第四十八話 二つの翼
安政七年二月七日。
サンフランシスコ湾には、まだ朝霧が残っていた。
ブレット・ハートが桟橋へ着いた時、港はすでに騒がしかった。荷馬車の車輪が濡れた板道を軋ませ、水夫たちが怒鳴り合い、税関の役人が外套の襟を立てて足早に行き来している。いつもの港の朝である。
だが、そのざわめきの底に、いつもとは違う熱があった。
日本の船が来る。
昨夜から街では、その噂でもちきりだった。日本の使節が来るという話なら、新聞の端にもなろう。だが今朝の噂は、それだけではない。
日本人が、自分たちの船で来る。
しかも、妙な形の蒸汽船で。
ハートは文芸新聞『ゴールデン・エラ』へ記事や芝居評を持ち込む若い書き手である。港の珍事や酒場の噂を拾い、気の利いた文章に仕立てる。そういう仕事に、彼は自分でも嫌になるほど鼻が利いた。
刀を差した東洋の役人たちが、自分たちの船で太平洋を越えて来る。
そんな話を逃す手はない。
だが、霧の向こうに船影が見えた瞬間、彼は足を止めた。
はじめ、それは二隻に見えた。
黒い船腹が二つ、並んで湾へ入ってくる。金門の海峡に残る霧を割り、鉛色の水面へ二筋の白波を引いていた。
「二隻か?」
隣の水夫が呟いた。
ハートもそう思った。だが、すぐに違うと分かった。
二つの船腹の上を、一本の広い甲板が渡っていたのである。左右の胴は同じ速さつの船腹の上を、一本の広い甲板が渡っていたのであるで水を割り、中央から煙突が細く黒い煙を吐いている。帆柱はあるが、帆は畳まれていた。
外輪がない。
ハートはそこで眉を寄せた。蒸汽船なら、船腹の横に大きな輪があるはずだった。少なくとも、この港の者たちが見慣れた蒸汽船はそうである。だが、この船にはそれがない。
それなのに、船尾の水だけが白く泡立ち、見えない何かが湾の水を噛んでいた。
「スクリューだ」
年嵩の水夫が帽子を持ち上げて呟いた。
「外輪じゃない。スクリューで来たんだ」
その一言で、周囲のざわめきが一段変わった。
珍しい船ではない。
新しい船なのだ。
しかも、その船は妙に静かだった。湾には小さな波があった。入ってくる船はみな少しは肩を揺らし、腹をきしませる。だが、その船は違う。波に押されるというより、波の上に自分の道を敷いて進んでいるように見えた。
子供が叫んだ。
「翼みたいだ!」
群衆がどっと沸いた。
二つの翼。
日本の船。
スクリューで来た侍の船。
言葉は人から人へ渡るうち、みるみる形を変えながら広がっていった。
ハートは手帳に、正式名の代わりに一語を書いた。
Twin Wings.
正式な名ではない。だが、目の前の船を呼ぶには、それ以外の言葉が思いつかなかった。
船は速度を落とし、港の内へ滑り込んでくる。大きな船体が信じがたいほど静かに向きを変えた。
桟橋の人影が増え始めた。造船所の職人が手を止め、税関の役人が帽子を押さえて走る。酒場の戸口から金鉱帰りの男たちが顔を出し、新聞売りの少年が、まだ刷ってもいない号外の値段を叫ぶ。
甲板には人影が並んでいる。
黒い羽織、袴、腰の刀。見慣れぬ結髪。
彼らは群衆の視線を浴びながらも、驚いた顔を見せなかった。むしろこちらの町を、船の上から測っているように立っていた。
船の名はまだ知らない。
だが、記事はもう動き始めていた。
◆
甲板の上で、藤兵衛は港を見ていた。
サンフランシスコという町は、海から見ても若かった。
長崎のような古い折り目がない。浦戸のように山と海に抱かれた静けさもない。坂は荒く、建物は急ごしらえで、桟橋には材木と鉄と荷箱がむき出しに積まれている。
だが、その荒さの奥に、途方もない勢いがあった。
人がいる。
白い顔、日に焼けた顔、黒い髭、赤い髪。中国人、メキシコ人、船乗り、商人、役人、女、子供。声が重なり、馬が嘶き、荷車が軋み、新聞売りが叫ぶ。誰もが何かを売り、何かを買い、何かを探していた。
歓迎されている。
それは分かる。
だが、それだけではない。
見られている。
値踏みされている。
「こりゃあ、国ごと市じゃのう」
隣で竜馬が笑った。
竜馬は、手すりから身を乗り出すようにして港を見ている。目は子供のように輝いているが、その奥はただの物見遊山ではない。人の流れ、声の強さ、近づいてくる者の顔つき、そういうものを先に追っていた。
「市ではない」
藤兵衛は答えた。
