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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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第二十六話 賭命の封 理の裁断

 七日目――安政五年三月二十日、京都御所。


 朝の光は柔らかかった。だが、その柔らかさは人を赦すためのものではない。小御所の庭へ落ちる春の日は、白砂を淡く照らしながら、そこに座す者たちの影だけをくっきりと畳の上へ落としていた。逃げ場のない光である。


 この日の朝議に列するのは、公家たちだけであった。


 上座には青蓮院宮。関白九条尚忠、その下に左大臣・右大臣。上卿に列する摂家・清華家の面々。議奏、武家伝奏。


 孝明天皇は、ここには臨まれない。まず小御所にて国事を議し、その結論が関白を通じて奏聞される。武家は、どれほど重い役を担っていようと、この座そのものには入れぬ。


 ゆえに堀田正睦も、三岡八郎も、朝倉藤兵衛も、御所の外にあった。


 近衛家に近い控えの座敷で、正睦は端坐していた。

 脇には八郎。少し後ろに藤兵衛。誰も口数は多くない。


 武家にできることは、もう終わっている。差し出すべき理も、文も、名も、すでに公家たちの言葉へ移されていなければならない。ここから先は、それが朝廷の座で通るか、通らぬかだけであった。


 正睦が、低く言った。


「ここからは、公家衆の場だ」


 八郎が頭を下げる。


「はい」


 藤兵衛は黙したまま、胸のうちで昨日本能寺で見上げた阿弥陀如来の面を思い出していた。

 形が先にある。

 乱れたものを、そこへ戻してゆくしかない。

 そして、忠義の老臣が命を賭して遺した志が、主上の御心を揺らすかどうか――その重さが、いま朝議の座へ渡されている。


 外では鳥の声がした。あまりに普通の春の朝の音であったが、そこへ座る三人の誰にも、それは少しも春らしく聞こえなかった。



 小御所の座は、すでに定まっていた。


 衣擦れの音さえ慎まれ、誰も軽々しく口を開かぬ。列参ののちの京は、晴れていても晴れては見えぬ。今日の朝議の重さも、またそこにあった。

 白く、整いすぎた朝の中で、各々の胸のうちだけが整いきらぬまま座している。


 やがて関白・九条尚忠が、ゆっくりと顔を上げた。


「本日の議は、異国通商条約勅許の是非、ならびに献上御船の儀。あわせて、去る十八日、堀田備中守襲撃の一件につき、座の心を定めることにある」


 その最後の一語が、場をわずかに動かした。


 右方にいたひとりの公卿が、静かに膝を進めた。井伊家に近い動きを見せる家筋の男である。言葉づかいは整っている。だが、その整い方が、かえって意図を隠していない。


「畏れながら申し上げます」


 声は低い。よく抑えられている。だからこそ、打ち込もうとする楔の形がはっきり見えた。


「先般の堀田備中守襲撃の一件、いま京の内では、八十八卿列参の余勢がついに浪士どもを動かしたのではないか、との風聞が絶えませぬ。もし左様なら、この上なお勅許を論ずるは、朝廷みずから乱のただ中へ御身を置かれるに等しゅうございましょう」


 座の何人かが目を伏せた。

 証はない。だが、こういう場では風聞そのものが楔になる。

 今ここで「時が悪い」と空気が定まれば、それだけで議は止まる。そうなれば献上御船も五侯連署も、すべては“乱の中へ差し出された拙速の策”として押し返される。


 間を置かず、青蓮院宮が口を開いた。


「その点は、先に申しておく」


 静かな声だった。

 静かであるがゆえに、場はそちらへ向いた。


「余は先日、献上御船の仕組みと上覧の次第について、土佐と越前の者から話を聞いた。双胴の構え、止まり方、向きの変え方――少なくとも、朝廷の式を汚すようなものではない。この一事だけで、軽々しく退けるには及ばぬ」


