第四十九話 物語を語り直すその日まで
サンフランシスコは、双翔丸を容易には離してくれなかった。
新聞、商人、造船所、役人、写真師。船も人も、いくつもの手に掴まれた。だが、長居はできない。旅はさらに東へ進まねばならなかった。
短い滞在の間に、竜馬は新世社のための名刺と紹介状を懐へ増やしていた。石炭、工具、紙、印刷、薬品。品そのものではない。品へ至る人の名である。
港を離れる船の上で、竜馬は懐を軽く叩いて笑った。
「品ではなく、順を持ち帰るがじゃ」
藤兵衛は、その言葉に目を細めた。
「江戸で覚えた言葉か」
「そうじゃ。銃を買うても、玉が尽きりゃ終いじゃ。石炭を積んでも、次の石炭へ届く口が無けりゃ続かん。紙も薬も、みな同じじゃ。品には、順がある」
竜馬は、遠ざかる港を振り返った。
「サンフランシスコは広い。けんど、広いだけやない。人と物と銭が、よう回りゆう。回るき、また次の物が集まる。あれは町というより、流れじゃのう」
かつて「新しき世を作る」と笑っていた若者が、いまは海の向こうで、品ではなく順を拾っている。
藤兵衛は、その変わりようを面白く思った。
そして、少しだけ頼もしくもあった。
サンフランシスコを離れる時、港の灯はまだ騒がしかった。双翔丸を見送る者もいた。新聞売りが紙束を抱えて走り、造船所の職人が船尾を指さし、商人たちは帽子を振った。
あの町は、見たものをすぐ言葉にし、言葉をすぐ商いにし、その商いをまた次の道へ変える。
藤兵衛は、それを面白いと思った。
恐ろしくもあった。
海を越えた先には、ただ広い土地があるのではない。速さがある。欲がある。声がある。人を集め、物を集め、さらに別の場所へ押し出す仕組みがある。
双翔丸は太平洋を越えた。
だが、ここから先は船だけではない。
彼らは、太平洋岸から大西洋岸へ抜けるため、パナマ地峡へ向かった。
海を船が進み、港が人を受け、鉄道が地を割るように走る。車輪が鉄の上を鳴り、人と荷をまとめて運んでいく。馬より速く、駕籠より多く、川よりも気まぐれでない。
藤兵衛は、初めてその鉄の道を見た時、しばらく言葉を失った。
海には海の道がある。
ならば、地にもまた、人の作る道があるのだ。
窓の外で景色が後ろへ流れていく。木々も、川も、小さな集落も、赤い土も、すべてが一本の線の上を過ぎていった。
治郎兵衛は、車輪の音に耳を澄ませていた。
「よう揃うちゅう」
「何がじゃ」
竜馬が尋ねる。
「音じゃ。同じ間で鳴りゆう。鉄も、車輪も、継ぎ目も、乱れたらこうは鳴らん」
治郎兵衛は窓の外を見たまま言った。
「船だけ見てもいかん。港だけ見てもいかん。道も要る。道を保つ者も要る。どこも同じじゃ」
藤兵衛は頷いた。
サンフランシスコで治郎兵衛が見たもの。港、桟橋、石炭置場、修繕場、滑車、鋲、同じ寸法で鉄を打つ手。それらは、この鉄の道にもつながっていた。
一人の才ではない。
一人の手柄でもない。
町が手を持ち、国が道を持つ。
それが、この国の力であった。
万次郎は、行く先々で言葉を渡した。役人へ、船員へ、鉄道の者へ、宿の者へ。時に細かく、時に大まかに、時にわざと曖昧に。
「言葉とは、不便なものですな」
藤兵衛が言うと、万次郎は少し笑った。
「はい。けんど、こればあ便利なものもありません」
「間違えば、争いに」
「届けば、橋になりますき」
万次郎は窓の外へ目を向けた。
「ただ、橋も道も、渡る者がおって初めて働くがです」
その言葉は、藤兵衛の胸に残った。
◆
旅はさらに東へ進み、大西洋側へ出た。
空気が少し変わった。港の匂いも、人の声も、サンフランシスコとは違っていた。荒々しい熱は薄く、代わりに目に見えぬ筋が町を通っている。
やがて彼らは、ワシントンへ至った。
そこには、サンフランシスコのようなむき出しの勢いはなかった。街は整い、道は落ち着き、人々の声も低い。だが、静けさの底に別の力がある。熱をそのまま晒すのではなく、形の内へ納めている町であった。
役人の歩き方。軍人の制服。扉の開き方。書類の置き方。礼の順。席の位置。言葉を発する時と黙る時。
一つ一つは小さい。
けれど、その小さなものが積み重なって、人を正しい場所へ導いていた。
サンフランシスコは港であった。
ワシントンは、器であった。
声や欲や熱を、そのままにせず、形へ収める器である。
そいて、安政七年三月三日。日本からの使節団は、整えられた儀礼の中へ進んだ。
