断章 楽園へ至る
季節外れの、雪が降っていた。
江戸の雪は、土佐の雨と違う。音を吸い、人の気配を白く遠ざける。吉田東洋は、その白さの中で、自分の息が細くなっていくのを聞いていた。
痛みは、少し遅れて来た。
はじめに来たのは冷えであった。胸の奥から血が引き、指先が遠くなる。誰かが叫んでいる。誰かが走っている。刃の音か、雪を踏む音か、もう聞き分けがつかぬ。
東洋は、己が斬られたことを、すぐには理解しなかった。
ただ、妙に静かであると思った。
人は死ぬ時、もっと騒がしいものかと思っていた。あるいは、己のような男は、最期まで何かを言い残そうとするのだろうと思っていた。
だが、言葉は出なかった。
喉に残ったのは、冷たい息だけである。
雪が近づく。
いや、遠ざかる。
白が広がり、音が途切れた。
◆
次に目を開けた時、雪はなかった。
代わりに、見知らぬ草が足元で淡く光っていた。踏まれても折れず、かすかな青を返す。空には、日の本の空にはない色があった。雲は薄く、風は澄みすぎている。
遠くに、白亜の塔が立っていた。
その名を東洋は知らぬ。
だが、塔は名を持つもののように、ただそこに在った。山でも城でもない。祈りのための塔にも見えず、権威のための楼にも見えぬ。ただ、天と地のあわいを測るために立っているようであった。
東洋は、しばらく動かなかった。
傷はない。
血もない。
だが、己が元の道にいないことだけは分かった。
「ここは……」
声は出た。
生きている声であった。
ならば死後ではないのか、と考えかけ、東洋はすぐにその考えを捨てた。死後であろうとなかろうと、目の前にあるものは目の前にある。まずは測らねばならぬ。
風が吹いた。
光る草が、波のように揺れる。その向こうで、鳥にも人にも似ぬ影が動いた。水の底から響くような声が、遠く聞こえる。獣ではない。野蛮でもない。そこには、そこなりの秩序があった。
理がある。
東洋は、そう思った。
この世ではない。だが、無秩序でもない。ならば、ここもまた世である。人が住み、言葉があり、道があり、恐れがあり、望みがある。
世であるなら、政もまたある。
そう考えた己に、東洋はわずかに苦笑した。
どこへ来ても、変わらぬ。
己は、死んでもなお理を探すらしい。
楽園というには、あまりに静かすぎる。
救いというには、あまりに何も与えられぬ。
遠くの白い塔が、音もなく光を返していた。
誰かがそこから見ているような気がした。だが、呼びかけはない。命もない。試しもない。
東洋は、帰り道を探すためには歩かなかった。
なぜか、分かっていた。
もはや、あの江戸へ、土佐へは戻らぬのだろう。
そして戻らぬことを、まだ悔いと呼ぶには早かった。
長浜の潮が脳裏に浮かぶ。城下の埃。容堂の酒。若い者らの熱。船を見つめる眼。金を読み、人を押し出し、稽古に熱を戻そうとする者たち。
そして、異なる世の匂いをまとった下士。
朝倉藤兵衛。
あの男は、奇妙であった。
はじめは胡乱な下士と思った。才はある。だが、才の出どころが分からぬ。海を見ているようで、もっと遠くを見ている。異国を語るようで、異国よりなお外を語る。
危うくもあった。
だが、橋であった。
一人では、成らぬ。
そんな当たり前を、自分は人に説きながら、己には許さなかった。
理だけでは人は動かぬ。熱だけでは道は焼ける。上の理と下の熱、そのあわいに橋を架けねばならぬ。自分はそれを説きながら、時に橋であることを忘れ、柱であろうとした。
柱は折れる。
橋ならば、渡る者がいる。
東洋は、白い塔を見上げた。
あの者らなら、止まらぬ。
自分がいなくとも、船は出る。帳面は閉じられず、人は押し出され、熱はまた別の器へ移される。すべてが思う通りにはならぬ。むしろ、思う通りになどならぬだろう。
それでも、止まらぬ。
そういう者らを、東洋はすでに見ていた。
己の言葉も、過ちも、苛立ちも、理も、生身のままでは残れなかった。
だが、渡った。
ならば、己が戻って導く必要はない。
理は、己ひとりの所有ではない。
そう思った時、東洋はようやく理解した。
死んだのだ、とは思わなかった。
ただ、あちらでの自分の役目は終わったのだと思った。
不思議なほど、静かであった。
悔いがないわけではない。腹立たしさもある。あのまま終わるつもりはなかった。まだ言うべきことがあった。まだ叱るべき者も、動かすべき政も、見届けるべき船もあった。
だが、それらはもう、己だけのものではない。
戻れぬから残るのではない。
託すべきものが、すでに託されたから戻らぬのだ。
東洋は、そこに在るために、一歩だけ足を移した。
光る草が、足元で淡く揺れた。
遠く、白亜の塔は沈黙している。風は、知らぬ言葉を運び、やがて静かに消えた。
東洋は名乗らなかった。
誰を呼ぶことも、誰に呼ばれることもなかった。
ただ、白亜の塔の影が、長く伸びていた。
――物語を語り直すその日まで。