 それは賛成の宣言ではない。

 だが、献上御船を“異国めいた怪しきもの”として先に退ける道は、これでひとつ塞がれた。


 議奏が、そこで静かに一礼した。


「加えて、五侯連署の文、すでに近衛殿へ差し出されております」


 近衛忠煕が、短くうなずく。


「たしかに拝見した。

 そこには、勅許の最終裁断は天朝に在りとしたうえで、その後の鎮撫・取締の責は五侯みずからこれを負う、とある」


 上卿のあいだに、小さなざわめきが走った。

 勅許を願う文ではない。勅許の後を引き受ける文である。

 しかも、松平慶永、山内容堂、伊達宗城、徳川斉昭、島津斉彬――その五つの名が並ぶ。


 議奏が、要のところだけを読み上げる。


「……異国交際の是非は、偏に天朝の御裁可に在り。

 もし勅許下る時は、その後の鎮撫・取締、五侯ともにこれを負う。

 また、献上御船を奉り、朝威を内外に明らかにせんとする趣にございます」


 先ほどの公卿が、なお何か言おうと身じろぎした、その時だった。


「恐れながら」


 近衛家の家司が、座の端から進み出た。


 ふつうなら、朝議のただ中で家司が口を挟むことはない。

 だからこそ、その一歩には座そのものが目を向けた。

 関白もすぐには制さず、ただその男の次の言葉を待った。


「なお、供覧すべきものがございます。水戸藩京都留守居役・鵜飼吉左衛門より、万一の折には朝議の場で開封してほしいと託された封書にございます」


 その名が落ちた瞬間、空気が凍った。


 鵜飼吉左衛門。

 六角通の変で傷を負い、昨日息を引き取った老臣。

 水戸筋と公家筋、尊攘の熱とその鎮め、その双方のあいだに立っていた男である。


 家司は、その凍りついた静けさの中で、さらに言葉を継いだ。


「鵜飼は、近ごろの風聞の立ち方を深く憂えておられた様子にございました。そのため、もし自らに異変あらば、朝議の場で開封してほしいとして、同文の封を当家へ託されました」


