥がれていった。


「……こ、これは……」


 思わず漏れた声に、自分で驚いたように口をつぐむ。だが眼はなお図から離れぬ。


「鳴龍丸の三倍はあろうか」


 万は静かに首を振った。


「長さは三倍に届きませぬ。されど容積と積載は、それに近いものとなりましょう。鳴龍丸は速さを証す船にございました。これは違います。海の上にひとつの“場”を作る船にございます」


 藤兵衛が、その言葉に顔を上げた。


「場、と申されるか」


「はい」


 万は頷く。


「人を運ぶのみの船にあらず。兵も積める。荷も積める。長く海上にあり、補給も受け、外海を渡りうる。戦うためのみでなく、通い、示し、支えるための船――そのための構えにございます」


 主馬は図面の上へ落ちる自らの影を見たまま問う。


「鳴龍丸の延長ではないな」


「はい。別種の船とお考え下さるがよろしゅうございます」


 藤兵衛は図面の端に置かれた細かな注記へ目をやった。数値が並ぶ。木組み、舷側、釜の容量、積載量、帆装、砲門の余地。紙の上の墨は冷たい。だが、その冷たさがかえってこの構想の熱を示していた。


「万殿」


 藤兵衛は慎重に口を開いた。


「本当に、これが作れるのですか」


 万は、ためらわず頷いた。


「一艘のみなら、技術のうえでは可能にございます。鳴龍丸で立った理を大きくしてゆけば、船体も、推進も、機関も、道はございます」


 その一言で、治郎兵衛はかえって顔を曇らせた。作れるか否かと、作ってよいかは別であると分かっているからだ。


 万は、その沈黙の意味を知っているように続けた。


「ただし――」


 座の空気が、そこでひとつ締まる。


「建造費、三十万両。工期、二年ほどは頂きたく存じます」


 言い終えた途端、音が消えた。


 春である。障子の外には日があり、どこかで鳥も鳴いていよう。だが、座敷の内ではただ、人の呼吸だけがかすかに残った。治郎兵衛の指が机の縁に止まり、主馬の瞼がわずかに下がる。藤兵衛は、一度だけ眼を閉じた。


 三十万両。


 数字そのものが畳へ落ちたというより、藩の蔵、年貢、職分、諸役、兵糧、船渠、材木、鍛冶場、人足――そうしたあらゆるものを一度に背負って、重く沈んだようであった。


 最初に口を開いたのは藤兵衛である。


「三十万両……」


 低い声であった。


「藩の一年の入りにほぼ並びます。鳴龍丸級なら何艘も仕立てられる。海防の要と申しても、一挙に藩財政の息を止めるは危ううござる」


 治郎兵衛もすぐに継いだ。


「造るだけでは済みませぬ。これだけの巨体となれば、燃え物も、修繕も、釜焚きも、機関役の修練も、すべて桁が違う。港に着けるにも場所を選ぶ。舟渠も別の構えが要る」


 主馬が図の端を指で押さえた。


「大艦は、人の胸を奪う。されど、土佐がいま抱えている海は、まず沿岸、浦戸、瀬戸内、海峡だ。小回りの利く船を数備える方が、今の備えにはよほど叶う」


 一拍置いて、低く言い足す。


「この船は、いま欲しい船ではない」


 万は黙って聞いていた。反駁を急がぬ。そういう時ほど、この女の中では何かが速く回っていると、藤兵衛はもう知っている。


 主馬はなお続けた。


「一艘巨船を抱えれば、それを守るために人も金も吸われる。守る船が、守られるべき荷になっては本末が違う」


 治郎兵衛が頷く。


「鳴龍丸は速さを証した。次に要るのは、数と働きです。沿岸を押さえ、海峡をにらみ、急場に兵と物を動かせる船。今はそちらが先でございましょう」


 藤兵衛も目を上げた。


「万殿の図は、夢にござる。されど今は、夢に藩の米蔵を注ぎ込む時ではありますまい」


 万の肩が、ほんのわずかに落ちた。


「……やはり、まだ早うございますか」


 その声は弱くはなかった。ただ、少し遠くへ引いたように聞こえた。机の上には、外海を渡るための大きな船が広がっている。そのかたわらで、現実の土佐が、ゆっくりとその周囲へ線を引いている。


