010 生きる意味
痛い…………。
普段よりもだいぶ早い起床を経て、僕は私に戻って来た。
「…………眠い」
重い瞼を持ち上げ、いつもの五畳一間の部屋へと視線を向ける。
部屋にあるのは、使い古された中古の勉強机に、セットで2000円で売られていた椅子。その隣には、白樺の三段ラックが一つ。
閉じられたカーテンが抑えているのは、我慢の限界を迎えた赤ん坊のように体力と気力に満ち溢れた朝日が、もう間もなく産声を上げようとしている窓に仕切られたいつもの空。
これまた中古の、色が剥げて錆が浮き始めたスチール製のシングルベッドを軋ませて起き上がると、耳裏に差したプラグを雑に引き抜いた。
ここが私の現実。いつもの景色。
ベッド上のラックに伸びた黄色のケーブルをしばらく指の間で弄ぶと、唐突にプラグを放りだし、接続元の円盤状の機械『レムシス』の電源をオフにしてからベッドを降りた。
ここまで変わらない、不変の行動。そしてこれから続くのも、繰り返し変わらない今日の日常だ。
「おはようお父さん」
これもいつもの行動。
机の横に追加で設置したラックの一番上に置かれた小箱に手を当て、いつもの文句を口にする。
私は、きっと恵まれない子供なのだろう。
私が産まれた時に母は無くなった。そして父は、男手一つで私を育ててくれた。
転機が訪れたのは今から四年前、私を育ててくれていた父の事業で大失敗が起きた。そこからの私の人生は、ひたすらの下り坂だった。
均一に刻まれた階段もなければ、バリアフリーの手すりもない。地面はつるつるに磨かれた大理石のようで、転がり落ちる私を受け止めてくれるものは何もなかった。
下り坂を降り切った先にいた父は会社を失い、酒とギャンブルの沼にはまっていた。その後はよくある話である。
膨れ上がった借金と、現実に縛り付けられた素面の己に追い詰められた父は、私を慰めの道具にした。
十二歳の一人娘の体を欲するなど、よっぽどだったのだろう。私の純潔は、父の手によって散らされた。
その後は、父が堕落した後に知り合ったという男たちに好き勝手された。それが金になったらしい。男たちに乱雑に扱われたその隣の部屋で、父は大層楽しそうに笑い、心底愛おしそうに高い酒に口づけしていた。
毎日毎日、昼は学校でイジメに耐え忍び、夜はベッドの上で振るわれる腰と拳に耐え続ける。赤と白に染められた私の日常に変化を与えたのは、たった一振りの刃こぼれした包丁だった。
父曰く、それは私が産まれる前に母が料理に使用していたという遺品の一つだという。
家には、顔も記憶もない私の母の思い出がたくさん残っていた。その一つだったという、特段それが何だという何の変哲もない包丁。それが、その時の私のたった一つの支えだった。
気づいた時には、周囲は朱に染まっていた。私の血ではない。私の体は今更、何処にナニを入れられても血など出ない身体にされていたのだから。
瞼を閉じると、あの日の光景がよみがえって来る。
「貴方は、今日も地獄で楽しんでいるのかな。大丈夫、私もすぐそっちに行くから」
いつもの語りも済ませて支度を始める。寝汗で湿った寝巻を脱ぎ捨て、息苦しい制服に袖を通す。
「また痩せたかな?」
平均の身長に、平均のバストサイズ。いつもの私の体ではあるけれど、その下の腹部はまた一段と平べったくなっていた。肋骨が浮き上がった脇腹を、シャツの上から軽く撫でる。夏用の嫌いな白い長シャツに袖を通すと、昨日つけられた痣に触れて少ししみる。それ以上に、気持ち悪さに鳥肌が立った。
肌に触れるその感触が、あの日のベッドシーツに近いからだ。
私は気にしていないつもりだが、どうやらトラウマになっているらしい。下着の上からストッキングを通し、更にスカートをはく。夏場は暑くて蒸れるが、これはしょうがない。他人様に見せられる肌をしていない私には、これらは必要な装備だ。
準備はこれで終わり。化粧なんて面倒な事をする気は無いし、そんなものに金を使うくらいならコンビニの高級上げ底弁当を買った方が有意義というものだ。
築年数四十年を優に超えるアパートを後にして、いつもの登校ルートに足を乗せる。
――うるさい。