 そこで家司は、いったん言葉を切った。


「なお――当家だけではございませぬ」


 その一語で、座の緊張はもう一段深くなった。

 一通なら、まだただの遺言とも見えよう。

 だが「当家だけではない」となれば話は違う。


 八条の席から、一人の公家がゆっくりと進み出た。


「八条家にも、同文の封が預けられております」


 さらに、青蓮院宮家側の祐筆が頭を下げる。


「宮家にも、同じ封がございます。三日前にたしかに拝受しております」


 それで十分だった。


 一通なら、死の後に拵えた言い逃れとも言えよう。

 だが、別々の家に、別々の経路で、同じ封が事前に預けられていたとなれば話は違う。

 しかも、その主はすでに死んでいる。

 先ほどまで“風聞”を楔にしようとしていた者ほど、ここで次の言葉を失った。


 家司が封を捧げ持ったまま膝を進める。

 関白が目だけでうなずく。

 蝋の割れる小さな音が、妙に大きく響いた。


 最初の一条が読まれるまでの、ほんの短い間が異様に長かった。

 誰も咳ひとつせぬ。庭の遠い鳥の声まで、この沈黙を破るには軽すぎた。


「一、八十八卿列参は、非暴力を以て朝威へ訴うる内意に基づくものにして、徒党の動員これ断じてなし――」


 文は記録の体であった。

 感情を煽らぬ。

 だからこそ重い。


「一、水戸家中においても、暴を以て朝を覆えるを良しとせずとの意、たしかにこれあり――」


 座の奥で、息を呑む気配がひとつした。

 斉昭の名は直接には出ていない。だが、誰の意を踏まえた文かは、ここに居る者なら皆分かる。


「一、近時、尊攘の志をことさらに煽り、武に移らしめんとする風あり。されど、それ列参の本意にあらず――」


 読み上げが終わっても、しばらく誰も口を開かなかった。


 関白は目を閉じている。

 青蓮院宮は微動だにしない。

 先ほど風聞を持ち出した公卿も、いまは容易に次の言葉を見つけられぬ。


 封書は、敵を告発する文ではない。

 ただ、列参の本意と、近ごろの風聞の異様さとを事前に記し置いた記録である。

 だからこそ、その効き方は深かった。

 怒鳴り返すより、よほど場を動かす。


 近衛忠煕が、低く言った。


「これで、少なくとも昨夜の一件を以て、八十八卿そのものを暴の側へ置くことは出来ぬ」


 その一言が、座を定めた。


 議奏が、もう一度進み出る。


「恐れながら申し上げます。

 いまや、勅許を下しても朝威を損なわぬ形は整っております。

 献上御船を奉り、これを天朝の御治績として立てること。

 そのうえで、勅許後の鎮撫・取締は五侯が責を負うこと。

 これにより、暴を退け、威を立て、責を明らかにする筋、すでに備わっております」


 言い終えて、議奏は深く頭を下げた。

 もはや、反対の口を開く者はいない。

 開けば、それは理ではなく、ただの感情に見えるところまで場が進んでしまったのである。


 それでも関白・九条尚忠はすぐには言わなかった。

 目を閉じ、長く黙した。

 青蓮院宮もまた、その沈黙をそのまま受けている。


 やがて、関白が目を開く。


「……朝議として、異論なしと認む」


 その一言で、座は決した。


 誰も声を上げない。ただ、畳へ額が伏せられる。

 この場で勝ち負けを露わにするのは、かえって朝威を軽くする。皆、それを知っていた。



 その後、九条尚忠は内裏へ向かった。


 奏聞は簡潔でなければならぬ。

 だが簡潔であっても、その背後に積み上がったものの重さまでは消えない。


 孝明天皇は、静かにこれを聞き終えたという。

 すぐには言葉を下されなかった。

 尚忠もまた、頭を垂れたまま待つ。


 帝の胸にあったためらいは、ただ条約そのものへの嫌悪ではない。

 海防の備えも定まらぬまま異国へ道を開けば、それは朝威を軽んぜられることに通ずる。

 勅許を与えるにしても、朝が主である形が立たねばならぬ。

 そこが、これまで最も重い壁であった。


 尚忠は、最後にこう言い添えた。


「……此度の献上御船は、異国に阿る具にあらず。朝威を護り、海防の志を形にする――“国の御楯”として奉る由にございます」


 その時、帝は初めて顔を上げられたという。


「御楯、か」


 短い一語だった。

 だが、その一語のうちに、ためらいがわずかに形を変えた。


 ただ通商を許すのではない。ただ公儀の都合を認めるのでもない。

 朝がその上に立ち、威を失わぬよう、国を護る形として受け取る――その見え方が、ようやく立ったのである。


 しばしの沈思ののち、帝は言われた。


「……よかろう。朝威を損なわぬよう、取り計らえ」


 それ以上の言葉はなかった。

 だが、それで十分だった。



 報せが近衛家へ戻ったのは、まだ日の高いうちであった。


 使いの顔を見た瞬間、正睦は立ち上がった。待っていたのは、言葉そのものよりも、その顔つきだったのかもしれない。


「……いかが相成った」


 使いは深く頭を下げた。


「朝議、異論なし。その後、奏聞に及び、裁可これあり。御言葉は――『朝威を損なわぬよう、取り計らえ』にございます」


 正睦は、その場でしばらく動かなかった。

 安堵のためではない。ようやく胸の内へ落ちてきた重みに、すぐには言葉が追いつかぬのである。


 やがて、ごく小さく息を吐いた。


「……そうか」


 八郎は深く頭を垂れた。

 藤兵衛は膝の上で拳を握ったまま、胸の奥で何かが静かにほどけるのを感じていた。


 忠義の老臣が命を賭して遺した志は、主上の御心に届いた。

 影の楯となって残したものは、たしかにこの日の朝議を支えたのである。


 正睦が、ゆっくりと振り返る。


「三岡。朝倉」


「は」


「よう繋いだ」


 それだけだった。

 だが、二人には十分であった。


 朝倉藤兵衛の“長い息の都”での七日間は、ここに終わった。



 ――三日後。江戸・桜田上屋敷。


 春の空は低かった。

 雨はない。だが障子の向こうに貼りついた光は薄く、昼でありながら、すでに夕刻の気配を含んでいるように見えた。


 彦根藩主・井伊直弼は、小机の前に静かに座していた。


 机上には、京からの急使が届けた手箱が一つ。

 封の角にわずかな潰れがある。継ぎを急がせた跡であった。だが、その乱れさえ、直弼にはむしろ整って見えた。早く届くべくして届いた報せ――そういう類の顔つきである。


 直弼はすぐには封を切らなかった。

 先に灯の位置をほんのわずかに直し、文机の端にあった硯箱を寄せる。そうしてようやく、封へ指をかけた。


 紙の擦れる音だけが、妙に乾いて響いた。

 読み下した視線が、一行の上で止まる。


 ――条約の儀、勅許相成る。


 それだけで、文の骨は尽きていた。

 細部は後に続く。だが、まず読むべきは、その一行で足りた。


 直弼は、そこで初めてごく小さく息を吐いた。


「……相成ったか」


 怒気はなかった。

 驚きもない。

 盤上の石が、ついにそこまで進んだと認める時の、冷えた声である。


 側に控えていた家臣が、低く頭を垂れたまま問う。


「いかが相成りましてござりまする」


 直弼は文を置かない。目を落としたまま答える。


「勅許は成った。堀田備中守は、朝廷の面目を立てる形を先に置いて、そこを通した」


 家臣はなお顔を上げない。

 直弼は文の続きを追う。


 五侯連署。

 献上御船。

 そして、六角通の一件が、鵜飼吉左衛門の封書によって“八十八卿そのものの暴”とは切り分けられたこと。


 そこまで読んで、直弼はようやく書状を畳んだ。


「……筋としては、悪くない」


 それは賞賛ではない。崩すべき相手の骨を、まず正確に測るための言葉であった。


「条約の利を正面に立てれば、朝廷は退く。そこを避け、献上御船を“朝威を立てる形”として差し出し、そのうえで五侯の名を並べて責を引き受けると書いた。これより土佐の新型蒸気船を大坂表にて天覧に供し、その実証を朝廷献上の筋へ移さんとする趣意と見えた」