白い館の内は、思っていたよりも静かであった。人の気配は多い。だが、誰もが自分の立つ場所を知っている。正使が進み、副使が続き、通訳が控える。万次郎の顔からは、いつもの柔らかさが少し消えていた。
竜馬も黙っていた。
治郎兵衛は、柱や窓の作りだけでなく、この部屋が人をどう立たせ、どう歩かせるかを見ていた。
藤兵衛は、少し後ろに控えながら、その一つ一つを目に入れた。
やがて、言葉が交わされた。
大統領が応じ、使節が礼を述べる。万次郎が声を渡し、書状が示される。そこにある言葉は、刀の斬り合いよりも静かで、砲の音よりも柔らかい。
だが、その紙は港を動かし、船を動かし、人を動かす。
藤兵衛は、その恐ろしさを思った。
紙は薄い。
筆は細い。
けれど、その薄さと細さの向こうに、海を渡ってきた船があり、港があり、町があり、人の暮らしがあり、国の面目がある。
筆が紙に触れる。
ただそれだけのことに見えた。
だが、その薄い紙の向こうに、どれほど多くの手が重なっているかを、藤兵衛は思った。
東洋が理を置いた。
容堂がそれを許した。
万象が機巧へ通した。
治郎兵衛が船の形へ落とした。
竜馬が人の名を拾い始めた。
万次郎が言葉を渡した。
良輔と退助が若い熱に置き所を与えた。
職人たちは鉄を打ち、船乗りたちは波を読み、名もなき者らが荷を担い、火を絶やさず、綱を引いた。
鳴龍丸が走った。
世さ来いで、人の熱が鳴った。
六角通では、その熱が刃にもなりうることを知った。
それでも、双翔丸は海を越えた。
今、その先にある紙へ名が置かれる。
藤兵衛は、ふと勝浦浜の波音を思い出した。
あの日、自分は何も持たずに帰ってきた。
行李も、交易品も、異界の品々も、形あるものは何一つ残らなかった。手元にあったのは、見たもの、聞いたもの、知ったもの、それだけであった。
それを、東洋は拾った。
”見たものは、一人の胸で腐らせるな”
あの人は、言葉にはせずとも、確かにそう告げていたのだろう。
藤兵衛は、その時ようやく分かった気がした。
自分は、何かを成し遂げるために戻ったのではない。
自分一人の名を立てるために戻ったのでもない。
見たものを、人へ渡すために戻ったのだ。
異なる世で見た理。
異なる者らが、それでも通じようとした姿。
それを、この世の人の手へ渡す。
渡したものは、自分のものではなくなる。
それでよい。
むしろ、そうでなくてはならない。
理は、胸に抱えて守るものではない。
人の手へ移り、その人がさらに先へ持っていくためのものだ。
理の先へ。
その言葉が、胸の内に静かに浮かんだ。
理は、そこに留まるためのものではない。
人を先へ行かせるためのものである。
海の先にこの国があった。
この国の先に、さらに欧羅巴がある。
その先にも、まだ知らぬ国があり、まだ知らぬ理があり、まだ出会っていない人がいる。
旅は、ここで終わらない。
勝浦浜からここまで来た。
だが、ここもまた途中でしかない。
自分が渡したものを、竜馬が別の人へ渡すだろう。
治郎兵衛は、港と船渠と道の形へ落とすだろう。
良輔と退助は、人を藩の腹へ納めてゆくだろう。
名もなき若者らもまた、それぞれの置き所から先へ手を伸ばしていくはずだ。
そしていつか、自分が見たものも、自分の口から出た言葉とは違う形で語られるだろう。
竜馬はそれを、もっと大きな笑い声と一緒に語るかもしれない。
治郎兵衛は、船や港や道の話として語るだろう。
万次郎は、言葉の橋として静かに渡すだろう。
良輔と退助は、人を置く仕組みの話として残すだろう。
まだ名のない若い者らは、それをまた別の熱として受け取り、別の名をつけて語るかもしれない。
それでよい。
物語とは、一人の胸に閉じておくものではない。
誰かが受け取り、少しずつ違う形にして、また次の者へ渡してゆくものである。
――ならば、もう自分一人が抱えている必要はない。
藤兵衛は、ほんのわずかに笑った。
ここから先は、誰かが持ってゆく。
そして、その誰かのさらに先へ、また別の誰かが持ってゆく。
そうしていつか、また別の誰かが、今とは違う言葉で、この旅を語り直す日が来るのだろう。
その時、自分の見たものが、自分の知らぬところで、誰かの道になるならば、それでよい。
理は渡った。
人がそれを持って、さらに先へ行く。
その時、藤兵衛は、自分がようやくこの世へ帰り着いたのだと思った。
―――同日。
安政七年三月三日。
吉田東洋、死す。