 しばらく、誰も言わなかった。


 図面の上に差していた春の日が少し移る。機関室の注記にかかっていた影が、三層甲板の線へとじわじわ滑った。


 やがて万が、ふっと顔を上げた。


「……では、逆にお尋ねいたします」


 主馬が眉を動かす。


「何をだ」


「双胴蒸気船の特許料にございます」


 治郎兵衛が、先ほどまでの重さを一瞬忘れたように万を見た。藤兵衛も、思わず姿勢を正す。


 万は続けた。


「阿蘭陀より入るべき特許料、どれほどを見込んでおられますか」


 藤兵衛は即答せず、頭の内で一度勘定をさらった。過大に言えば笑い話になる。控えすぎれば、藩政の算段として立たぬ。主馬の前であれば、余計になおさらである。


「……年に五隻。二万五千両ほどを見ておる」


 それは、かなり慎ましい見積もりであった。主馬も、脇で小さく頷いている。治郎兵衛も、そのあたりなら夢ではないと考えた顔をしていた。


 だが、万はためらわず首を振った。


「低うございます」


 主馬の目が細くなる。


「控えめに積んだつもりだがな」


「なお低い」


 万の声は静かで、しかもきっぱりしていた。


「初年より十五隻などとは申しませぬ。されど、数年のうちに十隻を越える見込みは十分ございます。上手く回れば十五隻、七万五千両に届く年もありましょう」


 三人の視線が、一度に万へ集まった。


「十五……」


 治郎兵衛が、信じかねるように復す。


「阿蘭陀が、そんなに捌けると申すか」


 万は首を横に振った。


「阿蘭陀のみではございませぬ。阿蘭陀は窓口。買うのは、もっと広うございます」


 そう言って、別の巻物を手元へ引いた。紐をほどき、今度は縦に広げる。そこに現れたのは、万次郎が持ち帰った世界地図であった。


 土佐の座敷に、世界が広がる。


 万は細い指で、北海沿いの海岸線をなぞった。


「ここをご覧くださいませ。欧州北部は、入り江が多い。水は浅く、岸は込み、潮も荒い。喫水の浅い船が利を取ります」


 次いで指は、太い河を辿っていく。


「さらに河でございます。大河川の運びは、あの国々の富の筋。河口から内陸へ、荷と兵と文が絶えず行き来する。そこへ浅くて速い船が入れば、ただの珍しき舟では済みませぬ」


 藤兵衛の眼が、地図と図面のあいだを往復した。いま万が語っているのは、船の構えではなく、市の形である。しかも土佐の内ではなく、海の向こうの商いの筋だ。


「北海筋と、大河川筋か……」


 主馬が低く言う。


「はい」


 万は頷く。


「我らは日本にて五隻を慎ましく見積もる。されど、あちらは一国にて五隻求める力がある。阿蘭陀がまず試し、利が立てば、次は他へ渡る。それが商いの筋にございます」


 治郎兵衛が腕を組んだ。


「つまり、我らは船を売るのではなく、仕法を売る」


「左様」


「して、向こうが多く造るほど、こちらへ金が入る」


「はい」


 万は、そこで初めてかすかに笑った。


「大きい船一艘の金を、土佐の蔵より一息に出すのは無理にございましょう。されど、外で廻る船の数を、こちらの船一艘の元手へ変えるなら――話は別になります」


 主馬は、図面と地図を見比べたまま黙り込んだ。先ほどまでは、巨船は土佐の夢に見えた。だが今、万はその夢に金の道を引き始めている。


 藤兵衛が、静かに言った。


「……確かに、藩の米蔵だけで量る話ではなくなりまするな」


 万は続けた。


「この外洋船は、いま直ちに起こすべき船ではございませぬ。ですが、特許料の入りを筋立てて取り、その上で起こすなら、夢ではなく算段になります」


 治郎兵衛は、そこでようやく吐息した。


「夢を勘定へ落とし込む、か」


 万は図面の中央を叩いた。


「夢で終わらせぬために、最初から勘定で申しております」


 その言い方に、主馬の口元がほんのわずかに動いた。笑いではない。だが、先刻までの拒みとは違う。


 藤兵衛は、机の上へ両手を揃えた。


「……では、ここで立て分けましょう」


 三人の視線が、今度は藤兵衛へ向いた。


「第一段。献上御用舟二艘。これは政の船。急がず、一年かけて整えまする。幕府への時間稼ぎであり、勅許の後を乱さぬための器にございます」


 主馬が頷く。


「異論なし」


「第二段」


 藤兵衛は、鳴龍丸の図を引き寄せ、隣へやや小ぶりの改良案を置いた。


「鳴龍丸級の小型蒸気船、それに改良中型船を複数。小型は急派・連絡・見張り。中型は海峡・沿岸・兵糧と兵の運び。海防の本手は、まずこちらです」


 治郎兵衛の眼が明るくなった。


「それなら現場が生きる。操船も、機関役も、舟渠も育つ」


「はい。鳴龍丸一艘で国は守れませぬ。されど、鳴龍丸を核として船種を揃えれば、藩として廻る備えになります」


 万も小さく頷く。


「その段で、釜焚きも機関士も鍛えられましょう」


 藤兵衛は、そこで一度間を取った。


「第三段」


 その言葉で、四人とも自然に、あの巨大な図面へ視線を戻した。


「外洋大型双胴蒸気船」


 藤兵衛は、図面の上へそっと手を置いた。


「これは、今すぐ起工する船にはございませぬ」


 万の表情が、一瞬だけ曇りかけた。だが藤兵衛は、そのまま続ける。


「されど、捨てる船でもない」


 主馬が静かに顔を上げた。


「申せ、朝倉」


「原図を採るべきにございます」


 座の空気が、そこでまた変わった。


「今は造らぬ。だが、土佐が将来持つべき外洋船の原図として、これを藩の手元へ残す。特許料の入り、諸藩の助勢、舟渠と人足の備え、政の向き――それらが揃えば、その時に起工いたす」


