012 泡沫
警察が家に来てから一カ月、今僕は夏休みの真っ只中にいる。
学校で出会った後輩、川向榀の姿は、あれ以降見ていない。
だからどうしたと言われればそれまでなのだが、どうしても頭の片隅にあの少女の顔がチラついてしまって、ここ最近まで全く落ち着かなかった。
「恋じゃん」
「は?」
「だぁ~か~ら~、恋じゃん。それ」
平日真昼間のファストフード店、ハンバーガーハウスにて、僕はたった一人の友人である水無月真司に事の経緯を話し聞いてもらっていた。その結果、どうやら僕は今恋をしているという。
まったく冗談じゃない。こんなモノクロの世界で右にも左にもマネキンしかいないというのに、一体誰に恋をすると言うのか。
「川向の事をずっと考えてんだろ?」
「うっ、ま……まぁ、そうかな」
何故こんなにも気にして来るのか。まったく、色恋に貪欲な友人というのも困ったものだ。
「どこか出かけたり、一緒にこうやって食べたり話したいんだろ?」
「だったら何だよ………………」
なんだか気まずい。それにむず痒い。
「キスしたいとか~それ以上に~」
「なっ、そ、そんな事——」
「あるんだろ?」
「………………別に、そういうんじゃ、ない」
あの子をそういった目で見ていないわけではないが、どこか彼女はそういった部分で壁のようなものを作っている気がする。上手くは言えないしそれが何かは分からないけれど、形容しがたいそれがあるからこそ、もしかしたら気になるのかもしれない。
「恋だろ」
「…………………………………………」
これ以上反対したところで、ミナを喜ばせるばかりか。
昼食を終えて帰路に着いた。しかし、頭の中は、やはり彼女の顔がチラついてしょうがない。
道を歩いているだけで、もしかしたらすれ違うのではないか。そんなことまで考えてしまっている。
――馬鹿だな俺。こんな世界に価値なんかないだろうに。
心の中で、姿形の見えない誰かがそう言った。
「世界に価値が無くても、人にはあるかもしれないだろ」
何を言っているのだろう。見えもしない誰かに語るなんて、これまでなかった。
「人にも価値なんかないとおもいますよ先輩」
「は? へぇ?!」
いつの間にか、背後に彼女がいた。
一瞬、幻覚まで見始めたのかと勘繰った。しかし、そこに幻聴まで加わればそれは病気だ。
自分が病気を患うなど、今を生きる人間はまず考えない。それに、心のどこかでこれが現実であってほしいと願っている自分がいた。
「こんにちは、三浦先輩」
「こ、こんにちは、川向さん」
囚人服にしか見えない、学校という名の監獄に隷属する印の制服。それを着ていながらも彼女だけは、他とは違って見えた。目や鼻の輪郭、それに体格や骨格も、彼女だけは他のマネキンにはない命とでも呼ぶのか、他にはない『生』を感じた。そしてそれは今この場でも確認できた。
華やかさも煌びやかさもない、シンプルなシャツとパンツで全くと言っていいほど露出をしていないが、それでも道行く人形たちとは全く別に見える。
友人のミナですら、道端で向こうから声を掛けられなければ気付けないのに、彼女だったらこちらから見つけられる自信がある。
「今日は、これからどこかに出かけるのか?」
「買い出しです。その、一人で暮らしているので」
「そっか。…………手伝おうか?」
「はい?」
――馬鹿が、何言ってんだ俺は。
心の中にいる誰か、もしくは何かが、唾を吐き捨てこちらを睥睨して来た。
仕方ないだろう。僕は心の中でそれに反論を試みる。
気づいた時には口から出ていたんだ。完全な無意識の言葉だ。
――それで済むと思ってんのか? どうすんだ、これで変に相手を刺激したとしたら。
刺激? ただ学校の後輩と話してるだけだろ。
——現実世界で迂闊な事をすると痛い目を見る。そういうもんだろ。
だからこの色の見えない退屈な世界では、ただ息をするだけにしろ。そう言いたいのか?
——ああそうだ。もし呼吸以外をしたいならプラグを変えろ。俺の記憶をくれてやる。
ふざけんな。僕は現実を捨てるつもりも、夢を見るつもりもない。
「先輩、折角ですけれど流石にそれは……」
「そうだな。すまん、忘れてくれ」
「…………いえ」
「じゃあ、また学校で」
「………………やっぱり、手伝ってもらえませんか?」
「は?」
——は?
彼女は本気で言ってるのか? さっき一人暮らしだって言ってなかったか?