「市が国になりかけちゅうのじゃ」
「ほう」
「人が集まる。物が集まる。銭が集まる。声が集まる。そうすれば、そこに力が生まれる」
竜馬は港を見たまま、にやりとした。
「身分より先に、声が立つ町じゃのう」
「声だけではない。金と腕も立つ」
「なら、わしは嫌いではない」
「おまんは、どこへ行っても嫌いにはならんろう」
「そうでもない。退屈な所は嫌いじゃ」
藤兵衛は少し笑った。
一方で、治郎兵衛はまったく違う場所を見ていた。
「桟橋が太い」
ぽつりと言う。
藤兵衛と竜馬が同時に振り向いた。
「そこか」
竜馬が呆れたように言うと、治郎兵衛は真顔で頷く。
「そこじゃ。船を迎える町は、まず足場に出る」
治郎兵衛の目は群衆ではなく、木材の組み方と水深と荷役の動線を追っていた。倉庫の位置、石炭の積み場、修繕場、帆柱の森、荷を吊る滑車。彼の中では、港全体が一枚の図面になっているのだろう。
「船は海を渡る。けんど、国を渡らせるのは港じゃ」
その声には悔しさがあった。
「浦戸も宿毛も、まだ船を迎える口じゃ。ここは、船を呑む腹を持っちゅう」
藤兵衛は頷いた。
双翔丸は海を渡った。
だが、船一艘で国が海へ出るわけではない。
船を造る者がいる。測る者がいる。港を整える者がいる。石炭を積む者がいる。荷を数える者がいる。言葉を渡す者がいる。
そのすべてが揃って、初めて国は海へ出る。
「藤吾殿」
中浜万次郎が近づいてきた。
米側の役人としばらく話していたせいか、顔に少し疲れが見える。だが、その英語の響きは港の空気へ自然に溶けていた。
「まもなく迎えが来ます。市の役人と、新聞の者たちもおります」
「新聞の者か」
「はい。ここでは、紙がよく働きます」
万次郎は港を見た。
「黙っちゅう者は、分からん者と思われます。日本では黙ることが礼になることもありますが、ここでは、言わねば無いものにされることもあります」
「言わねば、無いものにされる」
藤兵衛はその言葉を口の中で繰り返した。
「ならば、話さねばならんのう」
「はい。ただし、何を話し、何を黙るかは、同じくらい大事です」
「それは、どこの世でも同じじゃ」
万次郎は小さく笑った。懐かしい英語のざわめきに耳を傾けるその横顔には、少しばかりの苦みもあった。戻ってきた者だけが持つ顔だった。
その時、桟橋から数人が近づいてきた。役人らしき男、市の者、そして手帳を握った若い男がいる。さきほど船を見上げていた書き手だった。
米側の役人が形式どおりの挨拶を述べる。万次郎がそれを受け、正使のもとへ伝える。双翔丸の甲板には、まだ潮と石炭と木材の匂いが混じっていた。公式の儀礼が始まったというのに、桟橋の群衆は少しも静まらない。むしろ増えていた。
サンフランシスコは、珍しいものを見慣れた町である。
だが、この日の双翔丸は、その町の目をも止めた。
人々は侍を見たがった。新聞は言葉を欲しがった。役人は儀礼を整えたがり、商人は商いの口を探った。
そして港の職人たちは、なお船尾の水を見たがっていた。
外輪がない。
だが、動く。
その一点だけで、双翔丸はただの異国船ではなくなっていた。
やがて、万次郎が若い書き手を連れて戻ってきた。
「この者が、先ほどの新聞の書き手です。名はブレット・ハート」
ハートは慣れぬ礼をし、船を見上げた。目は甲板の侍たちより、煙突、船腹、船尾の水の乱れへ何度も戻っている。珍しい服装より、船そのものへ心を奪われているらしい。
藤兵衛は、それを少し好ましく思った。
ハートはまず船の名を確かめた。
双翔丸。
耳慣れぬ響きを、彼は万次郎の発音に合わせ、手帳へ慎重に写した。
Soshomaru.
それから顔を上げる。
「その名には、意味がありますか」
万次郎が藤兵衛へ向き直った。
「名の意味を問うています」
藤兵衛は少し考え、ハートへ目を戻した。
答えは、英語だった。
「双翔とは、二つの翼という意味です。片翼は理、もう片翼は人。理だけでは進めず、人の熱だけでは舵が利きませぬ。二つ揃って、初めて海を越える」
ハートの鉛筆が止まった。
通訳の声を待つつもりでいた耳に、相手の言葉が直接届いたのである。しかも、それは覚えた挨拶ではなかった。船の名を、船の形に、船の形を国の姿に結びつける言葉であった。
ハートは、手帳の端に書いた自分の仮名を見下ろした。
Twin Wings.