右も左も、同じ服を着た機械人形にも見える兵士候補者たちが、彼らの頭蓋骨の中身と同じ、中身のない会話をして盛り上がっていた。
――くだらない。
本当にくだらない。
この世界は、現実のこの世界は、本当に何もない。夢の中に広がるあの極彩色の地獄がどれだけ居心地よいか。
「オハヨー、川向サン」
「……………………」
声を掛けられた。しかし応える気は無い。相手は分かっている。
「おい、無視すんなし」
背中に衝撃と痛みが走り、視界がぐらりと大きく前に傾いた。どうやら、突き飛ばされたらしい。
ぐっとアスファルトが視界に広がった中でそれを理解した。
アンタも大変だね、毎日毎日人に踏みつけられて、雨に撃たれて、雪が上に腰掛けて来るんだから。耐えてるだけで十分凄いよ。
「これでも無視続けるっての? アンタさぁ、ちょっと調子乗り過ぎじゃない」
「…………別に」
調子がどうのこうのなんて、この世界を生きている奴らの話だろうに。
私はこの世界で生きていない。息をしているだけの死んでないだけの半亡者。それが現実の私。
「——ッチ! ざけんなよ、このブス!」
「オーオーなんだぁ、朝から喧嘩かぁ」
これはいつものではない。一体誰だ? そもそも、こっちに話しかけているのか?
自然とそちらに視線が向いた。
いつもなら地面ばかりを見ているはずの視界が、あの世界に似ていながら、肝心な部分がまるで違う、どこまでも贋作が蔓延った絵画の展示会のような曇り空が頭上を覆っているのを捉えた。
画材費をケチったせいで、この程度の作品しか作れませんでした。売れない画家が依頼者にそう口答えしているのを幻視する灰色の空に、それとは異なるものの、これまた安っぽい灰色のアスファルト。その間には、二人の男が立っていた。
制服を見るに、どうやら同じ学校の生徒らしいと分かる。赤茶髪の明るい男と、その隣にはどこか虚ろ気な瞳に黒の癖っ毛男子生徒。
どこかで会った事があっただろうか?
「ぁ、水無月センパイ、どうも…………」
赤茶の明るい方は、どうやら上の学年の生徒らしい。つまり、ネクタイの色が同じ虚ろな方も先輩という事だ。
「なぁ、東部。この前も行ったけどそんなつまんない事してんなよ」
男子生徒によって止められたいつもの光景は、こうして強制的に終了した。
学校の方は、まぁいつも通りだった。
決まった時間に授業を受け、隙間時間で空っぽな話がそこここで打ち上がる。それからまた授業。
長くて虚無が心を苛む昼休憩を越えて、午後の退屈な授業がまた再開。これで一日を終えて家に帰る。
しかし、朝に会ったあの虚ろな目。どこかで見た気がするのだが何処だっただろう。
うんうん記憶をたどりながら昇降口にやってきたその時、脳の裏っ側で火花が小さく散った。
「…………ぁあ、あの時の」
いつだったか、掃除の時間中にいつものメンバーに絡まれ、昇降口で転がった日があった。あの時にこちらを見ていたその目があれと同じだった。その隣には、あの明るい赤茶の髪の先輩もいた気がする。
「……って、何考えてんだか」
考え事など、碌な事がない。
「やっほ~川向さ~ん」
ホラ来た。
「………………どうも」
「何、もう帰るの? 校則で部活は強制でしょ」
偶然を装い、私の靴を蹴り飛ばしながら、いつもの頭が軽い兵士候補者がこちらに顔を近付けて来た。
香りの強い香水に、薄く塗られた化粧がこちらの五感を不快に撫でて来た。
近づくな。そう言いたい。香水も化粧も嫌いだ。
中学生を相手にするのは背徳感がある、とか言っていた男を思い出す。あいつは、シトラスの強い香水を私に掛けて来て、好き勝手に化粧を施してからベッドに押し倒して来る変態だった。
とは言っても、あれはまだ甘っちょろい相手だったなぁ。なんて、今日はずっと何かを考えている。
「水泳でもやればいいんじゃない。アンタ、ずっと見学してて運動不足っしょ」
水泳なんかできるわけないだろ。制服で何とか隠せているが、こちとら体中に刺青を入れられてるんだぞ。