——お前が決めた選択だ。こっちに持ち込むなよ。
「分かった」
「ありがとうございます。買うものが多かったので助かります」
突然の出来事に、川向も困惑しているようだった。
何で誘ったこっちも、それに乗った相手も困惑してんだ。おかしいだろ。
「それじゃあ、行きましょう」
「あ、ああ」
こうして、突発的に夏休みのイベントは始まった。
最初に向かったのは、何ら特筆する事もないコーヒーのチェーン店。誘いはこちらから出した。
最初こそ川向は一人暮らしだからという事で断ろうとしたが、代金はこちらで持つという事で入った。
「甘い物、好きなんですか?」
「ん~? ああうん、好き」
ビクリと両肩を跳ね上げた川向に驚き、口に近づけていたストローが明後日の方向へと突き出て頬を掠めた。
「な、何?」
「いえ、別に…………」
どこか気まずくなってしまった。
元から話しが好きな子ではないらしく、こちらもそこまで話すネタもないため、結果無言で砂糖に塗れた飲み物を啜るばかりになった。
「川向、さんは――」
「はい?」
「何か好きなものとかあるのか?」
驚いたように左右非対称の目を見開いた川向は、こちらの質問にどう答えようかと視線を宙に彷徨わせた。返答があったのは、それから十数秒ほど経った後だった。
「レムシス、です」
「へぇ、それなら僕もやってる」
「そう、ですよね」
というよりも、レムシスをやっていない人の方が少ない時代だ。受け答えをミスった。
「先輩はどれなんですか?」
どれ? それはレギルスなのか、アウターなのか。それともフリーなのか。それが知りたいという事だろか。
いや馬鹿か僕は。そもそも第一ノーツの話をしているとは限らないだろ。
レムシスには第一から第三ノーツまで存在していて、それぞれ世界が全く異なる。
女子高生の好みは知らないが、物静かなところを見るに、第三ノーツの『ステラ・イフ』辺りだろうか。牛や馬に囲まれた牧場生活が彼女に似合うかと言われれば、それはまぁ、別問題な気がするが…………。ああ、そうか。彼女の雰囲気が、殺伐としたサイバースシグマにマッチしていると感じたのか。
「さあ。知らない」
「し、知らない?」
驚きにまたも目を見開いた川向のその表情は、見ているだけでこちらの空洞が広がった胸に、じんわり温かな熱が入って来るようでなんだか穏やかな気持ちにさせてくれた。
「記憶保持機能を持ってないプラグを使ってるんだ」
「もしかして、初期型のプラグを?」
「そう、無印プラグ」
「…………今時、初期型を使ってる人は初めて見ました」
「そうだろうな」
「………………………………」
何かを言いたそうに口を開きかけた川向だったが、結局それを口にすることなく、真っ黒に染まった液体を口に運び誤魔化した。
何だ、何を言おうとした?
――それぐらい察してやれよ。
胸の空洞の奥底で、何かがそう言った。
「それじゃあ、そろそろ行こうか」
「は、はい…………」
それからは、当初の目的だった川向の買い物に付き添い、食べ物や日用品、その他女性の必需品などを彼女の言った通り大量に買って行った。
ただ一つ、スーパーやドラックストアに寄ったとき、あからさまに化粧品を避けているのは、気になった。そんな頻繁に買うものではないのか? この業界はあまり詳しくないからわからない。ただ、歳頃の少女ならば、買わないまでも商品棚を眺めたりしていた気がする。
――訊くべきじゃないな。
まぁ、僕との買い物を早く終わらせたいとか、その辺だろう。
「私の買い物なのに、荷物を持ってもらってしまって――」
「こっちから言い出した事だし、気にする事ないよ」
「ありがとう、ございます」
買い物を終えて、彼女の暮らすアパートへと道を案内された。
木造建築の古びたアパート。あまり贅沢な暮らしはしていないらしい。一人暮らしと言っていたが、バイトはしているのだろうか。それとも親の仕送り?