偶然ではない、と彼は思った。
この船は、初めからそう見られるだけの姿を持って来たのだ。
「二つの翼……理と、人」
ハートは確認するように呟いた。
藤兵衛は頷いた。
「理だけなら、人は動かぬ。人の熱だけなら、船は迷う。船も、国も、同じです」
ハートは急いで鉛筆を走らせる。その横で、竜馬がこらえきれずに笑った。
「また相手の懐へ先に入ったのう」
藤兵衛は答えず、ハートを見ていた。
紙の上で、双翔丸はまた別の姿になろうとしている。
そこへ、別の記者が割り込んできた。続いて、税関の役人が補給の話を持ち出し、商人らしき男は石炭の質を売り込み、別の男は船を見学できるかと尋ねる。造船所の者たちは、船尾を見たい、スクリューの軸を見たい、左右の胴にそれぞれ機関が入っているのかと聞いた。
問いが、雨のように降ってきた。
万次郎はそれを一本ずつ受け止め、返せるものだけを返した。返せぬものは笑って流した。
「船体構造については、すべては申せませぬ」
「見学は一部だけです」
「機関室はなりませぬ」
「砲については、儀礼上のものとお考えください」
竜馬が小声で言った。
「万次郎殿、よう口がもつのう」
「口がもたねば、船がもたんこともあります」
「なるほど。口も艫綱か」
万次郎は少しだけ吹き出した。
藤兵衛はその様子を見ながら、声の速さに圧倒されていた。
ここでは、何もかもが速い。
噂が速い。問いが速い。値踏みが速い。礼も、商いも、好奇も、同じ道を駆けてくる。
油断すれば、こちらの形を相手に勝手に決められる。
だが、恐れて閉じれば、何も伝わらない。
見せるものを選び、話す言葉を選び、黙る場所を選ぶ。
それは刀を抜くより、よほど難しい。
「藤兵衛」
治郎兵衛が低く言った。
「向こうは双翔丸を見たがっちゅう」
「そうじゃな」
「わしは向こうの船渠を見たい」
「お互いに腹を探り合うがか」
「海では、それを挨拶と言う」
竜馬が腹を抱えて笑った。
「まっこと、おこぜの藤橘じゃ」
その言葉を聞いて、藤兵衛は少しだけ苦笑した。
おこぜの二兵衛。
かつてそう呼ばれた二人が、今は藤吾と橘治として、この異国の港に立っている。名は変わった。立つ場所も変わった。だが、泥の中でも進む性分だけは変わっていない。
◆
夜、双翔丸の甲板へ戻ると、サンフランシスコの灯は湾の水に滲んでいた。
竜馬はまだ街へ戻りたそうにしていた。治郎兵衛は借りた紙に港の見取りを描き込んでいる。万次郎は疲れた顔をしながらも、遠くから聞こえる英語のざわめきを懐かしそうに聞いていた。
藤兵衛は、一人、手すりに手を置いた。
勝浦浜の波音を思い出す。
あの日、何も持たずに帰ってきた。行李も、交易品も、異界の品々も消えていた。手元に残ったのは、見たもの、聞いたもの、知ったもの、そして戻ると決めた己だけであった。
だが今、双翔丸はこの湾にいる。
自分一人の胸にあったものは、船になり、人になり、言葉になり、海を越えた。
片翼は、理。
もう片翼は、人。
その言葉を口にしたのは自分だ。だが、その二つがどこまで遠くへ翔べるのか、まだ誰にも分からない。
湾の外では、金門の霧が夜の中へ沈みかけていた。
答えはまだ、その向こうにある。
この船はさらに東へ向かう。海を越え、地峡を越え、鉄道と川と街を越え、白い館のある都へ向かう。
藤兵衛は、静かな船腹の震えに手を当てた。
己が帰ってきた意味の輪郭が、ようやく少しだけ、見え始めていた。
【史実解説】万延遣米使節と若きブレット・ハート
史実の万延元年遣米使節団は、史実では日米修好通商条約の批准書交換のために派遣された使節です。正使は新見正興、副使は村垣範正、監察役にあたる立場で小栗忠順が加わり、使節本隊はアメリカ軍艦ポーハタン号で太平洋を渡りました。咸臨丸はこれに随伴して渡米していますが、使節本隊とは別行動でした。
サンフランシスコでの歓迎は、かなりの物珍しさと熱狂を伴うものでした。日本からの公式使節そのものが珍しく、しかも「遠い東洋の武士たち」が太平洋を越えて現れたのですから、当時の新聞や市民が強く反応したのは当然でした。後年の研究でも、サンフランシスコ到着時には熱狂的な歓迎があったこと、また道中には好奇と興奮に満ちた群衆が集まったことが確認できます。
一方、新聞記者ブレット・ハートも実在の人物です。1836年生まれで、1854年にカリフォルニアへ渡り、各地で職を転々としたのち、1860年にはサンフランシスコの新聞に関わり、最初期のスケッチを発表し始めた時期にいました。のちにゴールドラッシュ時代のカリフォルニアを描く短編で名を成す作家ですが、この時点ではまだ若い新聞人、書き手の卵といった方が近い存在です。
実際の遣米使節団もまた、単なる外交儀礼ではなく、新聞、群衆、好奇心、商売気といった「新しい都市の熱」の中へ迎えられています。そう考えると、日本の使節団がサンフランシスコで浴びた熱狂は、相手が東洋の侍だったからだけでなく、ゴールドラッシュ後の若い都市そのものが、珍しいものと新しいものに飢えていたからでもあったのだろうと思います。
史実のハートも、使節団を見て熱狂した一人だったのかもしれません。




