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幕末異聞 おらぞの藤兵衛 ~異界帰りの侍、海から歴史を変える~  作者: 曽我部穂岐
第二章 舫と白波

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断章 楽園へ至る

 季節外れの、雪が降っていた。


 江戸の雪は、土佐の雨と違う。音を吸い、人の気配を白く遠ざける。吉田東洋は、その白さの中で、自分の息が細くなっていくのを聞いていた。


 痛みは、少し遅れて来た。


 はじめに来たのは冷えであった。胸の奥から血が引き、指先が遠くなる。誰かが叫んでいる。誰かが走っている。刃の音か、雪を踏む音か、もう聞き分けがつかぬ。


 東洋は、己が斬られたことを、すぐには理解しなかった。


 ただ、妙に静かであると思った。


 人は死ぬ時、もっと騒がしいものかと思っていた。あるいは、己のような男は、最期まで何かを言い残そうとするのだろうと思っていた。


 だが、言葉は出なかった。


 喉に残ったのは、冷たい息だけである。


 雪が近づく。


 いや、遠ざかる。


 白が広がり、音が途切れた。




 次に目を開けた時、雪はなかった。


 代わりに、見知らぬ草が足元で淡く光っていた。踏まれても折れず、かすかな青を返す。空には、日の本の空にはない色があった。雲は薄く、風は澄みすぎている。


 遠くに、白亜の塔が立っていた。


 その名を東洋は知らぬ。


 だが、塔は名を持つもののように、ただそこに在った。山でも城でもない。祈りのための塔にも見えず、権威のための楼にも見えぬ。ただ、天と地のあわいを測るために立っているようであった。


 東洋は、しばらく動かなかった。


 傷はない。


 血もない。


 だが、己が元の道にいないことだけは分かった。


「ここは……」


 声は出た。


 生きている声であった。


 ならば死後ではないのか、と考えかけ、東洋はすぐにその考えを捨てた。死後であろうとなかろうと、目の前にあるものは目の前にある。まずは測らねばならぬ。


 風が吹いた。


 光る草が、波のように揺れる。その向こうで、鳥にも人にも似ぬ影が動いた。水の底から響くような声が、遠く聞こえる。獣ではない。野蛮でもない。そこには、そこなりの秩序があった。


 理がある。


 東洋は、そう思った。


 この世ではない。だが、無秩序でもない。ならば、ここもまた世である。人が住み、言葉があり、道があり、恐れがあり、望みがある。


 世であるなら、政もまたある。


 そう考えた己に、東洋はわずかに苦笑した。


 どこへ来ても、変わらぬ。


 己は、死んでもなお理を探すらしい。


 楽園というには、あまりに静かすぎる。


 救いというには、あまりに何も与えられぬ。


 遠くの白い塔が、音もなく光を返していた。


 誰かがそこから見ているような気がした。だが、呼びかけはない。命もない。試しもない。


 東洋は、帰り道を探すためには歩かなかった。


 なぜか、分かっていた。


 もはや、あの江戸へ、土佐へは戻らぬのだろう。


 そして戻らぬことを、まだ悔いと呼ぶには早かった。


 長浜の潮が脳裏に浮かぶ。城下の埃。容堂の酒。若い者らの熱。船を見つめる眼。金を読み、人を押し出し、稽古に熱を戻そうとする者たち。


 そして、異なる世の匂いをまとった下士。


 朝倉藤兵衛。


 あの男は、奇妙であった。


 はじめは胡乱な下士と思った。才はある。だが、才の出どころが分からぬ。海を見ているようで、もっと遠くを見ている。異国を語るようで、異国よりなお外を語る。


 危うくもあった。


 だが、橋であった。


 一人では、成らぬ。


 そんな当たり前を、自分は人に説きながら、己には許さなかった。


 理だけでは人は動かぬ。熱だけでは道は焼ける。上の理と下の熱、そのあわいに橋を架けねばならぬ。自分はそれを説きながら、時に橋であることを忘れ、柱であろうとした。


 柱は折れる。


 橋ならば、渡る者がいる。


 東洋は、白い塔を見上げた。


 あの者らなら、止まらぬ。


 自分がいなくとも、船は出る。帳面は閉じられず、人は押し出され、熱はまた別の器へ移される。すべてが思う通りにはならぬ。むしろ、思う通りになどならぬだろう。


 それでも、止まらぬ。


 そういう者らを、東洋はすでに見ていた。


 己の言葉も、過ちも、苛立ちも、理も、生身のままでは残れなかった。


 だが、渡った。


 ならば、己が戻って導く必要はない。


 理は、己ひとりの所有ではない。


 そう思った時、東洋はようやく理解した。


 死んだのだ、とは思わなかった。


 ただ、あちらでの自分の役目は終わったのだと思った。



 不思議なほど、静かであった。


 悔いがないわけではない。腹立たしさもある。あのまま終わるつもりはなかった。まだ言うべきことがあった。まだ叱るべき者も、動かすべき政も、見届けるべき船もあった。


 だが、それらはもう、己だけのものではない。


 戻れぬから残るのではない。


 託すべきものが、すでに託されたから戻らぬのだ。


 東洋は、そこに在るために、一歩だけ足を移した。


 光る草が、足元で淡く揺れた。


 遠く、白亜の塔は沈黙している。風は、知らぬ言葉を運び、やがて静かに消えた。


 東洋は名乗らなかった。


 誰を呼ぶことも、誰に呼ばれることもなかった。


 ただ、白亜の塔の影が、長く伸びていた。



 ――物語を語り直すその日まで。



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