8.名前の向こう側
8.名前の向こう側
__翌朝。
星那はほとんど眠れなかった。
窓の外では、朝の海が静かに光っている。
制服へ着替えながらも、昨日の母との会話が何度も頭を巡っていた。
__『また、消えるかもしれない』
その言葉だけが、胸に刺さったまま抜けない。
洗面台の鏡を見る。
ひどい顔だった。
目の下が少し赤い。
「……どうしよう」
小さく呟く。
昨日までは、ただ確かめたかった。
冬雪が“ゆき”なのか。
でも今は違う。
もし本当に同じ人なら。
もしまた消えてしまうなら。
自分はどうしたらいいんだろう。
それでも。
__ちゃんと話したい。
そう思った。
八年前のこと。
自分がずっと覚えていたこと。
“ゆき”を探していたこと。
全部。
ちゃんと冬雪へ伝えたい。
隠したまま一緒にいる方が、苦しかった。
学校へ向かう道。
潮風が強い。
いつも見慣れている海なのに、今日は少し遠く感じる。
教室へ入ると、冬雪はまだ来ていなかった。
星那は小さく息を吐き、自分の席へ座る。
すると。
「せなー」
後ろから声が飛んできた。
振り返ると、親友の的場希美が立っていた。
明るい茶髪を揺らしながら、じっと星那の顔を覗き込んでくる。
「……顔死んでるけど」
「そんなことない」
「ある」
即答だった。
希美は星那の隣へ座る。
「最近ずっと変じゃん。転校生来てから」
星那の肩が小さく揺れる。
「……分かりやすい?」
「めちゃくちゃ」
希美は呆れたように笑った。
「ていうか、星那普段そんな顔しないもん」
「そんな顔って?」
「今にも泣きそうな顔」
その言葉に、星那は返事ができなかった。
図星だった。
希美は少しだけ真面目な顔になる。
「……志水くんのこと?」
星那はゆっくり頷く。
教室にはまだ人が少ない。
窓の外から波の音が微かに聞こえていた。
「私ね」
星那は小さく口を開く。
「昔、あの人に会ったことあるの」
希美が目を瞬かせる。
「え?」
「八年前」
静かな声。
「星祭りの日に」
星那は少しずつ話した。
裏山で出会ったこと。
“ゆき”と名乗っていたこと。
次の日には消えてしまったこと。
誰も覚えていなかったこと。
ずっと探していたこと。
希美は途中で茶化したりしなかった。
黙って、ちゃんと聞いてくれていた。
全部を聞き終えると、希美はしばらく黙る。
そして。
「……そっか」
小さく呟いた。
「だから、あんな顔してたんだ」
星那は制服の袖を握る。
「冬雪くん、覚えてないんだよ」
その名前を口にした瞬間、自分で少し驚く。
昨日から、自然に“冬雪くん”と呼んでいた。
希美はその変化にも気づいたみたいだった。
「でも、少しずつ思い出してる気がして」
星那は続ける。
「夢とか、言葉とか」
『……君も、逃げてきたの?』
あの日と同じ言葉。
__ラムネ。
__星の海。
__全部。
少しずつ繋がっていく。
「だから今日、話そうと思うの」
希美は静かに星那を見る。
「八年前に会ったって?」
「うん」
「……そっか」
希美は小さく息を吐いた。
それから少し迷うように視線を落として、やがて言った。
「でもさ、星那」
「え?」
「一個だけ、ちゃんと考えた方がいいと思う」
教室へ朝日が差し込む。
希美の表情は真剣だった。
「星那が見てるのって、“ゆきくん”じゃない?」
その言葉に、胸が小さく痛んだ。
「……え」
「もちろん同じ人かもしれないよ?」
希美は慌てず続ける。
「でも、今ここにいるのは“志水冬雪”でしょ」
星那は息を呑む。
「星那、ずっと“昔のゆきくん”探してる感じする」
優しい声だった。
責めるわけじゃない。
ただ、心配している声。
「だからさ」
希美は窓の外を見る。
「今の志水くん、ちゃんと見てあげないと可哀想」
その言葉が、胸へ静かに落ちる。
星那は何も言えなくなった。
確かに。
自分はずっと、“ゆき”を探していた。
冬雪を見ながら。
過去を重ねて。
思い出ばかり追いかけていた。
でも。
最近少しずつ知った。
猫に優しいところ。
海を見る横顔。
静かに笑う顔。
夢の話をする時の寂しそうな声。
それは、八年前には知らなかった“冬雪”だった。
希美は小さく笑う。
「話すのはいいと思う」
「……うん」
「でも、“ゆきくんだから好き”になっちゃ駄目だよ」
星那の胸が強く鳴る。
「ちゃんと、“今の志水冬雪”を好きにならないと」
その言葉に、顔が熱くなる。
好き。
その言葉を、まだ自分の中で認めたことはなかった。
でも。
否定もできなかった。
希美は立ち上がりながら言う。
「ま、たぶんもう遅い気もするけど」
「なっ……」
「顔見れば分かるって」
その時。
教室の扉が開く音がした。
星那は反射的にそちらを見る。
冬雪が入ってくる。
朝の光を背にした白い姿。
眠たそうな目。
でも。
目が合った瞬間、少しだけ柔らかく笑った。
その笑顔を見た瞬間。
星那の胸が、昨日までとは違う意味で苦しくなった。
__ああ。
自分はもう。
“ゆき”だけを見ているわけじゃない。
ちゃんと、“冬雪くん”を見始めている。




