前日譚 或る藩主の末期
指が、盃の形を覚えていた。
山内容堂は、布団の上に置かれた己の手を眺めた。何も持ってはいない。それでも指は、白磁の縁を探すように、かすかに曲がっている。
明治五年、夏。
江戸は東京となり、藩は県となり、殿と呼ばれた者どもは昔の名札を外された。世は変わった。変わったと、人は言う。
だが、病床の容堂には、それを評する気力もなかった。
勝ったのか。負けたのか。正しかったのか、誤ったのか。そんなことは後の者が好きに書けばよい。歴史とは、生き残った者が墨をつける紙である。死んだ者の血は、乾けば字にはならぬ。
ふいに、耳元で声がした。
――なぜ、武市を死なせたのです。
木戸であった。
いや、今ここに木戸孝允がいるはずはない。あれはいつの酒席であったか。実際にそう問われたのかも、今では定かでない。
ただ、問われた痛みだけが残っている。
半平太は、熱であった。才でもあり、若い者を照らす火でもあった。容堂はその火を器に入れられなかった。
だが、その問いの奥に、もう一人の背が立っていた。
吉田東洋。
その名が胸に浮かぶと、明治の病室が遠のいた。長浜の潮気を含んだ風。城下の埃。酒席のざわめき。その中で、冷水を浴びせるような東洋の声が甦る。
『殿、それは政ではござらぬ。気分にございます』
容堂は、腹を立てた。
腹を立てながら、正しいと思った。
東洋とは、そういう男であった。才は鋭く、理は容赦なく、人の面目を紙のように踏み抜いた。嫌われる男であった。敵を作る男であった。
だが、土佐の先を見ていた。
『殿は、怠け者に見せるのが上手すぎます。されど、土佐は殿が本気にならねば動きませぬ』
褒めているのか、叱っているのか、分からぬ顔で、東洋はそう言った。
あの男は、容堂を甘やかさなかった。見限りもしなかった。
報せの者が来た日のことを、容堂は忘れたことがない。
『吉田殿、凶刃に……』
その先を、しばらく言葉として聞けなかった。吉田殿とは誰のことじゃ、とさえ思った。東洋と呼ばれぬだけで、まるで別人の死のように聞こえた。
だが、別人ではなかった。
吉田東洋であった。
容堂の胸の奥で、柱の折れる音がした。
土佐は続いた。政も続いた。やがて徳川の世は終わり、明治が来た。船は出て、港は開き、若い者らはそれぞれの名を歴史へ刻んでいった。
それでも、容堂の中では、あの日から先へ進まぬものがあった。
国を救えなかったのではない。
日本を救えなかったのでもない。
政に敗れたのでも、時代を読み損ねたのでもない。
ただ、ひとり。
吉田東洋を、救えなかった。
東洋は嫌われた。だが、嫌われ役をあの男にさせたのは誰であったか。
容堂である。
己は殿でありながら、あの男の背に政の棘を負わせた。古き者の怨みも、若き者の苛立ちも、身分の歪みも、藩の遅れも、皆あの背へ集めてしまった。
東洋なら耐えられると思った。
東洋なら斬り抜けると思った。
なんと甘えたことか。
音が遠のく。
東京の夏が遠のく。
かわりに、地の底から低い唸りが近づいてきた。
瓦の落ちる音。
人の叫び。
潮の匂い。
焦げた木の匂い。
懐かしい。
そう思った己を、容堂は不思議に思った。
白い光ではなかった。
死とは、このようなものか。
容堂は、どこか他人事のようにそう思い、静かに目を閉じた。
だが、訪れたのは静寂ではない。
鳴動であった。
病床も、障子も、東京の夏も砕け、容堂は墨を流した水のような黒い揺れに呑まれていった。
◆
「殿、御目覚めにございますか!」
急激に意識が引き戻され、容堂は目を開けた。
天井が違う。
空気が違う。