歳頃の少女の内情を、あまり探ったりするのはセクハラに当たりそうだし訊くに聞けない。
そもそも、そんな事を何故気にする。まったく知らない同じ学校の生徒というだけの関係だ。
「それじゃあ、僕はこれで」
荷物を玄関口に置き、早々に立ち去る。この選択が、このイベントでの最善手のはずだ。
「あ、あの!………………え、と……その………………もしよければ、ご飯、食べていきませんか。もう、日が暮れますし」
「へぁ!?」
変な声が出てしまった。心臓も痛いほど飛び跳ねた。僕の臓器は、こんな動きもできたんだな。初めての感覚だ。
「え、あぁじゃあ、御馳走に、なります」
何で承諾してんだ僕は。ここではさっさと帰るに限るだろ。しかし、思考と体は相反した働きをして、帰るべきだという言葉を無視して体はその場に縫い止められたように動かなかった。
「どうぞ」
「お邪魔します」
玄関を通り、五畳一間の簡素な部屋へと上がった。
木箱を乗せたラックを隣にした勉強机と、レムシスが載せられたベッド以外には何もない部屋。
女子高生にしては殺風景な部屋だと言うのに、どうしてこんなにも綺麗に見えるのだろう。
目が覚めるようなどこまでも突き抜けた青い空も、力強い生命力を感じさせる青々とした草原の風の通り道も、白雲を突き抜け、この世の神秘を貫き通した高い山脈すら、見ても感じても登っても、何一つ感情が動かなかった己の胸に、不可思議な熱が入り込むのを感じた。
「あまり、得意なわけじゃないんですけど」
そう言って廊下と一体化した調理台で支度を始めた川向の姿をぼんやりと見ながら、静かに待った。
別に料理にうるさいわけでも、美食家なわけでもない。どちらかと言えば、食事への関心は薄い方だ。食べられればそれでいい。美味しければラッキーくらいにしか感じていない。
どうせ喉を過ぎれば、熱さは忘れてしまうのだから。
窓から差し込む日差しが朱に染まり、向こうの景色が藍色に染まり出した頃、川向がお盆を両手に部屋へと戻った。
「できました」
そう言って足の短いテーブルに乗せられたのは、着飾った様子の一切ない、白ご飯に肉じゃがと豚汁だった。
「うまそう……」
自然と口から出た言葉に自分自身で驚いた。昔から、家族と外食に行った時ですら出なかった言葉だ。
「いただきます」
両手を合わせてから箸を取り、ジャガイモと豚肉を摘まんで口へと運ぶ。
「どう、ですか?」
「うまい…………。凄く、うまい」
別に味付けが特殊だとか、感動したとかではない。ただ、それ以外の言葉が見つからなかった。それはまるで、産まれて初めて己の感覚を自覚した幼子のような、登頂の難しい険しい山を登り切ったような、そんな不思議な感じが全身を包み込んでいた。
「よかったです」
初めて、彼女の笑った顔を見た。
これまで無表情か驚いた顔しか見た事が無かったが、ぎこちなくて錆び付いたロボットのように口角を持ち上げたその顔は、なんだか脳を直接揺さぶられているようだった。
それ以降、互いに特別話す事もなく、黙々と食事を続けた。
皿の上に乗っていたものがすべてなくなり、川向が片付けの為に立ち上がった頃、ようやく口を開いた。
「ご馳走様でした。片付け手伝うよ」
「ありがとうございます」
二人並んで台所に立ち、食器を洗って片付けて行く。
どこか別の世界にでも迷い込んでしまったような、時間がここだけ止まっているような、ヘンな感触だった。
「それじゃあ、僕は帰るよ」
すっかり日が暮れてしまっていた。これ以上邪魔しては、警察でも呼ばれかねない。
「あ、あの………………また、学校で………………」
「あ、ああ………………」
背筋がむず痒くなるようなお別れの言葉を交えてから部屋を出た。その後どうやって帰ったのか、記憶は曖昧だ。気づいた時には自分の部屋のベッドに転がっていた。
今日の自分は、どうかしていたんだ。朝からミナと遊んで、昼時には似合わない相談事を持ち掛け、女子高生とお茶をしてそのまま買い物を手伝って…………これだけでも変なのに、その上他人の家に上がって食事を共にした。
もしかしたら、本当にどこか病気なのかもしれない。だとしたら、一体どんな病気を患ってしまったのだろう。頭の中で、馬鹿げた一つの言葉がずっとグルグル回っている。
「ミゲル、恋って何?」
『キーワード恋デ検索シマス』
頭の中でずっと飛び回る単語を口にした途端、それは存在をさらに強めて脳を縛り付けて来た。
頭が痛い。心臓が鼓動を速めて胸も痛い。疲労で体が重いのに、今すぐにでもどこかに走り出してしまいたくなる。
『検索シマシタ。
恋とは、特定の相手に惹かれ、時間を忘れて深く思いを寄せる感情のことです。自分の気持ちの中心となることが多く、相手に会いたい、相手の事をもっと知りたいと願う強いエネルギーを伴います』
ネットに転がっていそうな典型文が目の前に表示された。
こんなものに自分が振り回されていると、本気で言っているのか。
「阿保らしい…………寝るか」
ベッドの上に乗せられた円盤型夢拡張共有端末『レムシス』から伸びた赤いケーブルを拾い上げ、その先端についたフールの接続プラグの根元を握り、背骨に沿って取り付けられた拡張端末へと接続する。
頭の中で花火が打ちあがり、瞼の裏では一瞬光の花を咲かせて散った。
「そういえば、あの子もやってるんだったっけ。どのノーツにいるんだろ………………」
体を包み込む浮遊感に思考能力が振り落とされて行くのを感じて、それに合わせて重い瞼を閉じると、それ以降は何も考えずに暗闇の奥底に落ちて行った。
今日は体力も気力も限界以上に消費したらしい。瞼を閉じた途端に襲って来た睡魔に飲み込まれ、暗闇の底を歩き回っていた意識もすぐにかき消された。
虹色のトンネルに踏み込みながら、最後にもう一度、今日見た一人の少女の笑顔を思い出していた。