 主馬は、ゆっくりとその言葉を噛んだ。


「つまり、建造決めではない。原図採り、か」


「はい。夢として伏せるのでもなく、今日の藩に無理をさせるのでもなく、未来の艦として抱えておく」


 治郎兵衛が、深く息を吸った。


「それなら通る」


 万は、しばらく図を見つめたまま動かなかった。やがて静かに言う。


「……未だ造られぬ船として、先に生かしておくのですね」


 藤兵衛は頷く。


「土佐がいま持つべきは、巨艦そのものではなく、巨艦を持ちうる順にござる」


 主馬が、膝の上で手を組み直した。


「よし。そう定める」


 低く、重い声だった。


「献上御用舟二艘を第一。中小型蒸気船群を第二。外洋大型双胴蒸気船は、特許料と態勢の整いを待つ未来艦として、原図を採る」


 治郎兵衛が即座に継ぐ。


「造船所へは、第二段の準備を先に回します。舟渠の増設も、それに合わせて縄を引く」


 万は、ゆっくりと大図面の端を撫でた。


「では、これは預け置く図に」


 主馬が言う。


「いや。預け置くのではない。藩の未来として抱える図だ」


 その言葉に、万の肩からわずかに力が抜けた。


 外で、春の風が障子をひとつ鳴らした。

 灌仏会の喧噪は、もう遠い。

 鳴龍丸が大坂湾に残したどよめきは、ここで藩の算段へ変わりつつあった。


 藤兵衛は、机の上の三つの図――献上御用舟、中小型の改良群、そして未だ造られぬ外洋大型艦――を見渡した。


 ようやく道筋が見えた、と思う。

 すぐに海の果てへ出るわけではない。

 まずは近海を固め、舟手を育て、藩の呼吸を乱さず、それでもなお未来の船を手放さぬ。

 その順ならば、土佐は夢に呑まれず、夢を持ちうる。


 主馬が立ち上がる。


「この三段の筋、まず三家老と参政の合議へ掛ける。その上で、殿へ上げる」


 誰も異を唱えなかった。


 万は最後に、大図面を静かに巻いた。鳴龍丸の先にある船は、まだ畳の上から姿を消したに過ぎぬ。消えたのではない。伏せられたのである。


 治郎兵衛が、巻かれた図を見てぽつりと言った。


「海の先へ出る船は、まだ先だな」


 藤兵衛は応じた。


「はい。されど、道は本日ここに立ちました」


 土佐の春は、なお静かであった。

 だがその静けさの底で、海の先を見据えた船は、すでに名もないまま生まれていた。


【史実解説】外洋大型双胴蒸気船は実在したのか


作中では万が「外洋大型双胴蒸気船」の建造案を提案しますが、双胴蒸気船そのものは19世紀からすでに存在していました。

ただし、「存在した」ことと「外洋用として実用化・普及した」ことは別です。


初期の例としては、1815年の米海軍艦「フルトン(デモロゴス)」があります。これは双胴構造を備えた蒸気軍艦として試運転に成功しましたが、用途は港湾防衛であり、外洋横断を担う商船・客船として成立したものではありませんでした。


一方、外洋蒸気船の本格的な発展を担ったのは単胴船でした。1830年代には、外洋横断を目的とする蒸気船がすでに単胴で実用化されており、19世紀の技術革新――鉄船体、スクリュー推進、蒸気機関の改良――も単胴船を中心に進んでいきました。


大型双胴蒸気船の代表例としては、1874年の英仏海峡フェリーカスタリアが挙げられます。全長約90メートルの大型双胴外輪船でしたが、低速かつ不経済で、商業的には成功しませんでした。後継艦が広く展開することもなく、主流にはなりませんでした。


つまり、史実としては、「大型双胴蒸気船は建造できたが、外洋航行の主流にはならなかった」ということになります。


その背景には、

・外洋の荒波に対する連結部の強度不足

・重量の大きい蒸気機関との相性の悪さ

・外洋船に必要な深い喫水を確保しにくい構造

といった技術的制約がありました。


このため、双胴軍艦は長く姿を消しました。米海軍史料では、1940年代の艦が「フルトン以来の外洋双胴軍艦」とされるほどであり、そのあいだにはおよそ130年の空白があり、動力付きカタマランの本格的な普及は20世紀後半になります。


以上を踏まえると、幕末から安政年間の日本における「外洋航行可能な大型双胴蒸気船」は、前例皆無ではないにせよ、当時としてはきわめて先進的な試作艦に相当する、という位置づけになります。


参考文献:『アメリカ海軍歴史遺産司令部「蒸気砲台フルトンまたはデモロゴス」』(Naval History and Heritage Command)、『蒸気船――その発達の歴史』(Steam-ships: The Story of Their Development to the Present Day.)

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