薬湯の匂いではない。土と煙と、海から上がってきた濁った潮の匂いであった。障子の向こうでは、足音と叫び声が入り乱れている。遠くで、何かが崩れる音がした。
体が動く。
容堂は、ゆっくりと己の手を見た。皺がない。痩せ細ってもいない。指に力がある。
若い。
喜びより先に、ぞっとした。
人は、失う前へ戻りたいと願う。されど戻ったところで、失うべき日までの道が、もう一度敷かれるだけではないか。
容堂は身を起こした。
揺れの名残が、まだ体の奥に残っている。夢ではない。幻でもない。胸の奥には、明治の病床で握り損ねた盃の感覚が残っている。それなのに目の前には、若い近習が青い顔で平伏していた。
「……今は」
声が出た。
病床の枯れた声ではない。若い喉であった。
「今は、何年の何月じゃ」
近習は驚きながらも、すぐに答えた。
「安政元年にございます。十一月……大地震より、城下はいまだ騒然としております」
安政元年。
十一月。
容堂は、そこでようやく、先ほど胸を掠めた潮と煙の匂いの名を知った。
寅の大変。
明治五年の夏から、安政元年の冬へ。
あまりにも遠い。
だが、胸の奥に残る痛みだけは、少しも遠くなっていなかった。
戻ったのか。
戻されたのか。
誰に。
何のために。
理は分からぬ。分からぬまま、ここにいる。
ならば。
「東洋は」
名が、先に口をついた。
近習は、すぐには答えられなかった。
「……吉田殿にございますか」
「ほかに誰がおる」
思いのほか荒い声が出た。
「御無事と聞き及んでおります。長浜の方も揺れは強うございましたが、今のところ大事なし、と」
御無事。
その三文字が、胸に落ちた。
生きている。
まだ、あの背は折れていない。
容堂は笑わなかった。涙も出なかった。今度こそ救う、などという言葉も浮かばなかった。
一度目で救えなかったものを、二度目なら救えるなどと、どうして言えよう。
人の熱は消えぬ。名を替え、場所を替え、時を替え、必ずどこかで刃になる。
救えるのか。
答えはない。
容堂は障子の隙間から、壊れた土佐の空を見た。
地震の後の空は、妙に澄んでいた。澄みすぎて、かえって不吉であった。
東洋は、まだ生きている。
その事実だけが、救いのように胸に沈んだ。そして同じ重さで、もう一度失う日の影も沈んだ。
安政元年の土佐は、壊れたばかりの顔で、容堂の前にあった。
そのどこかで、吉田東洋がまだ息をしている。
容堂は、まだ折れていない背を思い、目を閉じた。
【史実解説】山内容堂の最後
山内容堂、本名・山内豊信は、土佐藩第十五代藩主として幕末の政局に深く関わった人物です。酒と詩を愛し、自らを「鯨海酔侯」と号したことでも知られています。
維新後、容堂は新政府の要職にも就きましたが、明治二年頃には政治の表舞台から退きました。そして明治五年六月二十一日、東京で死去します。数えで四十六歳、満年齢では四十四歳でした。死因は中風、現在でいう脳卒中の類とされています。
容堂の晩年については、いくつかの逸話が伝わっています。その一つに、木戸孝允(桂小五郎)から「なぜ武市半平太を切腹させたのか」と問われたという話があります。また、病床で「半平太、許せ」とうわごとのように口にしたとも伝えられます。
ただし、これらは確実な一次史料で細部まで確認できる話というより、後世に伝わる人物逸話として扱うべきものです。容堂という人物にまとわりついた記憶、あるいは幕末を生き延びた者へ向けられた問いとして見る方がよいでしょう。
史実の容堂が最後に何を悔いたのかは、誰にも分かりません。
けれど、土佐を動かした者たちの多くが維新を見ることなく死に、容堂だけが明治の世まで生き残ったことは事実です。生き残った者には、生き残った者だけの重荷があります。