 そこで、直弼の口元がわずかに崩れた。


「水戸の封書さえなければ、暴徒の風聞で朝議を乱せたものを――よくぞ通した」


 家臣は、そこで初めてわずかに顔を上げた。

 直弼は、先を言わせぬまま続ける。


「されど、痛手ではない」


 部屋の空気が、そこで変わった。


 直弼は、畳んだ書状の上へ指先を置いた。


「都で何が起きた。八十八卿は列参した。諸侯は連署した。老中首座は京中で襲われた。朝廷は勅許に至るまで揺れた。――見方を変えれば、いずれも“定まらぬ世”の証になる」


 家臣は息を潜める。

 直弼の声はなお平らであった。


「八十八卿列参は、朝廷に仕える廷臣どもが、朝廷の場を用いて政を動かした。五侯連署は、一橋諸侯が朝廷を後ろ盾に幕政へ手を差し入れた。そして首座襲撃は、尊攘の熱がついに刃へ及んだ危機と読める。あるいは、朝廷の威の下でかかる騒乱を止め得なかったとも取れよう」


 そこで、直弼は一度言葉を切った。


「いずれにせよ――」


 障子の向こうの白い光へ目を向ける。


「乱れた、という事実だけは消えぬ」


 封書は、朝議の座では効いた。

 理の場では、たしかに一橋派が押し切った。だが、理の勝ちがそのまま政の勝ちになるとは限らない。

 人は筋に従う。されど同じくらい、“揺れた世を嫌う心”にも従う。


 直弼が見ているのは、そこだった。


「……このたびの勅許、堀田備中守と一橋方の勝ちよ。されど、こちらに残った札もまた少なくない。列参は越権、連署もまた越権。そのうえ京中にて老中襲撃。朝廷と尊攘の名の下に、ここまで世が騒いだ――」


「世は理のみでは保てぬ。人心が揺れた折には、誰かがその形を立て直さねばならぬ。そして、“秩序”を乱した者の責は、いずれ問われねばなるまい」


 家臣が低く応じる。


「大老御就任の後、にござりまするな」


 直弼は、ゆっくりとうなずいた。


「人心は、勝った理よりも、乱れを収める重みに従うことがある。揺らいだ公儀の権威を保つのは、“秩序”のみだ」


 その声音には、誇りも高ぶりもなかった。敗北を敗北として受け取っていない者の、静かな算段だけがあった。


 机上の文は、もう畳まれている。

 条約の儀、勅許相成る。

 その一行は、すでに過ぎた事になった。要は、その後に何を世の形として残すかである。


 直弼はゆっくりと立ち上がった。書院の外、桜田の空はなお低い。

 春である。だが、その春はやわらかくはなかった。


 都では理が勝った。

 だがその理も、まだ世を制したわけではない。


 藤兵衛らが掴んだ勝ちは、血を止め、朝威を立てたという意味でたしかに重い。

 されどその勝ちは、乱れの記憶ごと世を覆うほどのものでは、まだなかった。


 江戸では、別の重みが、今まさに動き出そうとしていた。


【史実解説】朝議とは何か――武家が入れぬ“理の座”

朝議とは、天皇が直接議論に加わられないまま、関白や摂家、清華家、議奏、武家伝奏といった公家たちが集まり、天皇の裁可に向けて意見を整えていく政治の場でした。


幕末の朝廷は形式こそ古代から続くものの、実際にはこの朝議でどのような空気が形成されるかが、政治判断の方向を大きく左右していました。

誰が最初に口を開くのか、どの家がどの意見に同調するのか、そしてどの言葉が「朝威を損なわぬ形」として受け取られるのかといった、言外の力学が非常に強く働く空間だったのです。


武家はこの場に入ることが許されず、幕府の意向は武家伝奏を通じて慎重に“翻訳”されて伝えられました。条約勅許のような重大な問題では、文言のわずかな違いが天皇の心証を左右するため、伝奏や議奏の判断は極めて重い意味を持ちます。


作中で描かれたように、五侯連署の文言が受け入れられた背景には、彼らが朝廷の威信を損なわずに幕府の意図を伝えるための調整を重ねていたという事情があります。


朝議は単なる会議ではなく、天皇の裁可を導くための“理の座”として機能していました。武家が外で結果を待つしかない構造そのものが、幕末の政治の緊張を形づくっていたのだといえます。

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