『君は美しい。まだ誰にも耕されず、手が施されていない最高の花壇だよ』変態客の中の一人が、興奮と共に私の足に針を突き刺した時に吐いていた言葉だ。無理矢理掘られた花々が、私の体を栄養に満開に、それはもう誇らしげに咲き乱れている。おかげで、夏服は薄くて風に煽られる時にいつもヒヤリとさせられる。ストッキングの下、ふくらはぎの辺りで花開いたカーネーションや、内太もものイランイランなどがバレるわけにはいかない。
「泳げないので」
「じゃあテニスは? アタシが、やさ~しく教えてあげるよ」
飛ばされた靴を拾おうとしたところで、更に蹴り飛ばされた。靴は出入り口の扉付近まで転がり、もう偶然では済まされないまでになっていた。昇降口周囲はまだ多くの生徒がいる。これを見れば、教師を呼ばれかねない。
助けられるわけでもないのに、彼らは口出しをするだけして来る厄介者どもだ。あれらが来る前に、さっさと退散しなければ。
靴を履かずに扉前まで移動して、ひっくり帰った靴を拾い上げる。
「運動、嫌いだから」
「……アンタさぁ、ちょっと調子乗ってない」
どいつもこいつも、調子チョウシちょうしchoshi………………。バカかこいつら。いや、馬鹿どころか脳無しなんだった。こいつらは何も考えてやしないんだ。ただ今が楽しければそれでいい。その結果が、コレである。
「………………」
「だんまりかよ。ああそうですか。そういや最近アンタに教育してなかったもんね。それで調子乗っちゃったかぁ」
さてどうしよう。逃げるにしてもコイツは腐っても運動部。逃げられないなぁこれ。
「お前もか渡会。揃いも揃って何やってんだ」
「ゲッ、水無月センパイ」
朝聞いた声が、またも背後から聞こえて来た。この人、なんでこんなに私に関わろうとするんだ?
「そんな元気あるならさっさと練習場の準備しておけ」
「わ、分かりました……」
さっきまでの上からの物言いから一転、学年が上だからという理由だけで、急に小動物のようにおとなしくなった。
まったく、これだから現代社会は。なんで年上は問答無用で敬わなければならない? その選択はこちらにあるはずだろうに。
人間は、こうして考えるという事を忘れていくのだろう。
「ったく…………すまないな、次からもっとちゃんと見ておくよ」
「………………別に」
どうでもいい。
いじめも売春も。刺青も開発も。前科も孤独も。私にはどれも同じ事でどうでもいい事なのだ。
「ミナ、あんまり後輩を虐めるなよ」
「虐めてたのはあいつらの方だろ。さっきの見てなかったのかよトウヤ」
どうやらあの虚ろな目の先輩も一緒だったらしい。視界の外に居て気付かなかった。
「…………………………」
「アンタ名前は?」
声まで掛けられてしまった。
「おんや~、どうしたトウヤ珍しいじゃん」
明るい先輩は、人好きの笑みを浮かべながら、虚ろな目の先輩の方に腕を置いて体重をかける。それを迷惑そうにしながら、虚ろ先輩の真っ黒な視線は私に向けられ固定されていた。
「川向、榀…………です」
初めてだ。無意識に敬語が出たのは。
両親は勿論、客もあれらも教師たちですら、私は必要に応じて、意図的にしか敬語は使った事がない。
「先輩の、名前は?」
「三浦燈夜…………」
「そう、ですか………………」
「…………………………」
「…………………………」
互いに無言で見つめ合う。
私の全てが吸い込まれてしまいそうな、ブラックホールのようなその瞳から視線が外せなかった。
向こうもそうだといいな。なんて、そんな事を柄にもなく思ってしまっている自分がいた。
視線を交えて同じ時間を共有したい。もっとそばに彼を感じてみたい。普段何を感じて考えているのか私に話してほしい。どんな趣味で、どんなことが苦手なのかを知りたい。
………………今日は何か変だ。
いつも以上に何かを感じて、何かを考えている。こんな事は、産まれてこの方あった事が無い。
「………………あの~お二人さん?」
「あっ、と……なんか、すみません」
「いえ……えと、しつれいします…………」
こんな感覚は初めてだ。
あの人は、本当に人間なのだろうか。今を生きる現代人、なのだろうか。
父に体を弄ばれた時以上に、初めて客が私の部屋に入って来た時以上に、心臓が強く大きく跳ね上がっていた。




